実は最初の天下人!? 三好長慶、やる気をなくした理由は燃え尽き症候群?

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けっこう実力があるのにいまいち影が薄い三好長慶(みよしながよし)。部下が「あの」松永久秀(まつながひさひで)だからでしょうか?

しかしこの人、戦国時代で最初の天下人とも言われているくらいの実力者なんですよ。しかも実はかなり能力のある方で…。ただ、晩年はとても精神的に不安定だったそうです。どうしてなんでしょうか?

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管領に翻弄された少年時代

大永2(1522)年、阿波(徳島県)の戦国武将・三好元長(みよしもとなが)の嫡男として誕生した長慶ですが、少年時代はかなり苦労したんですよ。

父・元長は管領(かんれい)の細川晴元(ほそかわはるもと)の家臣だったんですが、晴元の政敵・細川高国(ほそかわたかくに)を滅ぼすという功績を挙げました。しかし、元長が力をつけるのを嫌った晴元と、元長と仲の悪かった同じ三好一族の三好政長(みよしまさなが)らは共謀して一揆を起こさせ、元長を暗殺してしまったんです。き、きたない…!

このため、長慶は母と本拠地の阿波へ逃げなくてはなりませんでした。

父を暗殺した一揆ですが、収拾がつかなくなり、享禄・天文(きょうろく・てんぶん)の乱という大乱に発展してしまいます。

すると、細川晴元は何を思ったか、まだ12歳の長慶を引っ張り出し、仲介役として和睦を結ぼうとしたんですよ。さっき父を殺しておいて何を考えてるのか…と思いますが、長慶もこれを受け入れて使者となり和睦を取りまとめたというんですから、長慶の心中も読めませんよね。しかも12歳といったらまだ6年生か中1。どれだけ才能あったのかと思いますよ。

そして間もなく元服すると、なんと、長慶は父の仇でもある晴元の下に戻り家臣となったんです。

晴元の家臣の口添えがあり、長慶がまだ若すぎるので許してやったらという声もあったため、晴元は意外とあっさり認めちゃったみたいなんですよ。あ、甘い…!

おそらく腹の中には復讐心があったことでしょうが、こうして長慶は晴元に仕えることとなりました。

この直後、まだ収まらなかった一揆をわずか15歳にして全滅させています。武将としての能力もあったんですね。交渉事にも戦にも、大器の片鱗を見せ始めていたんです。ただ、晴元は全然気が付いてないみたいですが。

やっぱり細川晴元と対立

晴元の家臣としての長慶の働きは、群を抜いていたようです。

この頃、室町幕府将軍・足利義晴(あしかがよしはる)が、晴元のかつての政敵・細川高国の親類・細川氏綱(ほそかわうじつな)と連携し、晴元に敵対しますが、ここで長慶は彼以上に武勇を誇る出来のいい弟たち(三好実休/みよしじっきゅう・安宅冬康/あたぎふゆやす・十河一存/そごうかずまさ)らの助けを借りて将軍一派を近江に追放しました。

この功績は大きく、長慶は晴元配下の武将の中ではいちばんの実力を誇るようになったんですよ。

そして月日は流れ、長慶が晴元と対立する日がやって来ました。

きっかけは、同じ三好一族でありながら父・元長を排除した三好政長を追討したいと申し出るも(理由は諸説あり)、晴元に却下されたことでした。

晴元が政長を庇うならば、晴元も敵! というわかりやすい論理により、長慶陣営は政長もろとも晴元も討つことを決定します。

そして、晴元とかつて敵対した細川氏綱を引っ張り出し、挙兵したのでした。

長慶と弟たちの勢いに太刀打ちできるはずもなく、政長は討ち取られ、晴元は将軍・足利義輝(あしかがよしてる)らと近江へ逃亡していったんです。

三好政権誕生、事実上の天下人に

晴元の後釜として、管領に細川氏綱を据えた長慶は、わずか29歳にして政権を牛耳ることとなりました。管領は傀儡、将軍は近江に逃亡して不在でしたから、政権を担うのは彼しかいなかったんです。事実上、三好政権の誕生でした。これが、一説に彼が最初の天下人と言われる所以なんです。

近江に逃げた将軍・義輝や晴元は、ちょくちょく暗殺者を長慶のところに送り込んだり、小競り合いを仕掛けてきたりしましたが、そんなことは意に介さず、長慶は彼らとの和睦交渉を進めたんです。なんか、ちょっかい出してくる子供を軽くあしらってる感がありますが…。長慶が大人に見えますよ

