黒田家の良心・栗山利安、身一つで成し遂げた立身出世と困った義兄弟との絆

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黒田家って良くも悪くも実に個性豊かな人材の宝庫なんですが、彼らが活きたのはやはり黒田如水(官兵衛、孝高)がいたからこそ。

彼に見出された人材は、「黒田二十四騎」や「黒田八虎(くろだはっこ)」などとして名を残しました。

その中で、後に黒田家の筆頭家老となったのが栗山利安(くりやまとしやす)。

派手さはありませんが、黒田家の重しとしてしっかりと家を支えた忠臣でした。

黒田家の問題児・母里友信(もりとものぶ)をうまく馴らしたのも彼ならでは。

さて、栗山利安とはどんな人物だったんでしょうか?

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黒田家の問題児と義兄弟に

天文19(1550)年、利安は播磨国姫路に生まれたと言います。永禄8(1565)年に黒田如水(当時は孝高ですが如水で統一します)の元に出仕し、正直者であることから「善助(ぜんすけ)」と呼ばれるようになったとか。特に縁故の者がいたわけでもなく、自分の才能と人柄で如水に認められたみたいですよ。

 

永禄12(1569)年、赤松氏との青山・土器山(かわらけやま)の戦いでは2つの首級を挙げる武功を挙げます。

この年、利安は如水によってある男と引き合わされました。如水いわく「弟と思って世話してやってくれ」ということでしたが、利安は「自分のことすらまだ取り回せないでおりますのに、弟を指南などできましょうか」と断ります。しかしその様子がまた冷静だったので、如水は「それならなおさら指南してやってよ」と、結局、利安はこの男と義兄弟の契りを交わすことになってしまったのでした。

母里友信:Wikipediaより引用

この男こそ、母里友信。後に福島正則から名槍「日本号(にほん/ひのもとごう)」を呑み取った豪傑であり、黒田節のモデルです。青山・土器山の戦いで母里一族が討死してしまったため、家が絶えるのを惜しんだ如水によって、母里家の血を引く友信が家督を継ぐこととなったのでした。

とはいっても友信は家中でもかなり有名な問題児。人を人とも思わない振る舞いはクセがありすぎて、如水以外では使いこなせないような男だったんです。正直、利安は絶対受けたくなかったんでしょうが、これを受けてしまったのが、2人の腐れ縁の始まりでした。

 

腐れ縁伝説:とにかく間を取り持つ利安

利安の生涯に触れる前ではありますが、彼と友信の逸話をご紹介しましょう。

 

如水にはおとなしく従う友信でしたが、その息子・長政(ながまさ)には忠誠を誓ってはいるものの時折ゴネてみせるなど、周囲をハラハラさせていました。

 

長政の息子・忠之(ただゆき)が袴着(はかまぎ)の儀式を行ったときのこと。

友信が「父君以上の武功を挙げるのですよ」と忠之に話しかけたところ、

黒田長政:Wikipediaより引用

長政が「俺は十分やっておる!」となぜかキレます。

すると友信は素知らぬ顔をして、「何やらおかしなことを言う人もいるものだ」と呟くので、長政はさらにキレて大声を挙げました。

それを聞きつけた利安は、すぐさま駆けつけて恭しく長政にお酌をし、なんとか長政の機嫌を直します。

栗山利安:Wikipediaより引用

そこで、「返杯は私にではなく、そこの但馬(たじま/友信のこと)にお願いします」とナイスアシストをしました。

そして友信に向き直ると、「このキ○ガイめが!こっちに来てありがたく頂戴せよ」と一喝。

そこで友信も素直に長政の杯を受け取り、これで一同大いに盛り上がったと言うことでした。

 

こんな感じのことがしょっちゅうあったんですよ。

長政と友信が、友信の守る城の石垣の高さをめぐって揉め、友信がヘソを曲げたことがありました。そこで利安はまたも登場。長政の本意を友信に伝え、友信は「なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに」とあっさり機嫌を直す…なんてこともありました。

 

