その武将〇〇につき!戦国のプッツン、ストーカー伝説 坂崎直盛

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坂崎直盛といえば、徳川家康の孫娘の千姫を大坂城から救出した事件を思い出す人も多いのではないでしょうか。千姫を助けたもののこれがこじれてプッツン。徳川家に叛旗を翻すというトンデモない行動に出た武将です。

今回はその執念と強情っぷりをしばしご堪能ください。

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じつは宇喜多家出身

坂崎直盛のエピソードのほとんどは短慮な激情家、意固地で執念深いストーカー気質が表れたものです。何より怖いのは、プッツンしたら誰にも止められない、自分でも止まらない破れかぶれの破天荒っぷり!

戦国の困ったちゃんなのですが、そのルーツを聞けば思わず納得するかも!

 

直盛は坂崎と名乗っていますが、じつは備前、備中など岡山を支配した戦国大名の宇喜多家出身。そう、あの梟雄と名高い宇喜多直家の弟忠家の子、つまり直家の甥なのです。

 

直家といえば備前国守護代・浦上家に仕えると、敵対する豪族はもちろん自分の舅や婿などをだまし討ち、暗殺など陰謀を駆使して次々と消し、ついには主君である浦上氏を追放して戦国大名へと成り上がったまさに下剋上の謀略武将です。

 

その敵も味方も容赦ない謀略ぶりにはいくら戦国と言えどもひどすぎると悪評プンプン。弟でさえ「兄の前に出る時には鎖かたびらをして出かけた」とビビッたといわれるほど恐れられました。

直盛は、直家ほど悪逆ではないし、胆力もありませんが、傍若無人のトンデモ気質の素質だけは受け継いでいたようです。

 

宇喜多秀家と対立

宇喜多秀家:Wikipediaより引用

そんな直盛のプッツン伝説。まずは主家の宇喜多家にキレました。

直盛は若い頃は岡山の三星城攻めで功績を挙げたり、秀吉の高松城攻めにも従ったりと、武将として頑張っていたよう。直家の死後はその子秀家に仕えて、宇喜多家でほぼトップの24000石余りを領していました。

 

ところが従兄弟で主君の秀家とは仲が悪かったようです。

秀家は秀吉に可愛がられてチヤホヤされて育ったせいか、直家の子とは思えないぼっちゃん気質。直盛から見ればチャラチャラしたぬるい殿様と思っていたでしょう。

 

一方、秀家からすれば、先代から仕える地元の家臣たちは無骨で洗練されていないいけすかぬ奴。とくに一族気取りで気の強い直盛は何かと目障りな存在だったに違いありません。

秀家は自分の力を強めたいと譜代をないがしろにして、お気に入りの新参者を取り立てるようになりました。

 

なかでも秀家は、長船紀伊守と秀家の妻豪姫(秀吉の養女)に従ってきた中村次郎兵衛を重用します。

新参派(または文治派)の中村が石高増産のために検地を強行。直盛ら譜代派(または武断派)は在地から離されたり、領地を分散されたりして既得権益を奪われていきました。

直盛らからすれば彼らの専横が面白いはずがありません。

 

その怒りが1599年末に爆発します。

 

 

譜代派が中村の成敗を企てたり、中村の処分を秀家に迫ったりしたため、秀家は譜代派に激怒。譜代の首謀者とみた戸川達安を成敗してくれる!と息巻きます。

 

これを知った直盛はプッチーン。戸川を引き連れると大坂の自邸に立てこもり武装します。なんと直盛らは天下の大坂でついに主君に弓を引こうとしたのです。

 

この事件に豊臣家臣の大谷吉継や徳川家臣の榊原康政が介入してとりなそうとしますが、直盛はあげた拳を下し損ねて「こちらは何も悪くない。中村を連れてくればすむことだ」と突っぱねます。大谷や榊原も直盛の意固地さにサジを投げ、ついに登場するのがラスボス家康。

ラスボスにとって直盛の処置は赤子の手をひねるよりチョロイはずですが、ここは家康、老獪に直盛らをなだめて、騒動をおさめます。直盛は蟄居、他家預かりに。

 

