武勇だけじゃない こんなにカッコイイ! 肥後の大名 加藤清正

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肥後の大名、加藤清正といえば賤ヶ岳の七本槍、虎退治、熊本城築城などが有名ですよね。

武勇に優れた武将として知られていますが、領主としての才覚もあり、信義に厚く民衆にも慕われた武将でもありました。

今回はそんな清正像の一端を、エピソードとともにご紹介します。

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危機一髪の虎退治

加藤清正の虎退治:Wikipediaより引用

清正といえば虎退治ですよね。

朝鮮出兵の折、暴れ虎が加藤家の馬と家来をかみ殺してしまいます。清正は家来らを制して自らその虎と向き合います。鉄砲を構える清正のもとへ虎が猛突進。家臣の誰もが危ないっーーと思ったその時、号砲一発!清正は自らに飛びかかろうとする虎ののどに銃弾をぶち込んで虎を倒しました。または、十文字槍で対戦し、虎にその片刃を噛み切られながらこれを倒したともいわれています。

 

この虎退治、清正のことではないのでは?とも言われていますが、清正の武勇伝が虎退治を結びつけたのかもしれませんね。

 

そんな清正の経歴をざっと紹介しておくと、清正の父は刀鍛冶(元は美濃の斉藤道三に仕えていたとも)。清正の母が豊臣秀吉の母と親戚だったため、城主になった秀吉に小姓として出仕し、秀吉とおね夫妻からは虎之助と呼ばれて可愛がられました。

利発で体力もある清正は頭角をあらわし賤ヶ岳の七本槍の一人として3000石を拝領。さらに肥後半国の大名となり、朝鮮出兵でも活躍します。関ヶ原の戦いでは東軍に属して肥後一国を与えられました。豊臣家の存続を願い、家康と秀頼の二条城の会見などにも尽力。熊本城など築城の名手でもあります。

 

 

七本槍から肥後の大名へ

清正は刀鍛冶の子から立身出世を遂げました。

出世の糸口は秀吉に仕えたことですが、利口で体力もあり、大志を持った少年だったようです。

おじの家に盗賊が入ったとき、おじ夫妻は縄で縛られました。

清正はとっさに鬼の面をかぶってつづらの中に隠れます。盗賊はそのつづらを持って帰り、開けたところ鬼の面をかぶった清正が飛び出すと、「わっ鬼だ」と盗賊らは本物の鬼と勘違い。一目散に逃げ出したそうです。

なかなか機転がきいて勇気もある少年だったようです。

鳥取城復元城門:Wikipediaより引用

また、鳥取城攻めの際に敵情視察を命じられて上司に同行した際も、事前に敵の伏兵がいると察知して進言しましたが、上司は若い清正の言葉を信じませんでした。しかし伏兵が現われます。清正は左右に弓矢を放って敵を防ぎ、刀で奮戦し首を獲っています。

そんな清正は大きな野望を抱いていました。若い頃、清正が近江国の安河を渡っていると、20センチメートルはあろうかという大黒天の像が流れてきました。「これは吉兆だ」と喜ぶ家臣に、清正は「大黒天は3000人を護るというが、自分は1万人の家来を持つ。小さな大黒天は不要だ。流せ」と言い放ちました。

戦国立身のとてつもない大きな夢を見る若き日の清正、何だかすがすがしいですよね。

 

清正は天下取りに向かう秀吉に従って数々の武功をあげ、賤ヶ岳の戦い後には3000石、その後の活躍で肥後半国の城主へと出世します。

領主、大将としての心構え

清正公像:Wikipediaより引用

ここからは清正の領主、大将としてのエピソードを見てみましょう。

 

清正が入った頃の肥後は田畑が荒廃していました。清正は治水工事に注力し、堤防や溝を造り、河川を改修します。17年の治世の間に農村の復興や2000町以上の新田開発を実現させており、領主としての手腕にも優れていたのでしょう。

領民たちに対する思いやりも格別で、土木工事や熊本城築城には民衆を動員しましたが、農閑期を中心に行ない、賃金も支払ったので農民からは感謝されました。

 

朝鮮出兵では「鬼上官」と敵方からも恐れられる猛将ぶりでしたが、一方で家来たちには民衆への暴行を禁じ、民家の女たちを拉致してきた小西家の家来たちを戒めて女性たちを解放させたとも。気は優しくて力持ち。なかなか仁徳の人ですよね。

 

では家臣に対してはどうだったのでしょうか。

朝鮮出兵から帰国直前、清正は旧友、戸田高政のいた城に立ち寄ります。周囲はもう敵がいないにも関わらず清正は武装姿を崩しませんでした。戸田がその理由を尋ねると、「下の者は上の者を学ぶ。大将がくつろげば、下は大いに怠けるものなので、陣法はいつも厳しくしないといけない。上に立つ一人の心が下万民に通じるとはこのことで、私も苦しいが気を緩まぬようにしているのだ」と答えます。

 

部下はいつもしっかり上司を見てますからー。反面教師にされるか尊敬されてついてきてもらうか。上司の皆さん、どちらの道を選ぶか考えましょう(笑)。

 

やはり朝鮮出兵でのこと、清正は戦闘中の軍を引き揚げさせるため、陣中を見回し末席にいた庄林隼人に引き揚げ役を命じました。隼人は戦いに割って入り、その役目を無事に果たします。ところが森本義太夫という家臣が清正にくってかかります。「本来であれば上席にある自分の役目なのに。殿は隼人より自分を劣っていると思い庄林に頼んだのでしょう。情けない」と言うのです。

