酒さえ飲まなきゃいい奴なのに…福島正則、豊臣への忠義と残念な晩年

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「酒は飲んでも飲まれるな」、これ世間の常識です。

節度を守って楽しいお酒を飲んでもらいたいものですが、福島正則(ふくしままさのり)の場合はそうもいきませんでした。

桶屋の息子から豊臣秀吉子飼いの猛将へと成長した彼の、波乱万丈な人生をご紹介しましょう!

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桶屋の息子、秀吉は親戚!?

福島正則は、永禄4(1561)年に尾張(愛知県)の桶屋の息子として誕生しました。母親が豊臣秀吉の生母・大政所(おおまんどころ)と姉妹だったとも言われており、幼い頃に秀吉の小姓となります。この経緯、後に何かとセットにして語られることの多い加藤清正(かとうきよまさ)と同じです。

 

少年の頃から腕っぷしが強かったのか、何とケンカの挙句にノミで人を殺してしまった…なんて逸話もあります。

そんな正則は戦場ではかなり勇猛を誇っていたようで、着実に戦功を重ねていきました。

「賤ヶ岳の戦い」での功績は高く評価され、加藤清正らと共に「賤ヶ岳の七本槍」と称せられています。

 

その後も秀吉の天下統一のための戦に従軍し、四国征伐や小田原征伐など主要な合戦にはいつも参加していました。

そして、九州征伐終了後には伊予今治(愛媛県今治市付近)11万3千石の領地を与えられ、桶屋の息子から立派な大大名となったのでした。

 

ここまでならめでたしめでたし…のサクセスストーリーで終われるんですが、正則の人生は秀吉の死を境に揺れ動くこととなるんです。

 

豊臣への忠義は人一倍、でも…

秀吉による朝鮮出兵にも参加した正則ですが、ここで豊臣政権内部での争いが表面化してきます。正則や清正など戦場での武勇を誇る「武断派(ぶだんは)」と、石田三成(いしだみつなり)らをはじめとした官僚勢力の「文治派(ぶんちは)」は、秀吉の死後特に対立するようになっていきました。

ついに武断派の面々は三成を襲撃しますが、この時に武断派をなだめたのが、秀吉亡き後の豊臣政権内での最重要人物・徳川家康だったんです。

いろいろ考えを巡らせるような人物なら、家康が天下取りの野望を持っていることなどすぐに見抜いたんでしょうが、そこは元来カッとしやすく単純な性格の正則のこと、いとも簡単に懐柔され、いつの間にやら徳川陣営寄りとなっていったわけです。

 

家康らが会津征伐に向かっている最中に三成が挙兵し、関ヶ原の戦いへとなだれこむことになりますが、この時開かれた会議の場でも、正則はいち早く家康側(東軍)への参加を表明しました。

もちろん、正則は豊臣家への恩が第一ですから、彼の論理としては「君側の奸(三成)を除くことこそ、いちばん豊臣のためになる」というわけですね。しかしこれ、黒田長政(くろだながまさ)にこんな風に説得されたためですし、きっと正則自身はごくシンプルに疑いなくそう思っていたんでしょう。その裏にある家康の考えには思い至らなかったんでしょうね…。

 

関ヶ原後の正則:徳川陣営との結び付き

関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用

そんな正則は関ヶ原の戦いでも存分に武勇を発揮しました。本戦では宇喜多秀家(宇喜多秀家)・明石全登(あかしぜんとう)隊と戦いを繰り広げ、大坂城の接収にも貢献したんです。

 

そうした功績を認められ、戦後は安芸広島(広島県)49万8千石という領地を与えられました。養嗣子の正之(まさゆき)の妻として家康の養女・満天姫(まてひめ)を迎え、自身も継室に家康の養女を迎えるなど、徳川との結び付きを強めたんです。ちなみにこの継室は相当な恐妻だったようで、浮気がばれた正則は、薙刀を持った彼女に追い掛け回されたとか。

 

正則は新しい領地でも善政を布いてそれなりの成果をおさめました。名君というイメージがない彼ですが、実はけっこう内政にも頑張っていたんですよ。

 

しかし、徳川陣営と密接な関係を持ちながらも、正則の胸には常に豊臣家への恩がありました。実質上、家康が政権を手にしてからも、彼は豊臣秀頼を見舞いに行ったり、上洛の説得に当たったりしています。

それゆえか、大坂の陣の際には、正則は江戸での留守居を命じられました。その一方で秀頼からの参陣要請を断るなど、徳川と豊臣の間で苦悩していた様子もうかがえます。

 

城を直して改易処分!?不遇の晩年

広島城:Wikipediaより引用

大坂の陣の後、正則の居城・広島城は台風に襲われてしまい、城の一部が壊れてしまいました。

江戸幕府が成立して武家諸法度が制定されてから、大名たちは城を申告なしに直すことを禁じられていたんです。そのため、正則も一応は届け出を出していました。しかし、許可が下りないうちに直し始めちゃったんですよ。

