暴君という呼び名は大抵死んだ後につけられるものですが、存命中から「万人恐怖」と呼ばれたのはこの人・足利義教(あしかがよしのり)。
こんな人が将軍になっちゃったんですから、そりゃあ人々はお口にチャックしてなければならない状況でした。
しかし、この人、元々はお坊さんだったんですよ。
しかも、仏教界のほぼトップ。
そんな人がやらかした、びっくりな暴君エピソードをご紹介します。
若かりし頃は「天才」
応永元(1394)年、義教は室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の五男として誕生しました。
すでに兄たちがおり、将軍になるとは目されなかったため、幼くして仏門に入ります。
15歳で得度し「義円(ぎえん/義圓)」と名乗り、皇室や摂関家など高い家柄の人物が入る門跡寺院のひとつ・青蓮院(しょうれんいん)の門跡となりました。
応永26(1419)年には第153代天台座主となり、比叡山延暦寺の貫主に就任します。
つまりは天台宗、ひいては仏教界のトップです。「天台開闢以来の逸材」と称えられるほどのキレッキレの人物だったみたいですよ。

最澄:Wikipediaより引用
最澄の教えをいちばん理解して広める人だったわけですが、まさか後にあんな暴君になるとは、ホントに世の中わかりません。そして、人間の心のどこに闇が潜んでいるか、わかったもんじゃありませんよ。
くじ引き将軍誕生

足利義持:Wikipediaより引用
この頃、5代将軍の義量(よしかず)が急死すると、4代将軍で義円の兄でもある義持(よしもち)が代役として実権を握るようになっていました。
ところが義持もまた病に倒れ、「後継者は自分じゃ決められないからみんなで決めて」となぜか重臣に丸投げし、死んでしまったんです。なんて無責任。

足利義教:Wikipediaより引用
それで、義持の弟4人の中から、くじ引きが行われ、見事(?)義円が選ばれたというわけなんです。
義円は、最初は固辞したんですが、強く望まれたので将軍職を受けたといいます。この頃はまだ殊勝だったんでしょうか。
でもこういうのって何度か断って最終的に受けるっていう体裁があったりもしますしね。
そして、正長2(1429)年、義円は「義教」と改名し、前代未聞のくじ引き将軍の誕生となったのでした。
幕府(というか自分)の権威を復活させたい
父・義満のような強い将軍と幕府の権威を復活させたい義教は、朝廷に対しても強い態度に出て、政治システムも昔のようにしようと試みました。
今までは身分や家柄を固定されていた評定(会議みたいなもの)については、義教自身が参加者を決めた「御前沙汰(ごぜんざた)」とし、専制色を強め、管領(かんれい/将軍を補佐する幕府ナンバー2)の力を削いだんです。
彼自身、逸材として期待された人物ですから、自分ならやれるという自信もあったんでしょうね。

