偉大な父は尊敬の対象。
だけどやっぱりコンプレックス…そんな親子って珍しくないと思うんです。
戦国時代も、一族みんな揃ってデキる人物というのは稀でした。蒲生秀行(がもうひでゆき)も、そんな偉大すぎる父を持った息子のひとり。
おそらく、父へのコンプレックスと羨望、尊敬が複雑に入り混じった思いを抱いていたことでしょう。
そのせいなのか、彼はあまりにも若すぎる死を遂げたんです。信長にまで見込まれた父を持った彼の人生、じっくり解説していきますね。
偉大すぎる父・蒲生氏郷
蒲生氏郷:Wikipediaより引用
まずは、秀行の父・蒲生氏郷(がもううじさと)について簡単にご紹介しましょう。
蒲生氏は、「俵藤太(たわらとうた)」と呼ばれた豪傑・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む、鎌倉時代から続く名門武家でした。
そこに生まれた氏郷は、あの織田信長に器量を見込まれ、信長に元服の際の烏帽子親になってもらっただけでなく、信長の次女を娶るほど気に入られていました。
その武勇は信長の期待通りのもので、数々の戦で武功を挙げ、戦国屈指の勇将となったんです。
豊臣秀吉からの信頼も厚く、天下統一後は東北の入口である会津(福島県)91万石もの領地を任されていました。
そんな氏郷と信長の二女・相応院との間に、天正11(1583)年に秀行は誕生しました。この時すでに祖父・信長は本能寺の変で亡くなっています。
しかし、父に似ず秀行は生まれつき病弱な子供だったそうです。
そのため、父・氏郷は秀行の将来を案じ、京都の南禅寺に入れ、
「修行して武将の任に耐えられるくらいになれば世継ぎとしよう。そうでなければ、僧として寺で一生を送らせる」
と決めていたんですって。
父の急死…そしてお家騒動!?
ところが、文禄4(1595)年、父・氏郷は40歳の若さで急死してしまいます。
そのため、まだ13歳だった秀行が急遽家督を継ぐこととなりました。寺での修行はどうなったのか、その辺は不明ですが、とにかく跡を継げる男子は秀行しかいなかったんですね。
秀吉は氏郷を評価していましたから、秀行が蒲生氏の家督を継ぐと、徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)との婚約をまとめました。この3年後に2人は正式に結婚することとなります。
しかし、秀行の当主としての船出はとても厳しいものでした。
跡継ぎが若いとこうなりがちなんですが、お家騒動が起きてしまったんですよ。
若い秀行を補佐したのは、氏郷以来の寵臣・蒲生郷安(がもうさとやす)でした。氏郷が彼を重用し、有能であるために蒲生姓まで与えた人物です。
しかし、氏郷が生きている頃から、郷安と他の家臣たちは仲が良くなかったんですね。そのため、氏郷の死後に秀行の補佐という名目でほぼ政務を独占した郷安に対し、譜代の家臣たちは反発を強めたんです。
その対立の中で、郷安が敵対する一派のひとりを斬殺してしまうという事件が起きました。これで「郷安VS譜代家臣」という構図が鮮明化し、一触即発の事態となってしまったんです。
当然、まだ少年の秀行に何ができるわけもなく、蒲生氏は危うくお家断絶か…というところまでいってしまったんですね。
お家騒動の結果…大減封処分
ここで、秀吉が裁定を下しました。
意外にも、殺人まで犯したというのに、郷安は加藤清正の下に身柄を預けられるのみという軽い処分となりました。本来なら彼が死罪を命じられてもおかしくないですよね。
一方、重い処分となったのが、秀行だったんですよ。
「家臣の統率もできんとは…よろしくない! 」
とのことで、秀行は会津若松92万石の領地から、下野宇都宮12万石へ大減封となってしまったんです。
郷安が軽い処分で済んだのは、ウラで石田三成が一枚噛んでいたなんて話もありますが、詳細は不明です。まあ、時期が悪かったんですよね。もう少し秀行が成長していれば、強くモノも言えたのでしょうが…。お家を統率するって、並大抵のことじゃないんですね。
ちなみに、同時期に宇喜多(うきた)氏でもお家騒動が起きていますから、なかなか戦国大名の家内事情も厳しかったみたいですよ。
こうして会津から宇都宮へと移された秀行。
宇都宮での治世は短いものでした。ただ、何も功績がないとか言われてしまうので、ここでちょっと秀行の弁護をしましょう。
秀行は宇都宮城下の整備を積極的に行い、商人を誘致して商業振興に努めました。
