「昔より 主(しゅう)を討つ身の 野間(のま)なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
これは織田信孝の辞世の歌とされるものです。
死を前にしてのこの激しさ。
いかに恨みつらみがあろうとも、最後は心静かにこの世を去って行く。
古来日本人のあるべき姿とされて来ましたが、信孝にはこう言わざるを得ない、無理のない事情が有ったのです。
今日はそんなお話など。
信長の子
信長の子供として世に知られているのは、男子では長男信忠、次男信雄、三男信孝、女子では松平信康に嫁いだ岡崎殿などですが、ほかにも子供はたくさん居ました。男子は全部で11人、これは多くの資料が一致しているので間違いないでしょう。女子は人数もはっきりせず、一説では8人、また一説では12人となっていますが、男女合わせてかなりの子どもが居たようです。
今日取り上げる三男信孝は、本当の生まれ順は次男であるが、生母の身分が低かったため三男に下げられたようです。この程度の事は戦国の世では珍しくもありませんが、思えばこれがケチの付き初めでした。どうもこの方間が悪いと言うか、いざっとなると邪魔が入ると言うか。
しかしそれは「偉大な父を持った息子の不孝」でも「二代目の凡庸さ」故でもありません。巡り合わせなんでしょうね。決して暗愚な人ではありませんし、この3人の中では、信長配下の武将たちに一番愛されたとも伝わっています。
元亀3年(1572年)信忠、信雄、信孝の3人は、岐阜城で揃って元服しました。天正9年(1581年)には、正親町天皇のご来臨を仰ぎ、京都御所東門外で織田家臣団の馬揃えが行われました。3人は御連枝衆(ごれんししゅう 貴人の一族を指す)として、供侍の騎馬軍を率いて参加します。いよいよ父親の片腕として、本格的に世の中に出て行こうとする時です。しかしその矢先に起こったのが、“本能寺の変”でした。
本能寺の変
本能寺の変:Wikipediaより引用
本能寺の変が起こった時、信孝はどこに居たかと言うと、大阪の住吉に居ました。なぜそんな所に居たのか。天正10年(1582年)5月、本能寺の変の直前ですが、信長は四国方面討伐軍を起こして、総大将に信孝を任命したのです。
四国の長宗我部氏を討ち、見事平らげたなら讃岐一国を与えようとの朱印状も、信長から頂きました。副将は丹羽長秀、蜂屋頼隆(はちやよりたか)、津田信澄の三将、1万4千の軍勢を率いていました。
もっともこの軍勢と言うのが、所領の伊勢・鈴鹿辺りの15歳から60歳の百姓をことごとく動員と言いますから、働ける者全部ってことですよね。それでも足りないので、浪人、国人、伊賀衆・甲賀衆に紀州の雑賀党と、手当たり次第に徴兵します。この「寄せ集めの軍勢」が、後にまずいことになります。
いよいよ四国へ押し渡ろうとした6月2日、本能寺の変の知らせが届きます。よりにも寄ってですが、まさに出陣のその当日でした。この信長討たれるの知らせが、悪いことに陣中に漏れてしまったのですね。信長が居ればこそ、その威光を頼りに織田方についていた「寄せ集めの軍勢」です。その人が亡くなってしまえば立場は逆転、今度は自分たちが落ち武者狩りの標的になるのです。
鍬や鋤、竹槍を振りかざして襲って来る土民の残虐さは、歴戦の武将でも身震いをするほど。こんな所に居られるものかと逃げ出すものが相次ぎ、1万4千の軍はたちまち崩壊してしまいました。
秀吉帰還
多くの兵士を失った信孝でしたが、じっとしていてもジリ貧状態になるばかりです。副将の丹羽長秀と協力し、大坂城千貫櫓(せんがんやぐら)に居た、明智光秀の娘婿津田信澄を討ちます。津田信澄って自分の軍の副将だった男ですし、もし光秀と結託していたのなら、ぐずぐずせずに信孝の寝首を掻きに来そうなものです。それに娘婿だからと言って、信澄が光秀の謀反に加担した証拠もありません。
しかし自分の父が討たれたのに何もせずに籠っていては、不甲斐ない殿よと思われて、残っている兵士や武将も離れてしまうのです。信孝としては、何かをやって見せる必要に迫られました。この襲撃が上手く行き、河内国の有力者たちに認められ、信孝は大阪を押さえることが出来ました。しかしそれでも光秀に対抗するにはとても兵力が足りません。
そこへ高松城の水攻めから取って返した秀吉が、大軍を率いて現れます。本能寺の変が起きたのが6月2日、信孝と秀吉が摂津国富田で対面したのが12日。その時の様子が「浅野家文書」に残っています。
