一般的には「ガラシャの旦那」として知られている細川忠興(ほそかわただおき)。
妻・ガラシャへのちょっと異常な愛情が「ヤンデレ」とまことしやかに囁かれる彼ですが、それ以外にも「天下一気が短い」と史料に書き残されるほどの瞬間湯沸かし器っぷりでした。
ただ、そこが忠興をある意味魅力的な戦国大名に仕立てたわけで…。今回は細川忠興の生涯に迫ってみたいと思います。
いちど父に見捨てられていた!?
細川幽斎:Wikipediaより引用
永禄6(1563)年、室町幕府第13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の側近・細川藤孝(ほそかわふじたか/のち幽斎)の長男として、忠興は誕生しました。
ところが、彼が3歳の時、義輝が暗殺される「永禄の変」が起きてしまいます。この時、父・藤孝は当時お坊さんだったのちの15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を救出するなど幕府のために頑張っていたんですが、肝心の息子=忠興を京都に置き去りにしてしまったんですよ。
このため、忠興は乳母と京の町屋で暮らすことになってしまいました。しかも、平民風の名前まで付けられ、平民として育てられたんです。
父が迎えに来たのは、それから4年後のことでした。
その間に、父は母のことは呼び寄せていたそうです。しかも、迎えに来たときは、忠興がまだ会ったこともなかった弟まで連れていたということで…。幼い忠興にとっては、かなりショックだったことと思います。そしてこれが、彼の人格形成に暗い影を落としたのかもしれない…なんて思いますよ。
運命の女性・玉との結婚
幼少時代に強烈な苦労を味わった忠興ですが、それでも父と行動を共にします。父が足利義昭から織田信長に主を変えると、彼もまた信長に仕え、その後信長の息子・信忠に仕えました。忠興という名は、信忠の一字をもらったものです。
さて、天正6(1578)年、16歳の忠興は元服し、妻を迎えます。
仲介は信長で、明智光秀(あけちみつひで)の娘・玉(たま/珠、玉子、珠子とも)が彼の元に輿入れしてきました。信長は2人を見て「人形のようだ」と目を細めたそうで、美男美女でお似合いの夫婦だったそうですよ。そして、政略結婚ながら2人は仲睦まじく愛を育んでいったのです。
ところが、天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れます。反旗を翻したのは忠興が愛する妻・玉の父・明智光秀でした。
光秀はすぐに細川家に使者を寄越し、味方になってほしいと言ってきます。しかし、忠興らはそれを拒否し、これで光秀の敗北は決定的となりました。
その後光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし/のち豊臣秀吉)に討たれますが、秀吉に睨まれることを避けたのか、忠興は玉をやむなく幽閉したと言います。
2人の「普通」で幸せな結婚生活はここで断ち切られてしまったのでした。
というのも、玉の幽閉が解かれた後、忠興はかなり強烈な仕打ちを彼女にするようになったんですね…。それはまた後ほどご紹介します。
どこまでも家族に恵まれない男
いちおう、父とは波風を立てない関係を保っていた忠興ですが、信長から秀吉へと従う相手を変えてから、またも不幸な事件が起きてしまいます。
秀吉の命により、明智光秀に通じた丹後(京都府北部)の一色義定(いっしきよしさだ)を謀殺した忠興ですが、この一色義定には彼の実の妹が嫁いでいました。
義定の暗殺後、兄妹の対面の場で、なんと妹は忠興に対して懐剣を振りかざし斬りつけたんです。忠興は身をかわして危うく難を逃れましたが、彼の鼻には傷が残ってしまいました。
この時の話はタブーとなり、忠興の前では誰も鼻の傷に対して触れることはなくなったそうです。
忠興と息子たちにもこんな話があります。
もっと後のことですが、玉が自害した時、その場にいながら逃れて無事だった長男・忠隆(ただたか)の嫁に忠興は激怒し、離縁を命じたんです。しかし忠隆はそれを拒否し、忠興は息子を廃嫡してしまったのでした。
また、二男・興秋(おきあき)は細川家を出奔してしまい、なんと大坂の陣では豊臣方に付いてしまったんです。徳川家康は興秋が戦後も生きていることを知り、許そうとしてくれたんですが、忠興はこれを謝絶し、息子に死を命じたのでした。
妻・玉も不幸な死を遂げるわけですから、忠興はちょっと家族の縁には恵まれないみたいです。それに関しては気の毒だなと思いますよ。
妻とのおかしな(?)関係
秀吉に従い数々の戦に参加した忠興は、豊臣政権内で着々と足場を固めていきました。
しかし、妻である玉との関係は、だんだんぎくしゃくしたものになっていきます。
