庶民には優しい一面も!? 意外な織田信長

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天下布武を目指した織田信長といえば、前例にとらわれず斬新な改革を次々と成し遂げた一方で、情け容赦のない冷酷な武将というイメージがあります。でもそんな信長とは違う、優しくてお茶目な人間味あふれる信長の姿をお伝えしたいと思います。

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鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」にたとえられる信長といえばどんなイメージでしょうか。次々と新しい改革を打ち出した武将、冷徹な実力主義者、自分の思い通りにする残忍な武将という怖い武将ではないでしょうか。

 

たしかに信長といえば現代人もびっくりのモラハラ、パワハラ上等の一面をもつブラック社長。宣教師フロイスの『日本史』によると、岐阜城で信長が手でちょっと合図をすると家臣たちが一斉に消え、彼がひとりを呼ぶと、百人が一斉に返事を返すというピリピリ感。フロイスは「傲慢で神をも恐れぬ人物で、名誉を重んじ、決断を内に秘め、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の意見を聞くことはほとんどない」とあり、俺が黒と言ったら黒だ! という典型的なワンマン社長でした。

長年仕えてきた実績もお構いなし。少しでも働きが悪いと思えばプッチーンとキレ、何十年も昔に裏切った過去を持ち出して「あの時によくもこのノブナガ様に背きやがって」とあっと言う間にクビに。

 

信長が竹生島(ちくぶしま)に出かけたスキに、のんびり仕事を休んで寺詣でに出かけた女中たち。これに怒った信長はこの女中たちを全員処刑にしてしまいました。

 

対外的に見ても、足利将軍様は追い出すし、比叡山の焼き討ち、一向一揆のせん滅、天正伊賀の乱の殺りくなどそこまでやる? というほど徹底的な皆殺しも平気で行ないます。

 

なんだか赤い血が流れてない冷酷な人間ではとも思えますが、このピリピリ感に耐えられず!? 荒木村重や明智光秀は信長に謀反を起こしてしまいました。

 

エンターテイナーとしても先駆者だった信長

ここまでさんざん信長の冷酷ぶりを書いてきましたが、一方でフロイスは「正義や慈悲を重んじる人物」とも書いています。信長に慈悲なんてあったの?と言われそうですが、意外や意外、じつは信長もちゃんと血の通った人間的な一面ももっていました。

 

しかもなかなかお茶目で、楽しいことが大好き! 立場の弱い庶民には優しく接しています。

以下ではそんな信長の人間的な一面をお伝えしたいと思います。

 

信長は踊り好きで、しばしば踊り大会を開きました。その時、家臣たちにも赤鬼、青鬼などに仮装させておどらせましたが、自らは天女になって小鼓(こつづみ)を討ちながら女踊りを披露したこともあったとか。コワモテイメージの信長が優しい女踊りとは、ギャップ感凄いですよね。織田家は美男美女の家系なので、意外に似合っていたのではないでしょうか。

しかも津島の年寄衆が踊りの返礼に城に参上した時には、一人ずつほめ、熱いお茶を信長自ら進めたり、踊った人の汗を拭いてやったりしてねぎらったといいます。

 

 

また、信長は人々を楽しませることにもたけていました。自慢の安土城ができた時には何と家臣はもちろん一般庶民にも公開して楽しんでもらっています。なお、家臣たちからちゃっかり観覧料を一〇〇文ずつ取っているのも、合理的な信長らしい発想ならでは。

それだけ払ってもみる価値があるゾという自信のあったお城だったでしょう。

 

そして大のパフォーマンス好きの信長。日本初のライトアップを行なったのも信長といわれています。ライトアップといっても使うのは電飾ではなく「火」。お盆の日、安土城の天主閣と摠見寺(そうけんじ)に色とりどりの提灯をたくさんつるしました。道や入江の舟の上には馬廻衆をずらりと並べて松明をかかげささせ、城下の家の灯りを消してスタンバイ。

一斉に松明と提灯に火をつけると、闇夜に荘厳な安土城と摠見寺が輝くようにしてパッと浮かび上がりました。灯が水に映った姿も幻想的で、押し寄せた見物人も見とれて大喜び。いやあ、当時の人にとっては見たことのない城と夢見心地のような美しさだったに違いありません。人々が「信長様はとんでもねえお方だ」と実感したのは間違いないでしょう。

