強い者に挑んで敗れた者に、世間はちょっと優しいもの。敗れた上に悲劇の最期を遂げたとなれば、贔屓したくなっちゃいますよね。今回ご紹介する小栗満重(おぐりみつしげ)は、地方の小領主ながら江戸時代には人形浄瑠璃のネタにされるくらい人気があった人物なんです。というのも、彼、屈指のネチっこさを誇る鎌倉公方(かまくらくぼう)・足利持氏(あしかがもちうじ)に反抗し続けたからなんです。さて、いったいどんな人生を歩んだのか…見ていきたいと思います!
小栗氏と室町幕府、鎌倉公方との関係
平将門の滅亡後、その一族が常陸(茨城県)に領地を与えられて入り、さらにその支流が小栗(茨城県筑西市)に入ったところから、小栗氏の歴史が始まります。
室町時代に入ると、満重の父である基重(もとしげ)は、当時の鎌倉公方・足利基氏(あしかがもとうじ)の一字をもらいました。その基重の息子として生まれたのが、満重です。彼もまた次の鎌倉公方・足利氏満(あしかがうじみつ)から一字をもらいました。
鎌倉公方とは、将軍の代理として関東地方を治める存在でした。ところが、両者の関係はやがて険悪になってしまい、時に鎌倉公方が将軍の座を狙うこともあったんです。元々鎌倉公方というのは足利尊氏の息子から始まっているので、当然、鎌倉公方は自分にも将軍に就く資格があると考えていたんですね。
とまあそういうわけで、鎌倉公方がいろいろやらかしそうなのに危機感を感じた幕府は、関東の武士と直接主従関係を結ぶことにしたんです。その武士たちが「京都扶持衆(きょうとぶちしゅう)」でした。小栗氏はこの京都扶持衆の一員だったんです。
鎌倉公方の直接の部下ではないものの名前の一字をもらうなどしていましたから、京都扶持衆とはいっても、小栗氏は表向きは鎌倉公方とうまくやっていこうと思っていたのでしょうね。
犬猿の仲・足利持氏との対立
家督を継いだ満重ですが、彼はどうにも4代鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ/足利氏満の孫)とは合いませんでした。何がどうしてそんなに嫌い同士なのか不明ですが、とにかくお互いの存在がイヤだったみたいですよ。
まあ、持氏という人も、いろいろ根に持つタイプでしたからね。後に、将軍を決めるくじ引きに外れると、僧から還俗して将軍になった足利義教(あしかがよしのり)を「還俗将軍」と罵って、祝いの使者も派遣しなかったくらいです。また、元号が変わったのに頑として関東では前元号を使い続けていましたし、プライドが高い上にネチネチした感じだったんですよ。
そして応永18(1411)年、満重は反・持氏の兵を挙げ、持氏が派遣した討伐軍を大いに破ったんです。このことが両者の亀裂を決定的にしてしまいました。
それから5年後、持氏と対立した前関東管領の上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱が起きます。禅秀は関東管領として鎌倉公方を補佐する立場でしたが、持氏と対立してクビになっていたのでした。
この上杉禅秀の乱において、満重は禅秀に加担します。まあ、当然ですよね。持氏キライですから…。
禅秀軍は、一度は鎌倉を制圧する勢いでしたが、幕府が派遣した討伐軍によって鎮圧され、禅秀は自害。そして満重は降伏することとなったのでした…。
持氏の復讐と満重の決断
もちろん、持氏からすれば満重はホントに気に入らないヤツ。そのため、上杉禅秀の乱後、満重は所領のほとんどを没収されてしまいました。となれば、持氏への恨みは相当深まったわけです。
その後、何度か持氏と小競り合いを演じた挙句、応永29(1422)年、満重はついに乱を起こしたのでした。これが「小栗満重の乱」です。
満重は、同じ京都扶持衆の宇都宮氏や真壁氏、桃井氏など近辺の豪族と協力して蜂起し、一時は下総結城城(しもうさゆうきじょう/茨城県結城市)を奪うなどその勢いはかなりのものでした。
しかし、ここで足利持氏が自ら出陣してきたんです。
持氏はこの時、相当激怒していたようですよ。というのも、伏線は上杉禅秀の乱の時からあったんです。
