戦国時代ですから、暗殺は当たり前のように行われていました。
中には、理不尽にも一族まで殺されてしまうパターンがあったんですよ。
そんな悲劇に襲われたのが、城井鎮房(きいしげふさ)。
黒田孝高(くろだよしたか/官兵衛、如水)・長政(ながまさ)父子の謀略の最大の犠牲者でした。
その最期の悲惨さは、知ったら必ず憤りを覚えるはず。
では、悲劇の戦国武将・城井鎮房の生涯をご紹介しましょう。
本家は宇都宮氏

鎮房は「城井鎮房」とも「宇都宮鎮房」とも呼ばれます。
これは、城井氏の本家筋が宇都宮氏に当たるためです。本家は下野(栃木県)を本拠地としていますが、傍流が豊前(福岡県東部、大分県北部)に入り豊前宇都宮氏となりました。豊前宇都宮氏は城井谷城(きいだにじょう/豊前国中津郡城井郷、福岡県みやこ町)を拠点としたため、後に城井氏を名乗るようにもなったんですね。
天文5(1536)年に城井谷城主・城井(宇都宮)長房(きいながふさ)の息子として、鎮房は生まれました。最初は「貞房(さだふさ)」でしたが、ここでは鎮房で統一します。
父・長房は、自分の領地の統治よりも本家の下野宇都宮氏の方が気になっていたようで、ちょうどこのころ争いごとが起きていた本家の方にばかり首を突っ込んでおり、本国のことはほとんど何もしなかったようです。それって普通に問題ありだと思いますが。
父に代わって家の舵取り
こんな風に父が何もしないので、鎮房は若い頃から本国の統治を一手に引き受けていました。
この頃は周防(山口県)の大内氏が全盛を迎えており、鎮房は、最初は大内義隆(おおうちよしたか)に従属していました。
しかし義隆は道楽殿サマだったので、元愛人の陶隆房(すえたかふさ/陶晴賢)に下剋上されてしまいます。

大友義鎮:Wikipediaより引用
そのため、鎮房は、その後大内家をほぼ乗っ取り勢力を伸ばしてきた大友義鎮(おおともよししげ/宗麟)に主を鞍替えしました。この時、義鎮の妹を妻にもらって姻戚関係を結び、ついでに名前の一字をもらって「鎮房」となったんです。
ただ、天正6(1578)年に大友氏が島津氏に耳川の戦いで大敗すると、大友氏の力は一気に衰退します。そこで鎮房は次の主を島津に変えたのでした。
このようにして、鎮房は乱世の中で家を守っていたんです。鎌倉以来の大事な城・城井谷城も敵に攻め落とされることなく続いていたのでした。
暗雲:秀吉の登場

ところが、天正14(1586)年になると、天下取りを目指す豊臣秀吉が島津氏に対する九州征伐の大軍を派遣してきます。城井氏は秀吉に従う態度を見せましたが、ここで鎮房は病を理由に従軍せず、息子に任せてしまいました。これがどうも、秀吉の不信を招いてしまったようです。
そのため、九州征伐が完了し、領地の再分配が行われると、鎮房はなんと伊予(愛媛県)への領地替えを命ぜられてしまいました。
海のすぐ向こうとはいえ、やっぱり海の向こう。しかも、鎌倉以来の先祖が守り続けてきた地を他の者に渡すのは絶対にイヤだ!ということで、鎮房はこれを拒否します。まあね、わからなくはないですよ。だって400年くらいこの場所で続いてきたんですもんね。

小倉色紙:Wikipediaより引用
加えて、鎮房の態度が気に入らなかったのか、秀吉は鎮房所蔵の「小倉色紙」を渡せと言ってきたんですね。これは、鎮房のご先祖・宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)が藤原定家(ふじわらのていか)に小倉百人一首を選んでくれるようにと依頼したときのもので、家宝中の家宝だったわけです。
もちろん、鎮房はこの要求も断固拒否しました。まあ、これもわかりますよ。風雅なんぞわかるわけもないヤツ(秀吉です)にあげるなんて、屈辱以外の何物でもないわけですから。
しかし、秀吉はもうほぼ天下人。逆らうのは死を意味します。
そして、秀吉にこの地を与えられてやって来た黒田孝高・長政父子にも、鎮房は反発したのでした。
秀吉、そして黒田父子へ反旗
一応、鎮房と秀吉の間を取り持とうとしてくれた人はいたんです。なので、鎮房はいったん城井谷城を明け渡しました。
ところが、やっぱり鎮房が気に食わない秀吉が「やっぱり本領安堵なんてしてやらん!」となったので、鎮房は「どういうことだよ(怒)!」と怒り、なんと城井谷城を奪回して反旗を翻してしまったんです。そして、鎮房に呼応した土着の豪族たちも蜂起したんですよ。
鎮房がおとなしく領地替えに従っていれば良かったんじゃない?と思う方もいらっしゃるでしょうが、鎌倉以来の土地とそれを守ってきた武家のプライドってやつを打ち砕かれることは、現代の私たちの想像以上に我慢できないことだったんだと思います。