満済:Wikipediaより引用
加えて、「黒衣の宰相」として知られた三宝院満済(さんほういんまんさい)が側近だったので、この人の入れ知恵もあったんでしょう。
一方では、明との勘合貿易を復活させ、経済政策への対処も行いました。
そして、彼は軍事力をもって幕府の勢力を拡大させたんです。
この点については、最近になって高い評価をされるようになってきましたよ。
関東には「京都扶持衆(きょうとふちしゅう)」という将軍直属の武将たちを置き、幕府の出先機関だけど幕府と仲の悪い鎌倉府を牽制しました。
自分が将軍になれると思っていた鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)には「還俗将軍め!」と罵られ、挙兵までされましたが、それを鎮圧しています。また、九州には九州探題を置き、支配下に収めました。
こうやって見てくると、専制色は強いものの、将軍としてやるべきことをやった感じがありますよね。
しかし、義教は、元・お坊さんとは思えないほどの暴君ぶりを発揮したんです…。
僧が抗議の焼身自殺
義教が「義円」として、また天台座主として何年間もいた比叡山延暦寺に、彼はかなりひどい仕打ちをしました。
延暦寺の中でもめごとがあり、それに義教が介入したものの、どうもうまくおさまりません。頭に来た義教は延暦寺を包囲しますが、周囲の取り成しによって渋々兵を引きました。
もちろん、義教に本当の和睦の意思などありません。延暦寺の代表を招きよせると、なんと、やって来た彼らを全員処刑してしまったんです。自分の思い通りにならないとこうする、その姿勢が垣間見えた第一の事件でした。
すると、抗議したのは延暦寺。24人もの僧がこのことに抗議して焼身自殺を遂げてしまったんです。
しかし義教は、以後比叡山の噂をしたら処刑するとのお触れを出します。実際、それを口にした商人が処刑され、その頃から義教は「万人恐怖」の将軍と恐れられるようになったのでした。
万人恐怖の悪御所の所業の数々
比叡山の一件だけではありません。義教は、元・お坊さんだったとは思えないような横暴の数々をきわめたんです。
儀式のときに微笑んだ者を、「将軍を笑ったのか!?」と所領を没収して蟄居させたり、お酌が下手だと侍女を殴りつけて尼にしてしまったりと、理不尽な処罰を数多く行っています。
また、当時流行っていた闘鶏のおかげで道が混雑し、自分の行列が通れなかったことに腹を立て、京都中の鶏を追放したこともありました。
もっとひどいのは、自分に説教した僧に熱湯を浴びせた上に舌を切ったという所業。
熱湯つながりではありますが、義教は「湯起請(ゆぎしょう)」という方法を用いて訴訟の裁定を下したこともありました。これは、熱湯の中に手を入れさせ、火傷したら有罪、そうでなければ無罪という、理不尽きわまりない裁定方法だったんですよ。
何が逆鱗に触れるか分からないので、人々は黙り込むしかなかったというわけです。
もはや専制を通り越した恐怖政治。
しかし、それに対する不満を持つ人物も、確かにいたのでした。
赤松満祐と「嘉吉の乱」
義教は、有力守護大名の家督相続にも口を出すようになっていました。自分に従いそうな者を跡継ぎに変えさせたり、反抗的な態度を取れば討伐して滅ぼしてしまったりしたんです。
赤松満祐(あかまつみつすけ)という重臣がいました。当初は義教と仲良くやっていたんですが、家臣を義教に殺されたり、弟の領地を取り上げられて甥っ子に与えられたりなど横暴の被害者となり、ついには出仕しなくなっていたんです。
そのため、人々は、「次に粛清されるのは満祐の番だ」と噂し合うほどになりました。
嘉吉(かきつ)元(1441)年6月のこと。
満祐の息子は、関東での戦の戦勝祝いを申し出、ついでに「カモの子がたくさん生まれてとても可愛いので、ぜひ我が屋敷に見にいらして下さい」と添えて、義教や側近たちを赤松邸に招きました。
義教はそこで無防備にも出かけて行ってしまったんですね。もうちょっと警戒心ってものはなかったんでしょうか。
そして、猿楽を観賞していると、突然赤松邸の門が閉じられ、庭に馬が放たれて騒然となります。
義教が「何事か!」と叫ぶと、そこに武装した兵が乱入し、白刃を手に義教に襲い掛かりました。こうして義教は首を斬り落とされ、あっけなく最期を遂げたんです。
これが、将軍暗殺事件「嘉吉の乱」です。
義教の言うことを聞くものばかりそろえた側近たちは、殺されたり重傷を負ったり、中には逃げ出して家の門を閉ざしてしまったりなど、将軍が死んでもまるで政権を機能させる様子はありませんでした。そのため、満祐は義教の首を槍の切っ先にかかげて悠々と帰還したと言います。ようやく組織された討伐軍が彼を討ったのは、嘉吉の乱から約2ヶ月も経ってからのことでした。
万人恐怖から解放された世の中ですが、幕府の弱体化により応仁の乱へと突入し、京都は焼け野原と化してしまうこととなったんです。
まとめ
- 若い頃は逸材として将来を嘱望されていた
- くじ引きによって将軍に選ばれた
- 幕府と将軍の権威の復興に尽力した
- 横暴ぶりに延暦寺の僧が焼身自殺をして抗議した
- 「万人恐怖」と呼ばれるほど横暴の数々を尽くした
- 「嘉吉の乱」で殺害された
元・お坊さんなら、もっと慈悲の心とかなかったんでしょうかね。
幕府の勢力を拡大した点ではすごく評価されているみたいですが、この横暴ぶりはちょっと、引きます…。
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