『次の十二日昼時分、川を超えさせられ候条、筑前(秀吉)も御迎えに馳せ向かい、お目にかかり候えば、御落泪、筑前も吼え申し候儀、限りござなく候事(あくる日の12日昼頃、川を渡られたとのこと、秀吉も信孝様を迎えるために駆け出し、出会えば信孝様は落涙、秀吉も声をあげて泣き続けた)』
顔を合わせた途端、二人して抱き合い・・・かどうかはわかりませんが、ともかく人目もはばからず泣き出したのです。
これは二人とも演技とは思いたくありません。信孝にしてみれば、少ない手勢で心細かったところへ、父の気に入りの家臣が信じられない速さで大軍を率いて駆けつけてくれたのです。素直に嬉しかったでしょう。秀吉にしても、自分を可愛がり引き立ててくれた主君の遺児が、変事の後も無事でいてくれた。顔を見ていかほどにも安堵したでしょう。
しかしこの後二人の関係は急速に悪化します。
山崎合戦・清州会議
三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面:Wikipediaより引用
6月の12日13日、明智軍と織田・羽柴連合軍は摂津国と山城国の国境、山崎の地(大阪府三島郡島本町山崎)で激突。連合軍側は、名目上の旗印として信長の遺児である信孝を押し立てますが、その手勢はわずか4,000。誰の目から見ても実質的な総大将は、2万余の軍勢を率いる秀吉でした。この戦いを秀吉が指揮・勝利したことにより、信孝と秀吉の地位は逆転します。
山崎の合戦から時を置かず27日には、尾張国清洲城(愛知県清須市)で織田家の跡継ぎを決める「清州会議」が開かれます。
この時信長は、すでに家督を長男の信忠に譲っていました。ですがその信忠も本能寺からは逃れたものの、二条城で自害しているので、現在織田家の当主は空席状態。信長倒れるの報はすでに諸国に知れ渡っています。「時は今ぞ」とばかり、天下取りを狙う武将が押し寄せて来るのは、目に見えています。早々に織田家の跡継ぎを決めて、家臣団の団結を図らねばなりません。
この時点で信長の主な血縁者としては、次男織田信雄・三男織田信孝・孫の三法師(長男織田信忠の嫡子)が残っていました。柴田勝家・羽柴秀吉・池田恒興・丹羽長秀の4人の重臣で話し合いが持たれましたが、結局は信孝を押す柴田勝家と、信雄を押す羽柴秀吉の争いでした。
どちらに決めても揉めるのは見えていますし、いまは一刻も早く結束を図る時。考えた末の結論は、当主は三法師とし信孝が後見役に付くと言うもの。嫡男から嫡男へと表向き筋は通っていますが、信孝は大きなチャンスを逃しました。
秀吉出張って来る
そんなこんなの間に柴田勝家と、信長の妹であり浅井長政の未亡人お市の方との婚儀が行われます。信孝が二人の間を取り持ったと言われ、お市の方に心を寄せていた秀吉は不愉快千万。
今度は秀吉側が羽柴秀勝(信長の4男で秀吉の養子)を喪主として、信長の葬儀を荘厳に執り行います。織田家の家臣や信長の子息たちも参列しましたが、織田信孝と柴田勝家には知らされませんでした。ここまで来れば両者の亀裂は決定的、一触即発状態です。
追い打ちをかけるように秀吉は、このころ美濃の国岐阜城に居て三法師を手元に置いて居た信孝に対し、清州会議の約定通り、三法師を安土城に入れるように迫ります。ここで実力戦に突入、雪深い季節に越前の勝家の助力を得ることも出来ず、三法師は秀吉に奪われました。
秀吉はこうなることを読んでいたのですね。自分の天下取りの邪魔になる信孝と勝家を、さっさと始末してしまいたい。戦になれば自分の方が勝つ、その自信があればこそ相手をネチネチと追い込んで行って、戦わずにはいられないような状況を作り上げたのです。
かつて父の物であった短刀で
神戸信孝(織田信孝)像:Wikipediaより引用
天正11年4月、賤ケ岳の戦いに敗れた柴田勝家が越前北の庄で自害すると、信孝は秀吉の手によって、尾張国知多郡野間(愛知県知多半島内海の野間(うつみののま))の、大御堂寺安養院(おおみどうあんよういん)に移されます。
ここで切腹するのですが、その時に使った短刀は『来国俊(らいくにとし)』と銘の有るもので、かつて秀吉が信長から拝領したもの。秀吉はこの短刀を信孝に送ることで、暗に切腹をすすめたのです。信孝の無念さはどれほどのものだったでしょう。「報いを待てや」言いたくなる気持ちもわかります。
本能寺の変があったのが天正10年6月、信孝が亡くなったのが天正11年5月、1年にも満たない間にこれだけの事が起こりました。
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