黒田官兵衛:Wikipediaより引用
しかし鎮房が相手にするのは黒田孝高、戦国トップクラスの智将です。孝高は長政に自重を求めたんですが、血気盛んな長政は我慢しきれず、鎮房に攻撃を仕掛けてきたんです。
城井谷城は天険の要害であり、周りは山に囲まれていました。鎮房は地の利を生かしてあちこちに陣を設け、長政の兵たちを待ち伏せして一気に叩きます。鎮房自身も剛勇の将として、また弓の使い手として知られていましたから、存分に腕を見せつけたんでしょう。
これで長政軍はこてんぱんにやられ、長政は坊主になって父に詫びたという話があります。

後藤基次:Wikipediaより引用
で、このとき後藤基次(ごとうもとつぐ/又兵衛)に「そんなんでいちいち坊主になってたらたまんねーよ」的なことを言われてたり。
しかし、いくら局地的に勝ったとはいっても、籠城戦になるわけです。そのため、和議を結んだ方がお互いに得策だということで、鎮房は本領安堵と引き換えに娘の鶴姫(つるひめ)を人質に出し、和睦が成立したのでした。
うごめく陰謀
鎮房の方は、本領安堵という大きな条件を得ての和睦でしたから、これでどうにかなると思っていたかもしれません。
しかし相手は黒田孝高。そう素直に和睦を呑むとは思えませんよね。
そしてその通り、彼はまだ鎮房に対して少しも油断はしていなかったんです。
孝高は、引き続き肥後(熊本県)で起きていた一揆を鎮圧するために領地を離れますが、その際、息子・長政にある策を授けていたのでした。

黒田長政:Wikipediaより引用
天正16(1588)年4月のこと、鎮房は長政に中津城(なかつじょう)へと招かれます。
さっそく赴いた鎮房ですが、なぜか家臣たちは城下の合元寺(ごうがんじ)に留め置かれ、城に入れたのは鎮房とわずかな供だけでした。
そして、宴の最中に鎮房は暗殺されたんです。もちろん、供も殺されました。
黒田の兵は合元寺も急襲し、主の帰りを待っていた鎮房の家臣たちを皆殺しにします。
その上、さらに多くの黒田方の兵がほどなくして城井谷城にも押し寄せ、鎮房の父・長房を殺し、一族をことごとく誅殺してしまったんです。
悲劇はそれだけではありません。
肥後の一揆を鎮めに行った黒田孝高に従っていた鎮房の嫡男・朝房(ともふさ)はそこで殺され、黒田家の人質となっていたわずか13歳の鶴姫とその侍女たちははりつけにされて処刑されてしまったんですよ。
なんという悲劇の連鎖…!
鎮房の家臣たちが奮戦むなしく殺された合元寺の白壁には、彼らの血しぶきが一面に残っていました。そしてその血しぶきは、何度壁を塗り替えても浮き出てきたそうです。そのため、寺は壁を真っ赤にしたのだとか。今でも合元寺にはその壁が残されています。また、当時のすさまじい戦闘をしのばせる刀傷がついた柱もあるそうですよ。
鎮房たちの無念
この殺戮としか言えないような悲劇は、黒田家側の歴史書には「鎮房が手勢を率いて突然中津城にやってきたため、孝高の不在時にこうしたことは無礼だとして、長政たちが誅殺した」と伝わっています。
でも、どう考えたって騙し討ちの正当化ですよね…。無理ありすぎ。
黒田家側としてもこれはあまりに後ろ暗いことだったようで、後に彼らを祀った城井神社を建てています。しかし、その後長政の子孫には急死やお家騒動など不幸が連続し、後々まで「これは鎮房の祟りだ」と囁かれました。そりゃあ誰だって祟りますよ。
城井一族は皆殺しにされましたが、唯一生き残ったのが朝房の妻。彼女はその時みごもっており、生まれた子の子孫は江戸時代に越前松平家福井藩に仕え、明治維新まで続いたといいます。
まとめ
- 本家は宇都宮氏だった
- 若い頃から領地の統治を任されていた
- 秀吉の命による国替えを拒否し、不興を買う
- 新領主の黒田孝高・長政父子に反抗しゲリラ戦を展開
- 和睦が成立したのに、騙し討ちに遭い一族もろとも殺された
- 鎮房の祟りは後世までおそれられた
まさかあんな悲劇の主役になるとは、中津城へ足を踏み入れるまで思っていなかったのかもしれません。秀吉に従ってさえいれば違った道もあったのかもしれませんが、それにしても城井鎮房、かわいそうな最期でした…。
その合元寺を開基したのが空誉(くうよ)上人。
黒田の相談役だったのに、背中を斬られて溶けた鉛を流し込まれて、天神中央公園で処刑。
埋葬すら許されずに放置。
弟子が決死の覚悟で遺骸を大手門の浄念寺に持ち帰り、空誉堂を建立して供養。
原因は、後藤又兵衛の説得に失敗したとか、城井宇都宮家の法要を行ったとか、男色の忠之に小姓を差し出さなかったとか。
処刑後、智福寺跡地に水鏡天満宮が入って地名が天神に。
もう無茶苦茶…ヽ(`Д´)ノプンプン