江戸時代は平穏の世。戦もなく暮らす庶民たちの娯楽のひとつが、講談師が威勢よく語る講談の数々でした。
そこには、史実では負け組ながらもその戦いぶりがヒーロー化された人物がたくさんいたんですよね。
今回ご紹介する薄田兼相(すすきだかねすけ)もそのひとり。色々な伝承がありますが、彼の人生をそれらと交えながらご紹介していきたいと思います。
ヒヒをやっつけた庶民のヒーロー

こんな民間伝承を聞いたことがありませんか?
ある時、毎年のように襲ってくる水害や疫病に苦しむ村がありました。
村民がどうすればいいか占うと、「娘をひとり、棺桶に入れてお社に置いておくがいい」とのこと。つまりは、生贄を差し出せということですね。
人々は泣く泣く娘を差し出し、それが6年も続いていました。
そして7年目、村人たちがまた棺桶の用意をしていると、そこをひとりの侍が通りかかったんです。
村人のただならない様子に侍はわけをたずね、仔細を知ると「神がそんなことをするものか」と、自ら身代わりとなることを申し出、棺桶に入ってお社へと担がれていきました。
深夜、何者かが棺桶を襲ってきますが、侍は刀を振るって一撃を食らわせ撃退します。
翌朝、点々と続く血の跡をたどっていくと、そこには巨大なヒヒ(サル型の大きな妖怪)が倒れていたのでした…。
なんて話です。
この侍こそ、今回ご紹介する薄田兼相の若かりし頃だというんですね。
その頃の彼はまだ岩見重太郎(いわみじゅうたろう)と名乗っており、旅の最中でした。
しかし、登場の仕方がいかにも「ヒーロー」っぽいですよね。
岩見重太郎=薄田兼相?
諸説ありますが、岩見重太郎は薄田兼相と同一人物という見方があります。
岩見重太郎は、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の剣術指南だった父の元に生まれたといいます。しかし父が同僚に殺されてしまったため、重太郎は仇討ちの旅に出たのでした。
そして相手を見つけ、ついに仇討ちを果たしたのが天正18(1590)年、天橋立でのことだと言われています。
実際、天橋立には碑文があり、彼が仇討ちの際に試し切りをしたという石も残っているんですよ。
その後、彼は叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相と名乗るようになったのでした。
歴史上、薄田兼相自身の前半生は謎に包まれているんですが、こんな風にも考えられるということで…。
豊臣秀吉・秀頼に仕えた時代

薄田兼相となってから、彼は豊臣家に仕えた記録が残されています。秀吉の護衛役である馬廻(うままわり)にも取り立てられており、けっこう優秀だったことがわかります。
そしておそらく、秀吉が亡くなった後はそのまま秀頼に仕えたのでしょう。
ただ、秀吉の死後に再び世の中が動き始めます。
関ヶ原の戦いに端を発した豊臣VS徳川の構図は、やがて両軍直接対決となる大坂の陣へと発展したのでした。
もちろん、兼相は豊臣方の陣営にいました。
しかし、関ヶ原の戦いで改易され、浪人となった者たちが集まった豊臣方は、秀頼への忠誠というよりも自分の再起ばかりを考える輩が多く、はっきり言っててんでんばらばら。
数は多いがまとまりのない、いわば烏合の衆だったんですね。大河ドラマ「真田丸」でもそんなシーンが数多く登場しました。
まとまりのない軍の中で、秀吉の代から仕えてきた兼相は、彼らをまとめる立場にいなくてはならないはずでした。
しかし、そんな彼までもが実にたるんでいたんですよ…。おそらく、剣の名手だと持ち上げられていい気になってしまったんでしょう。
それが、とんでもない大失態を招くことになったのでした。
大失態と恥ずかしいあだ名

大坂冬の陣:Wikipediaより引用
大坂冬の陣でのこと。
兼相は木津川(きづがわ)沿岸の博労淵(ばくろうぶち)にある砦の守備を任されていました。
そこへ攻め込んで来たのが徳川方。さあ一戦! …思ったのですが、なんとここで肝心の兼相、ここにいなかったんですよ。
あろうことか、彼は遊郭に入り浸って遊んでいたんです。
砦の守将がいなければ、指揮も何もあったもんじゃありません。
あっさりと博労淵砦は徳川方の手に落ち、逃げ帰って来た兼相を迎えたのは、諸将の冷ややかな視線だったというわけです…。
その際、こんなことがあったとも伝わっています。