九州征伐後に帰ってきた忠興は、幽閉を解いた玉に対して「俺は側室を持つぞ! 」となぜか宣言し、何かと玉に辛く当たるようになりました。ちょうどその頃、子供が病弱なのを気に病んでいた玉は、忠興の変貌ぶりにも戸惑い、やがてキリシタンとなり「ガラシャ」の洗礼名を授かってしまったんです。
逸話ではありますが、こんな話も伝わっています。
ある時、細川家の庭師がガラシャの美貌に見とれたと聞きつけた忠興は、その庭師を手討ちにしました。しかもそれだけではなく、庭師の首をガラシャに付きつけたといいます。
ところが、ガラシャは表情ひとつ変えません。それを見て「お前は蛇のような女だ」と言い放った忠興に対し、ガラシャは「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」と答えたそうです。
また、忠興が家臣を手討ちにした際、刀についた血をガラシャの着物で拭ったことがあったそうです。しかしガラシャは着替えもせず、平然とその着物を着続けたため、たまりかねた忠興は「頼むから着替えてくれ」と謝ったとか。
それでも、忠興はガラシャを愛していました。彼女がキリシタンになったことは反対しましたが、結局離縁はしていませんし、朝鮮出兵時には戦地から「秀吉の誘いに乗ってはいけない」と手紙を送り、彼女の死後は教会で葬儀を行い、自ら参列しています。
なんだか、歪んだ愛情表現ですよね。それもまた、幼い頃、親に半ば見捨てられたという経験が関係しているんじゃないかと思ってしまいます。
関ヶ原、そして妻の死
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
秀吉の死後、石田三成(いしだみつなり)をはじめとした官僚(文治派/ぶんちは)らと、戦場での働きをメインにした武断派(ぶだんは)らの対立が深まっていきます。
忠興はどちらかというと武断派であり、加藤清正らをはじめとした三成襲撃事件にも参加し、やがて徳川家康へと接近していきました。というのも、忠興自身が三成と仲が悪かったからなんですね。
そういうわけで、関ヶ原の戦いにおいては、忠興は東軍に参加するのですが、その時彼は家康に従って会津征伐に向かっていたところでした。そのため、京都の屋敷にガラシャを置いたままだったんです。
一方、三成は諸将の東軍参加を阻止するため、京都に人質として住まわされていた彼らの妻子を押さえようとしました。
そしてまず取り囲んだのが、細川屋敷だったんです。
忠興は、会津征伐に向かう前、「もし妻の名誉に関わることがあれば、妻を殺してみな切腹せよ」と命じていました。同じようなことをガラシャにも申し付けていたんでしょう。
屋敷を囲まれたガラシャは、屋敷に火を放つと、家臣の手にかかって死ぬことを選んだのでした…。
妻の死という衝撃は大きかったことでしょう。
しかし、忠興は関ヶ原本戦で活躍を見せ、最終的に40万石という領地を得るまでになったのでした。
その一方で、ガラシャの警護役が逃亡したことを知った忠興は、追っ手を放ち殺そうとしています。ただ、徳川家康がその警護役を召し抱えたため、断念せざるを得ませんでした。
晩年は丸くなった?
前述の通り、長男の廃嫡や二男の助命拒否などいろいろと波乱がありましたが、大坂の陣の後の元和6(1620)年、忠興は三男の忠利(ただとし)に家督を譲りました。
そして正保2(1645)年、83歳の長寿を全うしたのです。「戦場が恋しい」と言い残し、どこまでも一武将の心意気を忘れることはありませんでした。
細川家に伝わる「歌仙兼定(かせんかねさだ)」は、36人の家臣を手討ちにした忠興が、その数が平安時代の和歌の名人である「三十六歌仙」に共通することからその名を付けたと言われています(本当は6人を手討ちにしたそうですが)。
こんな風に壮年期は家臣を手討ちにしまくった忠興ですが、晩年は丸くなったと言われています。ホントですかね。
三十六歌仙なんて雅なものを刀の名につけてしまうくらいなので、彼は瞬間湯沸かし器的な側面を持ちながらも教養あふれる文化人でもありました。和歌だけでなく、千利休に師事し、医学にも通じていたそうです。中でも武具のデザインにはこだわりがあり、自ら手掛けるなどある意味戦国時代のトレンドセッター的な存在でもありました。ちなみに、越中ふんどしの考案者も忠興だと言われていたりします(諸説あり)。
まとめ
- 幼い頃、半ば父に見捨てられていた
- 明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚した
- 妹に殺されかけ、長男は出奔、二男は家に反抗するなど家族面で苦労した
- 妻への愛情は一風変わっていた(歪んでいた)
- 関ヶ原の戦い直前、妻を失った
- 晩年は丸くなったと言われている
忠興は筆まめでも有名です。生涯に書いた手紙は1,800通を超えているとか。
こうした綿密なネットワークもまた、細川家を戦国時代で生き延びさせた大きな要因だそうですよ。
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