狙われた信長 忍者スナイパー杉谷善住坊と城戸弥左衛門

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織田信長と言えば「長篠の戦い」など鉄砲を大胆に使った戦いで有名ですが、皮肉なことに鉄砲で暗殺されたかけたことも。

大胆不敵にも信長を狙ったスナイパーは、鉄砲名人の忍者たち。

今回は信長VSスナイパー杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)、城戸弥左衛門(きどやざえもん)の対決をご紹介します。

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信長は日本で初めてスナイパーに狙われた!?

信長と言えば、新兵器の鉄砲にいち早く注目し、それを大量にかつ驚かせる鉄砲戦略で、戦い方すら変えていった武将です。

とくに武田氏をこてんぱにやっつけた長篠の戦いでは、世間をアッと言わせた鉄砲の三段撃ち(本当に行なわれたかは疑問視されていますが)を披露し、後世に鉄砲イコール信長というイメージを定着させました。

 

鉄砲を上手く使った信長ですが、鉄砲に関してはありがたくない称号?もゲットしています。信長はなんと日本で初めて鉄砲で暗殺されかけた武将ともいわれているのです。それも一度ではなく2度、3度も。

鉄砲で暗殺された要人は信長より前にいたもいわれますが、信長のように何度も命を狙われたのはおそらく初めてではないでしょうか。

 

なぜ、信長がそこまで狙われたのか。もちろん強すぎるからです!(笑)

信長が強すぎるので、将軍足利義昭を初めとした、反信長包囲網ができました。しかしそんなことで信長はへこたれません。

そんな信長に対して「戦いで勝てないから暗殺してしまえ!」と思う敵もたくさんいたでしょう。信長は美濃の斎藤氏、近江の浅井氏からも刺客を放たれるなど何度も暗殺されかけています。

 

それでもしぶとく生き残る信長に対し、敵たちが目をつけたのは新兵器の鉄砲。現代の〇〇〇13並みの腕を持つ(たぶん)、凄腕スナイパーたちが雇われました。彼らの正体は忍者。忍者は火術を得意としていたので、鉄砲にも通じていたと思われます。

とはいえ信長が本能寺の変で命を落としたのは誰もが知るところ。まさか? そうそのまさかで、現代の〇〇〇13並みの凄腕スナイパーたちも、信長暗殺には失敗したようです。

そこには信長とスナイパーとの激しい攻防がありました。

 

飛ぶ鳥を射止める杉谷善住坊

信長を最初に狙ったのは甲賀忍者・杉谷善住坊。甲賀五十三家のひとつ杉谷与藤次の子であるとも、杉谷氏と同族の勢州朝熊の僧や雑賀衆、賞金稼ぎなどともいわれています。または善住坊の娘が、当時甲賀が従っていた近江国守護大名六角義賢の側室だったともいわれています。

出自は定かではありませんが、一つ確かなのは彼が「飛ぶ鳥を射止めることができる」ほどの射撃の腕前を持っていたこと。その腕を見込んで、信長に大敗し観音寺城を追われた義賢から密命が下りました「信長を射殺せよ」(失敗しても知らないからそのつもりでと言われたでしょうね)。

 

善住坊が狙撃の現場に選んだのは、鈴鹿山脈にある千草峠(滋賀県東近江市の千種街道)。

1570年5月、善住坊はこの山中にある大きな岩(これは今も残されています)に隠れ信長一行を待ち構えました。

 

なぜ、ここかというと話は約1か月前の4月にさかのぼります。越前の朝倉義景を攻めた信長は義弟の近江長浜城主浅井長政の裏切りにあい、挟み撃ちに。追い詰められますが、なんとか危機一髪で京都へ退却しました。

 

信長は京都から岐阜に帰ろうとしますが、東海道や近江は敵が抑えているため通ることができません。そこで日野城主の蒲生賢秀父子らの案内を得ながら、伊勢へと抜ける千草峠を越えることになったわけです。

 

それを読んだ善住坊。彼のいる場所から信長が通るはずのつづら折りの難所までの射程距離はおよそ12、3間(20メートル以上)。善住坊の腕なら難なく仕留められるはずです。

見込みどおり、信長一行が姿を見せました。善住坊は焦点を定め、引き金に手をかけます。「バン、バーン」と銃声が響き「ヒュッ!」弾は馬上の信長の帷子の袖を打ち抜きました。「曲者をとらえろ!」信長はかすり傷を受けたのみで無事でした。

 

この狙撃事件について『信長公記』では「二ツ玉にて打ち申し候」とあります。これは2回撃ったとも、弾丸と弾を2発分込めた威力の強い「強薬(つよぐすり)」のことともされています。

 

失敗した善住坊。こうなれば後は逃げるのみ。信長の家来たちは山中を探し回りましたが、善住坊を見つけることはできませんでした。

 

のこぎりびきの刑

暗殺されかけた信長は激怒し、賞金を付けて善住坊を探索させました。

 

3年後、意外なところで発見されます。善住坊は鯰江香竹(なまずえこうちく)という者を頼って近江国高島の寺に隠れていたところを捕らえられたのです。

えーそこ?と驚きますよね。あの怖い信長の狙撃に失敗した以上、東北か、九州の果てに逃れそうなものです(笑)。都周辺から離れたくなかったのか、この地はいざとなれば治外法権の比叡山に逃げられるという思惑もあったのでしょうか。