秀頼の小姓が兼相の前に進み出ると、橙(だいだい)を差し出し、「この橙、どう思いますか」と尋ねました。
兼相が「大きくて見事だ」と答えると、小姓はこう答えます。
「橙は、見た目はいいのですが、酸っぱくて食えたものではありません。まるで口だけ達者なあなたのようですね」と。
これには兼相、ぐうの音も出なかったとか。
こんなわけで、彼には「橙武者」という実に不名誉なあだ名が付けられてしまったということなんですよ。
橙とは柑橘類ですが、お正月の飾りなどにも使われます。でもそれ以外に実際の用途がない…ということで、「橙武者」は「見かけ倒し」いう意味となったんですね。
ちなみに、同時期に「悪天候だし俺ら楽勝でしょ! 」と武将にあるまじき油断をして手ひどく負けた大野治胤(おおのはるたね)も、兼相と同様のあだ名を頂戴しています。
汚名は自らの命で雪ぐ! 道明寺の戦い

道明寺の戦い:Wikipediaより引用
かつて岩見重太郎の名で天下に知られた身としては、実に恥ずかしく情けない姿をさらしてしまいましたよね。本当に、武士の面目丸つぶれです。
しかし、そこは腐っても薄田兼相。
じっと、リベンジの時を待っていたんです。
そうしているうちに、家康が大坂城に大砲をぶち込み、それにビビった淀殿が「講和じゃ!
」と騒いだので、大坂冬の陣は講和となりました。
ところが、大坂城は外堀を埋められてしまい、防御も何もない裸城となってしまったんです。家康は、豊臣方を徹底的に滅ぼすつもりだったんですね。
そして大坂夏の陣が始まったんです。
こうなっては、豊臣方は打って出るしか策はありません。
次々と、勇敢な将兵たちが出陣し、そして帰ってくることはありませんでした。
「橙武者」の汚名返上を狙う兼相の胸には、自分の命を捨ててでも汚名を雪ぎたいという思いがあったに違いありません。

後藤基次:Wikipediaより引用
そしてまず先に後藤基次(ごとうもとつぐ/又兵衛)が出撃して行きました。
実は彼、講談の中ですが、岩見重太郎時代の兼相が仇討ちをする際に助太刀として登場しているんですよ。強者同士、気が合っていたのかもしれませんね。
その後を追って出撃した兼相ですが、行軍は遅れに遅れてしまったんです。彼の前に立ちふさがったのは、敵ではなく濃霧だったんですよ。
これによって行軍はなんと8時間も遅れてしまいました。その間に道明寺(どうみょうじ)で戦は始まり、基次は10倍もの兵力差の敵を相手に孤軍奮戦しましたが、兼相以下西軍諸将が道明寺に着いた時には、ほんのタッチの差で彼は力尽き戦死してしまっていたんです…。
敵中へ斬り込み、壮絶な最期を遂げる

薄田兼相:Wikipediaより引用
後藤基次の悲報に接した後、兼相は自ら陣頭指揮を取り、徳川方を相手に戦います。相手は勇猛で知られた家康のイトコ・水野勝成(みずのかつなり)や本多忠勝(ほんだただかつ)の息子・忠政(ただまさ)、伊達政宗の片腕・片倉重長(かたくらしげなが)らだったとされています。
やがて乱戦になり、兼相は愛刀を手に敵中へと斬り込みました。仇討ちの旅や戦場で磨いてきた剣の腕を存分にふるい、彼は八面六臂の活躍を見せます。
しかし形勢は圧倒的に徳川方有利、豊臣方は徐々に崩され、敗走を始めました。
それでも兼相は最後まで逃げることなく、戦場に踏みとどまったんです。そして水野家臣・河村重長(かわむらしげなが)と刃を交え、死闘の末に討ち取られたのでした。
兼相の墓は大阪府羽曳野市にありますが、高知県には彼の塚がありますし、九州へ逃れたという説まであります。
後の江戸時代、大坂の陣で活躍しながらも討死した武将は、講談や歌舞伎で取り上げられて人気を博しました。そうした中で、真田信繁(さなだのぶしげ)や後藤基次と並ぶ人気を誇ったのが、兼相だったんですよ。岩見重太郎時代の逸話もあって、彼はまさに庶民のヒーローだったんです。
史実と物語の世界を股にかけて活躍した薄田兼相、失敗してもその人間味を愛された人物でした。
まとめ
- ヒヒ退治の民間伝承は有名
- 薄田兼相=岩見重太郎説がある
- 豊臣家2代に仕えた
- 遊郭に入り浸っている間に砦を落とされ「橙武者」と笑われる
- 汚名返上を胸に大坂夏の陣に臨んだ
- 道明寺の戦いで壮烈な戦死を遂げた
落ちぶれた武将がある意味死に場所を求めたのが、大坂の陣。
「橙武者」と呼ばれても、兼相の散り際は、橙よりもはるかに立派なものだったに違いありません。
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