それだけではなく、どうしても我を曲げない友信に利安が鉄拳制裁をかまし、友信が「そこまで私を思ってくれるとは!」と涙して言うことを聞いたなんて話もあるんですよ。

 

まあ、結局は利安が友信のために誰かとの間を取り持つっていう構図がほとんどなんですけどね。

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黒田家を支えた黒田の良心

 

さて、話を戻しましょう。

母里友信と義兄弟になった利安は、その後彼と力を合わせて黒田家を盛り立てていきました。

天正6(1578)年、如水が荒木村重(あらきむらしげ)の説得に失敗して捕らえられてしまった時は、黒田家最大のピンチを家臣一同一致団結して乗り越えます。利安は如水を救出するという大きな功績を挙げ、彼から馬を与えられて感謝されたと言います。

 

この後は如水の下で順調に出世し、豊臣秀吉による九州征伐完了後の天正16(1588)年に如水が豊前中津(ぶぜんなかつ/大分県中津市付近)に封じられると、利安の石高も200石から6千石にまでジャンプアップしました。

 

如水が隠居した後は息子の長政に仕え、文禄の役に参加します。

この時、占領地の何郡かを長政から預けられた利安は、善政を布いて領民に慕われ、彼らが毎日会いに来るほどだったと言います。あまりにしょっちゅう来るので、「2,3日に一度でいい」と利安が頼んだほどでした。

一方、長政が様子を見に行くと、朝鮮の領民たちは途端に武装して警戒したと言います。ただ、その中に利安の馬印(うまじるし)を見つけるとすぐに鎮まったそうですから、彼がいかに信頼されていたかがわかる逸話です。

 

大名クラスにまで出世も謙虚さ変わらず

関ヶ原の戦い勃発時の利安は、如水に従って九州での戦に参加しました。石垣原(いしがきばる)の戦いで大友義統(おおともよしむね)を破り、降伏させています。

 

戦後、長政が筑前に加増転封されると、利安もまた1万5千石にまで石高を伸ばし、息子と合わせて2万石取りの立派な大名クラスへ出世を果たしました。

 

しかし、これほど出世しても、利安は謙虚さを忘れませんでした。

道で人に会えば必ず下馬して挨拶したそうですし、生活はいつも質素であることにつとめ、金に困った者には快く貸してやったそうですよ。

 

また、こんなことを言っていたそうです。

「自分は、先君(如水のこと)に仕えて3年目、初めて足軽の小者をひとりもらった。それが一番嬉しかったが、1万5千石をもらったときはさほど恩とも思わなかった」と。

つまり、「人は付け上がるものだから、初心を忘れず注意しなければいかん」ということで、若者を諭したそうですよ。こうした経験が、彼を終生謙虚でいさせたのでしょうね。

 

死の床でも気持ちは戦場に

元和3(1617)年に息子に家督を譲った利安は、6年後に長政が亡くなるのと同時に剃髪します。

彼が82歳の生涯に幕を下ろしたのは、寛永8(1631)年のことでした。

死ぬ前日の朝、みなが利安の枕元に集っていたところ、利安は突然かっと目を見開き「馬を引け!鉄砲を持て!」と叫び始めます。「敵が出たぞ、あの山に鉄砲を撃ち込むのだ!」となおも続けたため、「かしこまりました」と周囲が言うと、利安は再び静かに眠りに落ちました。しかし、同じことをその日のうちに5度も繰り返したそうです。

 

そして、翌日の夜明け頃に息を引き取ったのでした。

 

主君・長政の戦場での猪突猛進ぶりをいつも心配していた利安ですが、自身の心意気もまた、戦場にいつもあったのでしょうね。さすが黒田八虎。

 

まとめ

  1. 断ったのに母里友信と義兄弟になってしまった
  2. 問題を起こす友信を取り成し続けた
  3. 屋台骨として黒田家を支えた
  4. 出世しても謙虚さを忘れなかった
  5. 死の床にあっても気持ちは戦場にあった

 

とにかく母里友信の尻拭いをした「いい人」感のある人物・栗山利安。

主も含めて個性豊かな黒田陣営をまとめた、まさに筆頭家老としてふさわしい人柄だったんでしょうね。

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