雨もりするのでやむなく修理したということなんですが、それでも時の将軍・徳川秀忠の逆鱗に触れてしまいました。

 

そして何と、正則は改易されてしまったんです。転封先は高井野藩で、安芸(広島県)から遠く離れた信濃(長野県)でした。石高も4万5千石にまで転落してしまったんですよ。

ここで正則は出家し、家督を息子・忠勝(ただかつ)に譲りました。しかし忠勝にも先立たれ、寛永元(1624)年、失意のうちに世を去りました。

 

正則の悲劇にはまだ続きがあります。

本来なら幕府に届け出てから火葬すべきところを、家臣が無断で火葬してしまったために、今度は領地を取り上げられるという改易処分が福島家には下されてしまったんです。それって正則のせいじゃないんですが…。その後、息子の正利が旗本に復帰しますが、彼には子がなく、結局お家断絶となってしまいました(一応、その後再び旗本になっています)。

 

正則の親友・加藤清正の家も、息子の不行状などで結局断絶しています。賤ヶ岳の七本槍としてブイブイ言わせていたころとは対照的な、哀れな末路ですよね…。

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酒さえ飲まなきゃ名君

さて、正則といえば酒のエピソードには事欠きません。

母里友信:Wikipediaより引用

黒田長政の家臣・母里友信(もりとものぶ)に、「この酒飲めたら何でも好きなものをやるぞ!」とのたまって酒を飲ませようとして返り討ちに遭い、天下の名槍「日本号(にほんごう/ひのもとごう)」を呑み取られたなんて話はいちばん有名です。

 

他にもひどいものがあって、酔っ払った末に家臣を切腹させてしまったことがありました。何も覚えていない正則は、酔いが冷めてからその家臣を呼びつけますが、出てきたのは切腹した彼の首だったという…。深く後悔した正則ですが、後の祭りでした。

 

こういうところがあるので、どうもいいイメージがないのが彼のかわいそうなところ。

しかし、酒がらみでいい話もありますよ。

関ヶ原の戦いの後、正則の家臣が幕府に献上する酒を積んだ船で八丈島の近くを通りかかったところ、そこに流された宇喜多秀家に出会って酒をめぐんでやったという話があります。家臣が「すみません」と詫びると、正則は涙を流して「よくやってくれた」と礼を言ったとか。

 

人情味あふれる人物だった

塙直之:Wikipediaより引用

また、大坂の陣で自分の名を書いた木札をばらまいた逸話で有名な塙直之(はなわなおゆき/塙団右衛門)という人物が、主の加藤嘉明(かとうよしあき)の元を出奔し正則のところに身を寄せていたことがありました。しかし加藤嘉明は奉公構(ほうこうかまえ)を出し、直之が他の家に仕えることができないようにしてしまったんです。そして、直之が福島家にいることを聞きつけると使者を寄越し、身柄の引き渡しを求めてきました。

そこで正則は、使者に酒をすすめまくって時間を長引かせ、この隙に直之を逃がしてやったんですよ。人情味あふれる話です。

 

彼の豪快な部分は、本当に「酒さえ飲まなきゃ」とても魅力的でした。

福島正則:Wikipediaより引用

江戸城の普請に当たっていた時のこと。

幕府の直参旗本たちが大きな顔をしており、福島家の担当場所に駕籠で乗り付けてはそれを置いて行ってしまい、仕事がなかなか進まなくなってしまいました。

困ったと訴える家臣たちに対し、正則は「それなら壊してしまえ!俺が許す」と言い、駕籠を壊させてしまいます。

それを知った旗本たちは使者を寄越し、暗に「詫びてよ」と言うのですが、正則はここでなかなか機転の利いた対応をしたんです。

「おやまあ、直参の旗本が工期を遅らせていたとは何とけしからん!使者どの、その名前を教えていただけるか?俺が成敗してやろう!」

これはまずいと使者は逃げ帰り、旗本たちもそれきり大人しくなったということでした。

 

こういう主なら、部下としても嬉しくなりますよね。

しかしそれも、「酒さえ飲まなきゃ」が前提ではあるんですが。

 

まとめ

  1. 桶屋の息子から秀吉子飼いの大名に出世した
  2. 石田三成と対立し、関ヶ原では徳川側に付いた
  3. 徳川との結び付きを強める一方で、豊臣家への恩は忘れなかった
  4. 無断で城を修理したことを咎められ改易されてしまった
  5. 酒さえ飲まなければ…という逸話が多い
  6. 人情味にあふれ、いい部分も多かった

 

正則についての逸話は本当に多く、それだけ魅力のある人物だったと言えるでしょう。人間、誰しも欠点はありますが…酒で分別をなくすのだけは、やめていただきたいですね。

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