家康は大坂を戦火に巻き込まずにすみ、宇喜多家としては無事騒動が収まり、直盛らは大坂で騒動を起こしながらも軽い処分ですましてもらい・・・と大岡裁きの三方一両損も上回る三方万事良しのお裁きかと思いきや、裏で一人にんまりしたのはじつは家康。

宇喜多家と直盛らに恩を売っただけにとどまらず、じつは宇喜多家の戦力を弱め、直盛らをこちらの陣営に引き入れることに大成功。きたるべき関ヶ原の戦いに備えて独り勝ちで何倍もの見返りを得たのは家康というオチ。家康怖い怖い。

 

もちろん直盛はそんなことを知る由もなく、たんに彼の意固地さが結果的に宇喜多家を弱めることになりました。

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甥の左門を狙い続けて8

その直後に起こった関ヶ原の合戦では、宇喜多秀家は西軍につきましたが、直盛は家康の東軍について武功をあげました。そして浜田、のちに津和野(島根県)3万石を与えられます。

 

直盛はなんと秀家にキレたのが奏功?して、浪人から独立した大名に大出世したのです。

この時に家康の命で宇喜多から坂崎へと名を改めています。

 

ただし、今日からあなたも立派なお殿様と言われても、人の性格や気質はそう簡単には変わりませんよね。

位が人を育てるという言葉もありますが、直盛の場合は正反対。ついにはプッツン気質全開では飽き足らず、ストーカー気質まで加わってしまいます。

 

ある時、直盛は自分の甥の左門が、自分の寵童と密通していることを知り、家臣にその童を斬らせました。しかしこれを恨んだ左門がその斬った家臣を殺して出奔します。

 

頭に血がのぼった直盛はプッチーン!左門を探し始めます。

 

その頃左門は祖父忠家のはからいで、直盛の姉(または妹)の嫁ぎ先伊勢の安濃津城主富田信高のもとに逃げ込んでいました。

余談ですが、信高の夫人(直盛の姉妹)は、武勇に優れた烈女として知られています。関ヶ原合戦の直前、徳川家康の東軍についた安濃津城が西軍に攻められた際、討って出た信高が追いつめられると、颯爽と駆けつけて槍を掲げて敵兵を一刺し、またたくまに十数人を薙ぎ払って夫を助けた武勇伝で有名です。

 

さて、左門が富田家にかくまわれていると聞きつけた直盛は、人を安濃津城にやって詰問しますが、もちろん富田家では「もうどこかへ立ち去った。行先は知らぬ存ぜぬ」の一点ばり。

すると直盛は自らが城に入って探索すると息巻きますが、主君の信高はここにいないので無理と断られると激昂。思い通りにならないと駄々っ子のように力づく、いえ武力行使に走るのが直盛のお約束。富田の家臣を捕えて人質にすると、信高のいる伏見へ引っ立てて行き、信高と一戦交えて刺し違えると息巻いたとか。

家臣に止められると、信高が罪人を匿っていると家康に訴え出ます。

 

家康は「またあいつ?面倒くさい」と秀忠に押しつけましたが、秀忠も証拠がないとムリと一蹴します。

 

ところが直盛は、こんなことで簡単にあきらめません。執拗に探し続けていたところなんと数年後、それを聞きつけた左門の家来の一人が、恩賞目当てに直盛のもとを訪れ、証拠を差し出します。

富田夫妻は左門を九州に逃がし、そのころは富田家の旧知の日向国延岡藩主高橋家のところにいたようです。富田夫人が左門に金子を送った手紙をこの家来が奪って直盛に届けたのです。

 

まさに8年という異常な執着が呼び込んだ土壇場KO! これを徳川家に差しだし、ほら見ろ。富田は罪人をかくまっていると訴え出ます。

こうなれば富田信高も呼び出されて公儀の前で直接対決。証拠がある以上、言い逃れはできず富田家は改易、さらに左門をかくまった高橋家や全く関係のない信高の弟まで改易されてしまいました。

 

