佐々成政(さっさなりまさ)といえば、さらさら峠越えで有名ですよね。
1584年、成政は浜松にいる徳川家康に会いに行くために、富山から前人未踏ともいえる真冬の北アルプスの立山連峰縦断を敢行します。
なぜこのような無謀なことをしたのか?
そこには不器用ながら懸命に生きようとした成政の生きざまがありました。今回はそんな佐々成政についてご紹介します。
運命の本能寺の変

尾張の国人領主の子に生まれた佐々成政は早くから織田信長に馬廻として仕え、わずか10人しか選ばれない黒母衣衆(赤母衣衆と合わせて20人)に選ばれます。さらに当時最先端の武器、鉄砲隊の隊長の一人に選ばれて活躍するなどエリート中のエリート。
ライバルの前田利家と手柄を争うように出世しながら、北陸方面の平定を命じられた柴田勝家の与力となり約3万石を与えられ、のちには富山一国を任せられます。
ここまでまさに絵に描いたようにトントン拍子。「一寸先は闇」とは信長の家臣たちにある言葉かもしれませんね。

本能寺の変:Wikipediaより引用
1582年6月、ご存じ本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げると、織田家臣の運命は激変していきます。
成政が上杉と交戦中で動くに動けない間、羽柴秀吉が明智光秀を倒し、織田の実権を握ります。やがて秀吉は柴田勝家と対決することに。

柴田勝家:Wikipediaより引用
この時、成政は運命の決断を迫られます。秀吉につくか、柴田勝家につくか・・・。成政が選んだのは勝家でした。長年勝家と一緒に戦ってきたこともありますが、秀吉憎しに燃えていたからです。もともと成政は無遠慮で図々しい秀吉とウマが合わなかったようです。

しかも秀吉は信忠の子で幼い三法師を跡目に担ぎ出し、織田家を乗っ取ろうとする野心がみえみえ。
古くから信長に仕えてきた成政はこれに強い憤りを覚えました。勝家ならば秀吉を倒し、織田家の跡目を正してくれるに違いないと望みをかけたに違いありません。
秀吉と勝家が雌雄を決した賎ヶ岳の戦いが始まりました。成政は勝家に味方しますが、自身は上杉と交戦中のため動けず、わずかな援軍を送るのみでした。
しかし勝家が敗北したため、上杉と秀吉に寝返った前田利家に挟み撃ちにされた成政は万事休す。丸坊主となり秀吉に降伏しました。
二度目のチャンス
しかし成政は心から秀吉に降伏したわけではありません。復讐の機会が意外に早く訪れます。信長の二男信雄が徳川家康と組んで秀吉と敵対した小牧・長久手の戦いが始まったのです。
「キターーーー」

成政は家康方に味方します。このときの家康は反秀吉派にとっては神様、仏様、家康さまの救世主だったでしょうね。富山の成政は敵方に囲まれるなか、秀吉方の前田利家の末森城を攻めます。
ところが、とんでもない報告が飛び込んできました。救世主のはずの家康が秀吉と講和して戦いをやめてしまったというのです。じつは秀吉が勝手に秀雄と講和するというウルトラCを見せたため、家康も戦いの大義名分を失い、矛を収めざるをえなかったのです。
「うそー。そりゃないよ」と成政は叫びたかったでしょう。敵に囲まれた成政はこのままでは滅亡必至。何よりここで屈すれば天下は秀吉に奪われてしまいます。
今ならメールや電話で「ちょっとー」と大クレームを入れるところ。しかし当時はそんなテクノロジーはありません。気持ちの収まらない成政はなんと自らが家康を説得しようと考えます。
ところがここで大問題にぶつかります。

東は上杉、西は前田と敵に囲まれており、南の浜松にいる家康のもとへ向かう道がないのです。あるのはただ壁のようにそびえる北アルプスの立山連峰だけ。しかもこの時は現在の暦で一月。山は人の背丈よりたかい深い雪で覆われ、修験者でさえも冬には入山しません。
普通なら「仕方ない」とあきらめてしまうところですが、ここで成政は雪山行軍を決断します。どれだけ秀吉が嫌いなのか―と逆に言いたくなるほどです。
さらさら峠越えを敢行

Wikipediaより引用
留守を預かる家臣には「病気と称しているように装い、毎日膳を出せ」と命じて約50名の家臣団、夏秋の立山入山のガイド200名とともに登山隊を組み出発します。
弥陀ヶ原から立山温泉へ入り、天候のよい日を待って数人の案内人とともにザラ峠をこえ、黒部川を横ぎり、信濃大町に出たといわれています。今のアルペンルートとほぼ同じルートでしょうか。今ならピッケルやアイゼンなどの装備もありますが、当時、ほとんど装備はありません。
途中、樵の家にたどりついたところ、まさか人が来るとは思わないので「バケモノが出た」と驚かれたほど。過酷な登山で、途中で凍死や転落死など多くの死者も出したとされています。
これ、本来であれば無茶な登山ながらも「戦国武将佐々成政、前人未踏の真冬の北アルプス踏破」とスクープ! となったのでしょうが、もちろん秘密の登山なのでそんな快挙は闇から闇へと葬られました。
家康も成政を歓待したようですが、「もう一度挙兵を」という成政の要望には首を縦に振りませんでした。このあと、成政は信雄にもお願いに行きますがやはり覆りませんでした。
成政のこの時の脱力感、察するに余りあります。頑張っても報われない気持ち。現代も「わかるわかる」という人もいるのではないでしょうか。世の中、思い通りにはならないものですよね。
その後の成政
この後の成政には過酷な運命が待ち受けていました。秀吉に降伏するしかなく、何とか命は許されましたが領地はほとんど召し上げられ、秀吉のお伽衆(話し相手)に。