これを聞いた清正は笑い出しました。そして「お前たちは同じように腹心。器量に応じて命じただけだ。お前は勇気があるから武勇が必要な時はお前を呼ぶ。お前の実力は誰も及ばない。しかし慎重な時には庄林が適しているのだ」と述べたため、義太夫も安堵したといいます。

 

まさに適材適所。戦場では一瞬の判断が命取りにもなります。その場その場の判断で家来を見事に使いこなす腕前は見事ですよね。

でもこれは誰もが簡単にできることではありませんよね。適材適所を実行するためには日ごろからよく家臣のことを知っておかないとできないですから。部下はしっかり上司を見ていますが、上司はそれ以上に部下を知っておく必要があるようです。

そのうえで「武勇はお前に頼むから」というキュン?とくるダメ押しフォローされたらモチベーション爆上がりです。

 

論功行賞についてもちゃんと深い考えがありました。城攻めをしたときの論功行賞で2位になった森本は「1位の庄林は首を獲っていないのに、なぜ首を獲った自分より上なのか」と不満を口にします。このとき清正は

「確かにお前は首を獲ったが、自分の手柄を第一にして主人の私を置き去りにした。彼は首を獲らなかったが、私のそばから離れず敵を防いで俺の身を護ってくれた。忠を尽くしたのは庄林だ」と諫められます。

あちゃー。森本さん殿様を見捨てていたんですね。でもこれも清正が家臣をちゃんと見ている証です。当時はある意味、成果給なので、地味な働きもしっかり見てくれる殿様は嬉しいですよね。結果だけしか見ないと、みんな殿様をほっぽりだして首獲りに走るかもしれませんよ(笑)。

 

ここまで聞くと、清正が無骨者だなんて思えませんよね。しかも清正は褒めるタイミングも絶妙だったよう。清正家臣の飯田覚兵衛は同僚が死んでいくのが嫌になり、いつも戦をやめようと思っていました。

しかし、いつもついつい頑張ると、その直後に清正から褒められ、刀や感状をもらうのでやめ時を逃した・・・というエピソードも。

 

自らが率先して働く心がけを示し、家臣のことを把握して適材適所で使い、しかもほめ上手! これなら家臣も頑張っちゃいそうです。

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豊臣家への忠誠と熊本城

清正といえば、生涯豊臣家に忠義を尽くしたことでも知られています。

自分を一から武将として育て、出世させてくれたのは秀吉だと十分心得て感謝していました。

肥後の地を拝領した時も、讃岐と肥後どちらが良いかと問われて、秀吉の朝鮮出兵の先がけになりたいと、大陸に近い肥後を望んだとされています。

また、秀吉から謹慎をくらっていた時、伏見大地震が起こりました。清正は家臣200人を連れ、秀吉のいる伏見城へ真っ先に駆けつけ警護しました。この忠誠心が認められて謹慎を許されたとか。ついた異名が地震加藤でした(ただし清正はこの時、大坂にいたので行っていないという説も)。

清正が関ヶ原の合戦で徳川家康の東軍についたのは、石田三成との対立が理由ですが、清正は「この戦いは秀頼様の戦いではない。奉行(石田三成)らが勝手にしたことだ。この戦いで石田らが負けると、その後秀頼様をお守りする人がいなくなってしまう」という理由もあったようです。

のちに徳川家から拝謁を徳川家、秀頼の順にすることを要請されますが、豊臣家の報恩が大切であると断っています。

 

1611年に家康と秀頼が二条城で会見した時には、しぶる秀頼の母淀殿を説得し、当日は京都市中に非常時に備えて手勢を潜ませるなど万全の体制で、秀頼を護衛しました。会見では大小の刀を外していましたが、清正は懐にそっと懐剣をしのばせていたとか。何かあればこれで差し違えるつもりだったとも言われています。

清正は、この会見の後、まもなくして亡くなりました。死因は諸説ありますが、絶対ストレスも一因ですよね。

 

清正の居城熊本城も豊臣家のことを考えて築城されていたともいわれています。

熊本城:Wikipediaより引用

奥の間に立派な「昭君の間」という部屋がありました。これは「将軍の間」とも。いざ大坂城が危うくなった時に脱出した秀頼を迎え入れる予定だったともいわれています。この部屋には抜け道もあり、侍屋敷に通じていました。

 

歌舞伎もアピール

でも清正は豊臣家に固執して時流に乗り遅れた大名だったわけではありません。次の天下は徳川家と見定めていたようです。自らも徳川家と婚姻関係を結んだほか、徳川家の公役に駆り出されてグチる同僚の福島正則には「そんなに嫌なら国に帰って戦支度でもしたらどうだ」と戒めています。

また、清正は歌舞音曲を文弱と嫌っていましたが、晩年は歌舞伎興行を催しました。これも平和の時代に文化を重視することで謀反の意志がないことをアピールしたのでしょう。

 

まとめ

清正は若い頃に抱いていた大志を叶えることができたのでしょうか。

志を持って飛び込んだ少年時代、秀吉のそばでがむしゃらに働いて肥後一国の太守に駆け上がった壮年時代、天下の移り変わりを見極めながらも秀吉の遺児を守ろうとした晩年。徳川への筋を通しながらも豊臣恩顧の大名としての生き方も貫いた清正。思い通りだったかどうかはわかりませんが、やりきった感はあったのではないでしょうか。

バランス感覚に優れた、家臣思いの頼もしい武将だったようです。

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