蒲生氏の出身地・近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)から呼び寄せた商人たちを住まわせた場所は、現在も「日野町」という名前が残り、商店街となって続いているんですよ。
関ヶ原の戦い以降の秀行
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
宇都宮に移って間もなく、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが起きました。
秀行の正室は家康の娘ですから、当然、秀行は家康側の東軍に付くこととなります。父・氏郷は秀吉に信頼されていましたが、ここでは長いモノに巻かれないと生きていけませんし、仕方のない決断でした。
下野という土地柄、秀行は関ヶ原本戦には参戦せず、むしろ会津にいた上杉景勝(うえすぎかげかつ)の抑え役として国に留まり、牽制役としての務めをこなします。
家康の娘婿でしたし、こうした役割を評価され、戦後は上杉領から60万石を与えられ、会津に復帰を果たすことができました。
その後は徳川の一門衆としてなかなかの厚遇を受け、松平姓を名乗ることも許されています。
無能だとか言われてしまいますが、本当に無能なら厚遇はされなかったはず。そんな無駄なことをする徳川政権でもありませんしね。となれば、それなりに領地を治めることもできる人物だったのではないかと思いますよ。
父のような武勇はもはや必要ない時代が来ようとしていたんですから、これでいいと思うんです。
でもやっぱり繊細だった? 大地震の後に病没
しかし、慶長16(1611)年のこと。
会津地方をマグニチュード6.9とも言われる大地震が襲いました。「会津地震」です。
これによって会津領内には地すべりや山崩れが多発し、死者3,700人という大きな被害が出てしまいました。
秀行の居城も例外ではなく、天守が傾き、石垣はすべて崩れ落ちてしまったそうです。
領内の惨状は、おそらく、秀行の心に相当なダメージを与えたはずです。
心労かノイローゼか、はっきりとはわかりませんが、秀行はこれで体調を崩してしまい、地震の翌年に30歳の若さで亡くなってしまいました。
生来病弱だったこともありますし、何より、父と比べられることへの苦労やコンプレックスとの戦いも彼の心には負担だったんでしょうね。そして家康の娘を妻とし、それなりの働きをしなくてはならないという義務感ものしかかっていたのかもしれません。
そう考えると、ちょっと気の毒な感じもします。
蒲生氏短命の謎
氏郷は40歳、秀行は30歳という若さで亡くなってしまった蒲生氏ですが、実は秀行の息子や孫も短命だったんですよ。
秀行の長男・忠郷(たださと)は父の死により11歳で家督を継ぎます。しかし、母・振姫と家老が対立したり、家臣同士の争いがあったりと苦労もあり、26歳で病死してしまいました。
その跡を継いだのが、秀行の次男・忠知(ただとも)です。
本来なら忠郷が死んだ時点で跡継ぎが決まっていなかったためお家断絶となるところでしたが、振姫が徳川の娘ということで、特例で跡を継ぐことを許されたんですよ。ただ、またも家臣間の争いが起こり、やがて31歳で病死してしまったんです。
なんだかもう呪われた感がありまくりですが、まだ続きますよ。
秀行には娘・崇法院がいましたが、彼女は加藤忠広(かとうただひろ/加藤清正の息子)に嫁ぎ、息子・光広に恵まれました。しかしこの光弘もまた20歳で亡くなってしまうんです。
秀行の正室だった振姫は後に浅野氏に嫁ぎ、そこで生まれた子はけっこう長生きしていますから、蒲生氏の血筋が短命だったんでしょうね…。それにしても、あまりにもみんな早死にしすぎですね。
まとめ
- 父・氏郷は信長にも秀吉にも評価されたが、秀行は生来病弱だった
- 父の急死により家督を継ぐも、お家騒動が起こってしまう
- お家騒動の結果、大減封処分を受けた
- 関ヶ原以降は徳川陣営に属し、それなりに勤め上げた
- 会津地震の後、心労により亡くなってしまう
- 蒲生氏は代々短命だったらしい
やっぱり、偉大すぎる父の存在はどこへ行っても話題にされ、秀行としては辛い思いをしたと思います。
そんな苦労が知らず知らずのうちに積み重なり、彼の死期を早めてしまったのではないか…そう思いませんか?
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