利家はそんなみじめな成政を見て「そんなに命が惜しいのか」と笑いましたが、成政の秀吉に対する敵愾心は衰えてはいませんでした。いつか必ず見返してやる! という思いを支えに生きていたのです。
前後して家臣から上杉家を見習ってはどう?といわれると、成政は「自分は越中平定などで終わる気はない。秀吉を倒して天下を握る」と豪語したと伝えられています。
そんな成政に挽回のチャンスが訪れます。九州平定で功績をあげ、秀吉から肥後国を与えられたのです。
じつは肥後は目立った領主がなく国人たちが群雄割拠し、統治が難しい地でした。秀吉も何年間か検地を行わないと定めており、その旨を成政に言い含めておいたのですが・・・。
再びの挙兵を狙う成政は国を富ませたいと願い、強引に検地を行ないます。その結果、国人たちの大きな反発を買い、それが泥沼化して近隣の大名の助勢をあおぐことになりました。
この失政をとがめられ、成政に下された処分は切腹・・・。こうして成政は大嫌いの秀吉によって死を迎えたのでした。
秀吉がこれを見越してわざと肥後を与えたともいわれますが、秀吉は越中の一向一揆や富山などで手腕を発揮した成政の腕を見込んでいたとされています。
成政とは?
こんな成政の生き方、皆さんはどう思うでしょうか。もしかしたら単なる武功バカだったの?と思うかもしれませんが、それは違います。
じつは見識、博識ともに優れた人物でした。若い頃、学者の千田吟風(ちだぎんぷう)に、古今の名将の言行や兵法などを学んでいます。

ある時、信長に対して「信長公に属さない国があるのは徳が足らないからです」と諫言しています。あのキレたら怖い信長ですよ! 成政の勇気すごすぎません? この時の信長は喜んで、成政と政道を語り合ったそう。信長の祐筆も成政の博学に舌を巻いたと言われています。
富山を治めていた時には川の氾濫に困っている領民のため佐々堤を整備しました。常願寺川の沿岸では、地域ごとに堤防を作り、他の地域の堤防を切ることも多く争いが絶えませんでした。
そこで成政は自らが陣頭指揮をとって沿岸の全住民のための堤防(佐々堤)を築き、住民たちに大いに感謝されています。これは大変な難工事で、成政のリーダーシップと領民たちへの思いがなければできないことでした。善政を敷いた領主・成政の姿が垣間見えます。

蒲生氏郷:Wikipediaより引用
あれほど成政が毛嫌いして憎んだ秀吉も、成政のことを高く買っていました。のちに蒲生氏郷に、「名に聞こえる成政の馬印」として成政の三階菅笠の馬印を授けています。
このように武勇も博識もあり、かの信長からも信頼されたエリートの成政。後世から見れば、これだけ賢いのにどうして要領よく生きられなかったの?と思うかもしれません。
でも要領よくなんか生きたくなかったのかもしれませんよね。
不器用でも自分の信念を貫きたい。織田家をのっとった秀吉を心からは許したくない。
そんな硬骨漢がいてもよいのではないでしょうか。
成政こぼれ話
さらさら峠越えにまつわるこぼれ話を2つご紹介します。
成政がさらさら峠を往復して帰国すると、とんでもない話が待ち受けていました。成政が寵愛していた側室の早百合が小姓と密通したというのです。
これは彼女に嫉妬した他の側室たちの讒言でしたが、成政はこれを信じて2人を成敗しました。早百合を吊るして惨殺したといわれ、彼女は死の間際、「佐々家の家名を断絶させる」と叫んだとか。成政の切腹も早百合の祟りなのでしょうか。
のちに神通川の辺りに女の首のような鬼火が現われます。風雨のない日にも「早百合」と呼べば、このぶらり火が現われたと言われています・・・。
怖い話から一転、今度は夢が広がるお話。
成政がさらさら峠を越えた理由はじつはもう一つあったのだそう。再挙のための軍資金を登山の途中、どこかに隠したというのです。
軍資金は百万両で49個の壺に分けて埋められたとか。
富山県に残る里歌「朝日さす夕日輝く鍬崎に7つ結び7つ結び黄金いっぱい光り輝く」はその軍資金を隠したありかを示す暗号であるとも。
鍬崎山、鉢ノ木峠など候補地はいくつもありますが、真実はどうなのでしょうか。もしかしたら今も人知れずひっそりと埋もれているのかもしれません・・・。
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