左門も甥で、富田家も姉一家。殿様ともあろうものが一族を追い落としてでも自分の我を通そうとする異常な強情ぶり。

オレの意地さえ通りゃすべて良し!をモットーに、宇喜多家をふっとばし、憎い左門を匿った一族を追い落すというとんでもない破壊力です。戦国の人々には「この男、触るなキケン! 」とインプットされたことでしょう。

 

千姫事件でラスボスと対決

ところが直盛はこの破壊力で意外にも思い通りにしてきたため、その強情さはますますエスカレート。ついに禁断のラスボスに対決を挑んでしまうのです。

 

1615年、大坂の夏の陣で、難攻不落といわれた大坂城も徳川方の攻撃によりついに炎に包まれます。この城の中には豊臣秀頼の妻となっていた家康の孫娘千姫がいました。

 

家康が「千姫を助けた者には姫をくれてやるぞー」と下知したとも。孫可愛さについ口走ったのかどうか。どちらにしても千姫を助ければ恩賞はもらえるという忖度は誰にも働いたでしょう。

この時は直盛の直情的な性格はプラスに働いたよう。「よっしゃー」と後先考えずに炎に包まれた大坂城に飛び込んで、火傷しながら千姫を助け出したとか。約束通り家康は直盛に千姫を嫁がせようとしますが、彼女はオッサンでしかも火傷のあとがある直盛を嫌って結婚を拒みます。どうしてもと言うなら尼になるとまで言い出します。

本多忠刻:Wikipediaより引用

そして彼女が選んだのが姫路城主の本多忠刻。相手がイケメンというのが悪かった。これを根にもち直盛は騒動を巻き起こしたと言われています。

 

ただし、実際は大坂城に飛び込んだのではなく、城から出てきた姫を送り届けた、あるいは仲介したというのが真相のよう。しかも家康は直盛に嫁にやると言ったわけではなく、公家などの再嫁先を探してほしいと依頼したと言われています。

 

直盛は再婚先を見つけて話をまとめますが、千姫はやはり「結婚する気がないから」と断ります。秀頼とのことを考えれば、再婚する気にならないのも当然かと、直盛もあきらめようとしました。

ところがどっこい自分に挨拶もなくイケメン本多忠刻と再婚。

これでは再婚先の斡旋をした直盛の面目も丸つぶれです。

 

しかし相手は家康の孫。しかも直盛は千姫を助けた功績で1万石加増されています。普通の武将であれば、そこはぐっとこらえてニッコリ「おめでとう」と言うものなのですが、その「ぐっと」も「ニッコリ」もできないのが直盛。

「ワシの面目丸つぶれだ!どうしてくれよう」と息巻き、桑名に行く千姫の駕籠を奪う!と言いだしまたまたストーカーに豹変。

それが難しいと分かると武装して屋敷に籠り、一戦を交えるぞと意気込みます。

 

最後は家臣がキレた?

こうして直盛、何を勘違いしたのかラスボス徳川家にストーカー。相手にとって不足なしでも、しょせんはかなうはずもない一人芝居。

 

負い目がある徳川家も騒動を起こした直盛が素直に自害すれば、家は子供に継がせてやると伝えます。しかし跡目のことを考える武将であれば、そもそもこんな無理な騒動は起こしませんよね。直盛は突っぱねたばかりか、一説によるとこの時、わが子を殺したとも。

 

もうハチャメチャ。今度プッツンするのは、家臣たちでしょう。殿様は良くても、自分たちにとってはそりゃないよーと、ついには直盛を殺したともいわれています。もちろんラスボスが家臣たちに裏から手をまわしていたともいわれていますが。

あるいは直盛と旧知の柳生宗矩が使者として使わされ説得し、直盛を切腹させたともいわれています。

 

 

直盛のプッツン伝説はいかがでしたでしょうか。

意外にも自らのプッツン伝説で、津和野4万石を手に入れましたが、最後は身から出たさびで家臣にプッツンされ?命を落としました。

そして、主家や一族を次々と破壊してきましたが、ついに自分の栄光を破壊し、命も失ったというオチ。やっぱり短気は損気・・・といえそうです。

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