とにかく、こうして和睦が成立すると、晴元は氏綱に細川家の家督を譲り出家、義輝は京に帰還します。これ以後、長慶は将軍直属の家臣となりますが、細川家も将軍も何するものぞ、と言った感で実権は握り続けました。

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寛大すぎる! 晴元が何をしても許す

さて、やっと丸く収まったかに見えた長慶と将軍・義輝&細川晴元ですが、晴元はやっぱりまた反抗して挙兵します。懲りてないですね。そして義輝もそれに呼応します。この人も懲りてません。ただ、やっぱり長慶にあっさり負けて近江に逃げていきます。何をしてるんでしょうか、この人たち…。

しかし長慶は、またも両者を許すんですよ。和睦を取り付けると、義輝が帰京した際には出迎えにまで行っているんです。晴元も殺さず、人質になっていた彼の息子も殺さずに自分の下で元服させてやるなど、異様に寛大なんですよ。絶対ウラで何か考えてるはずと勘ぐりたくなりますが、そうでもなかったみたいで、本当に長慶は「いい人」だったような気もしてきます。

こうして政権基盤を固めた長慶は、畿内(京都・大阪近郊一帯)をほぼ手中に収め、将軍と管領にも睨みをきかせるという、まさに天下人という地位にのぼりつめました。当時、長慶に対抗できる勢力は関東で全盛を迎えた北条氏くらいのものだろうと言われたほどです。

ただ、これでほぼ長慶の目標は達成されたわけですが、達成されてしまったために、長慶は次の目標を見失ってしまったようなんですよ。

つまり、彼は燃え尽き症候群みたいな状態になってしまったみたいなんです。

すべてを手に入れはしたものの、何だかむなしい、やる気が出ない…。

そして、長慶に悲報がもたらされたのでした。

弟たちの死、精神的不安定と最期

永禄4(1561)年、弟のひとり・十河一存が急死してしまいます。まだ30歳の若さでした。「鬼十河」とまで呼ばれた猛将の死により、三好勢力は一気に戦力ダウンとなった上に、一存が支配していた地での権力基盤が揺らぎます。

悪いことは続くもの。

三好実休:Wikipediaより引用

一存の死に付け込んで攻め入った敵との戦で、弟・三好実休が戦死してしまったんです。

その上、長慶の嫡男・義興(よしおき)もまた、22歳の若さで突然亡くなってしまったんですよ。これがたった3年の間に起きてしまったんです。

後継と目した息子、頼りになる弟2人をあっという間に失い、その上燃え尽きかけていた長慶は、この頃から一気に精神状態を悪化させていったのでした。

その精神状態の悪化が、さらなる悲劇を招きます。

安宅冬康:Wikipediaより引用

なんと、長慶は最後に残った弟・安宅冬康を誅殺してしまったんですよ。実休と一存亡き後、兄を支えてくれていたというのにいったいなぜ…? というところですが、実は、三好家の家宰であり後に戦国一の梟雄とまで呼ばれるようになった家臣・松永久秀の讒言があったとも言われています。

松永久秀:Wikipediaより引用

本来ならそんなものを信じるはずもない長慶ですが、相次ぐ肉親の死によってうつ状態にあり、まともな判断ができなくなっていたのかもしれません。

冬康を殺してしまった後、長慶は久秀の讒言に気付いたとされていますが、後の祭りでした。

この事件が、弱っていた長慶に最後の一撃となったのでしょう。

同じ年に、長慶は43歳で病没したのでした。

彼の跡を継いだのは、一存の息子だった義継(よしつぐ)。

若い当主は、重臣である三好三人衆と松永久秀に補佐されることとなりましたが、もはや長慶の頃の勢いはありませんでした。

一族の結び付きが強く、それに頼った軍事力でもあったため、それにほころびが生じたため、坂道を転げ落ちるように三好氏は弱体化していったわけです。

天下人となった長慶ですが、その力は義継の代で消え失せる運命にあったのでした…。

まとめ

  1. 少年時代は権力争いに翻弄された
  2. 主にして仇の細川晴元とはやはり対立した
  3. 三好政権樹立し、事実上の天下人となった
  4. 晴元を何度も許すなど寛大さがあった
  5. 肉親の相次ぐ死と燃え尽き症候群により精神を病み、亡くなった

30代でほぼ天下人となった長慶。その能力のすごさは年齢だけ見てもわかります。

しかし、あまりに早い権力の掌握というのも善し悪しだなと感じました。

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