 

こうしたパフォーマンスで庶民を喜ばせるばかりでなく、町の秩序を守り庶民の暮らしを向上させることにも心をくだきました。信長が京都に入って実権を握った時、あの怖い信長が来たとみんなビクビクでした。

ところが結果的に震え上がったのは庶民ではなく、悪党や兵士たち。「一銭でも盗むと斬り殺す」というキビシーイお触れを出したのです。それは一銭斬りと呼ばれて恐れられ、京都付近では旅人が道に寝ていてもお金が盗られることがなくなったといわれています。庶民にとって治安を良くしてくれる信長の存在はありがたかったのではないでしょうか。

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庶民に見せた優しさ

織田信長:Wikipediaより引用

信長は強い者にはこびず、弱い者には優しさをかけていました。

 

例えば秀吉の妻、おね(ねね)さんに優しい手紙を書いた話は有名ですよね。夫の浮気に悩むおねに対し、「秀吉はあなたのように美しく立派な妻がいるのにけしからんやつだ。あなたは立派な妻なのだからドンと構えていればいいよ」とけんかの仲裁をしています。部下のプライベートにまで心配りしているのは驚きですよね。

 

さらに庶民にはこんな気遣いも。ここからはエピソードを3つサクサクと紹介していきます。

 

あるとき、信長が出陣のため領内を通りかかると、1人の農民が道端にいびきをかいて気持ちよさそうに寝ていました。家臣が「殿がご出陣だというのに寝ているとはけしからん。切り捨てましょう」と言ったところ、信長は「農民が土の上に眠っているのを見るのが好きだ。兵は戦いが仕事、農民は土を耕すのが仕事だ」と笑ってとりあいませんでした。あれ、信長ってこんな穏やかな人だっけ? 別人のようですよね。

 

信長が鷹狩りに出かけた時のことです。悲しんでいる老婦人が目に留まり、信長が声をかけました。すると老婦人は「村長に先祖伝来の田畑を取られて、飢え死にしてしまいそうです。この冬をこせるかどうかも分かりません」と涙ながらに訴えます。婦人の境遇を哀れに思った信長が調べさせたところ、婦人の言う通りだったのでその土地を村長から取り戻してやりました。

 

山中の猿

そして信長の優しさがマックス現れたのが次のエピソード。

 

信長は何度も岐阜と京都を往復していましたが、美濃と近江の国境の「山中」というところに、いつも見かける体が不自由な乞食がいました。時には雨に打たれているこの男をかわいそうに思った信長は村人に

「乞食というのは転々とするのが普通なのに、なぜあの者はいつも同じところにいるのか」と尋ねました。すると土地の者は「この男は山中の猿と呼ばれています。この男の先祖が、山中宿に泊まった常盤御前(ときわごぜん 源義経の母)を殺したため、その天罰で代々下半身が不自由なのです」と答えました。

信長は「山中の猿」のことを気にかけ、次に京都に行く途中、木綿20反を持って立ち寄ると、町の者に集合をかけました。

「あの信長様に何を命じられるのか?」と集まった村人たちは不安でいっぱい。

すると信長は「20反の反物を与えるので、この半分を売り、誰かの家の隣にこの猿に建物をつくってやってほしい」と言い、

残りの反物を広げて「麦と米の収穫の季節には、あなたたちの負担にならない程度にこの男に与えて、この男が餓死しないように面倒を見てくれたらうれしい」と言いました。

えっまさか信長様の口からこんな優しい言葉が! と一同きょうがく。 本人はもとより、集まった町の人々、さらに信長の家来まで、信長のその恩情に涙し、その通りにすると約束したそうです。

 

 

信長は自分に刃向う敵には冷酷に徹し、家臣には厳しくあたることもありましたが、庶民については人間味のある寛大な心で接していたようです。

命のやりとりをする戦国武将が非情になるのは当たり前かもしれません。でも信長にもこんな温かい人間的な一面があったんだと知ると何だかホッとしますよね。

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