 

3年越しの恨みですから、信長の怒りも相当なもの。善住坊に下されたのは7日間かけてひき殺すのこぎりびきの刑。いわばなぶり殺しです。ひえー何それ。聞くだけで恐ろしそうな刑罰です。

 

ここからの数行は読みたくない人は飛ばしてくださいね。なんとも後味の悪い処刑ですから。

 

道端で、生きたまま首から下を地中に埋められ、切れ味の悪い竹でできた鋸で「ぎーこぎーこ」と首を挽かせ続けたのです。民衆にも挽かせたと言われています。生きたまま鋸で首を斬られるという、ただただ苦痛が長引く残酷な処刑です。4、5日間苦しみ続けて絶命したそうです。

 

信長は長年の恨みを晴らして「カッカッカッ」と大笑いしたかどうかはさておき、とても満足したようです。

 

余談ですが、善住坊の兄という説もある諸澄九右衛門(もろずみきゅうえもん)は、武田信玄の埋蔵金を掘り当てたという伝説の持ち主。ただしそれを仲間に知られ、殺されました。子孫が大正時代にその一部を発見したとも伝えられています。

 

 

忍者名人の城戸弥左衛門

この残酷な処刑を知ってか知らずか、その後も信長の命を狙う忍者スナイパーが登場します。

それは伊賀音羽の出身で「音羽の城戸」と呼ばれた城戸弥左衛門です。忍術書『万川集海(まんせんしゅうかい)』では伊賀の忍者名人11人のうちの1人に数えられています。『伊乱記』という資料では、無学、大飯ぐらいと彼を散々こき下ろしながら、「謀術、火術を得意として今なおその流れをくむ者多し」と伊賀忍者の祖のような書き方もされています。

 

熱烈な一向衆の信徒であった弥左衛門は比叡山の焼き討ちや一向一揆を徹底的にせん滅する信長に激しい怒りをおぼえていたようです。

この城戸も1579年、信長を憎むある人物から「信長を殺せ」と命令を受け、執拗に信長を狙うヒットマンになります。

 

同年、さっそくチャンスが訪れます。信長が朱の大唐傘をさしかけさせながら馬に揺られて琵琶湖のほとり膳所を通りかかりました。「バーン」森の中から銃声が響き、大唐傘の柄が吹っ飛びます。信長にはかすり傷ひとつありません。家来たちが後を追いますが、城戸は森の中に紛れ込んで逃げのびました。

 

翌日、信長の陣所を菓子折りを持った一人の男が訪れます。信長が目通りを許すと、「伊賀の城戸弥左衛門と申します」。なんと弥左衛門でした。ちろん信長はスナイパーが誰なのか知りません。それをよい事に

「昨日、鉄砲を撃ちかけたのはおそらく伊賀甲賀の忍びの者。わたくしめに探索をお命じください」といけしゃあしゃあと願い出たのです。

もちろん彼の体からは火薬の匂いなどスナイパーとしての形跡はきれいさっぱり消されていました。しかもその堂々とした口上に信長もすっかりだまされたようです。まさか狙撃した本人が堂々と現われるはずがないという心理のすきをついた策。しかも信長に近づいて暗殺の機会を狙おうとしていたのでしょう。謀術を心得ていたという弥左衛門ならではの策といえます。

 

2度信長を狙ったスナイパー

犯人である弥左衛門が、犯人を探すというカオスな状況の一方で、なおも信長暗殺を狙います。

2年後、信長が伊賀の視察に訪れると知った弥左衛門は、土橋の原田木三、印代判官を誘って暗殺を企てます。

 

伊賀に入った信長が敢国神社で休憩したその時、大鉄砲を打ち込みました。弾は周りの家来7、8名を吹っ飛ばしますが、信長にはかすりもせず・・・。信長には玉も避けていくのかまたもや失敗です。信長の家来らは弓をつがえて追いかけますが、3人は飛鳥のように逃げ出しました。

 

3度目といきたいところですが、弥左衛門に3度目の正直は巡ってきませんでした。なぜなら宮田某というかつての部下に裏切られ、密告されて捕らえられてしまったからです。部下は選ばないといけないですね。

 

ただし弥左衛門はここからもしぶとい忍者道を全うします。どんな拷問にあっても依頼者の名は口にしませんでした。しかも処刑前日、厳しい警戒網を破り、番人から刀を奪って脱走を図ります。しかし追手と奮戦したあげく最後は自刃しました。

弥左衛門に暗殺の密命を下したのは信長と長い間戦っていた本願寺の顕如、教如上人だったともいわれています。

教如:Wikipediaより引用

こうして信長は生き残りました。人々は天運がついていると噂したそうですが、ここまでくると某アニメのようにいくら撃たれても弾が当たらないお約束パターン?と思ってしまいますよね。

そんな信長ですが、鉄砲にはめっぽう強くても部下の裏切りには弱かったのか、それとも運を使い果たしていたのか明智光秀には殺されてしまいました。

 

本能寺の変がその後の武将たちの人生、そして歴史を大きく変えたことを考えると、信長が狙撃されて命を落としていたら・・・。歴史はまた違う方向へ変わっていたかもと想像してしまいます。善住坊、弥左衛門のちょっとした手元の狂い、読み違えによる失敗が歴史を動かしたのかもしれません。

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