室町幕府と将軍・足利義持(あしかがよしもち)はいちおう禅秀討伐軍を派遣しましたが、「あれ、ちょっと待てよ?」と思いませんか。考えてみれば、将軍と鎌倉公方の仲は悪いわけですから、積極的に救援していたのかというと疑問符がつきます。しかも、義持は京都扶持衆に対して、禅秀に加担し持氏に反抗することをひそかに認めていたんですよ。だからこそ、満重ら京都扶持衆は禅秀側についたわけなんです。
これを知った持氏、根に持つ人ですから、ホントに怒ってしまったんです。
そして、かなりの大軍を率いて自ら満重討伐にやってきたのでした。持氏が出てくる戦って数えるほどしかないんですが、この戦いはそのレアな持氏が現れたんですよ。これはつまり、満重を「見せしめ」的な意味合いでつぶそうということだったんです。
持氏の大軍の前に、満重ら反乱軍はあっという間に瓦解してしまいました。そして、満重は本拠地の小栗城で自刃して果てたのです。
その後の小栗氏
満重の死後、足利持氏は永享(えいきょう)の乱で敗れ自害します。すると、結城氏が持氏の遺児を担いで挙兵し、結城合戦が起きました。
その際、満重の息子の助重(すけしげ)は幕府方として参戦し武功を挙げ、小栗などの旧領を取り戻したんです。
ところが、それから年月を経て康正元(1455)年、関東一帯に波及した享徳(きょうとく)の乱で、持氏の子・成氏(しげうじ)の攻撃により、助重は小栗を失ってしまいました。そして出家したんですが、彼には絵の才能があったようで、絵師として名を挙げたんです。時の将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に認められるほどで、助重は御用絵師となり、一生を終えました。
なんだか波乱含みな小栗氏ですが、満重と助重の親子には、ある伝説が残されているんですよ。
満重逃亡説と小栗判官伝説
満重が小栗城で自害したのはほぼ確定のようですが、三河(愛知県)に逃亡したという説も残されています。それが後に「小栗判官(はんがん)伝説」として、江戸時代には近松門左衛門の人形浄瑠璃の題材にもなったんですよ。
それはこんな話になっています。いくつか伝説があり、史実と異なったり、満重と助重が入れ替わったりしていることもありますが、大まかにこんなものだとおわかりいただければと。
小栗城を脱出した満重は、10人の家来と相模(神奈川県)の横山大膳(よこやまだいぜん)という人物の世話になります。そこで満重は大膳の娘・照手姫(てるてひめ)と恋に落ちました。
しかし、大膳は満重の首を取って褒美をもらおうと企み、満重らに毒入りの酒を飲ませたんです。部下たちはみな死んでしまい、満重も倒れ、金を奪われてしまいました。
しかし、満重だけは虫の息ながら何とか生きていたんです。部下たちの死体と一緒に捨てられた彼ですが、ある僧に助けられ、一命を取り留めました。
一方、照手姫はというと、父が最愛の人に手をかけるという事実に悲嘆し、家を出てしまいます。そして追っ手によって身ぐるみはがされた上、売り飛ばされてしまったのでした。
やがて全快した満重は、かつての領地を取り戻すと、部下の命を奪い自分を殺そうとした大膳を討ち果たします。そして、売り飛ばされた後に下女として働いていた照手姫を見つけ出し、夫婦となって幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし。
と、こんな話になっているんですよ。筋としてはよくある話かもしれませんが、その主人公に選ばれるくらいですから、満重は昔から人気があったのでしょうね。
まとめ
- 満重は京都扶持衆で、将軍直属の武士だった
- 鎌倉公方・足利持氏とは仲が悪かった
- 持氏に反抗し乱を起こしたが敗れ去った
- 息子・助重は領地を失い、絵師として名を挙げた
- 小栗判官伝説の主人公として人気がある
鎌倉公方に徹底抗戦した小栗満重ですが、やはり力の差にはかないませんでした。しかし、最後まで反抗を続けたところは、気骨ある人物だと感じます。
無念の最期を遂げはしたものの、権力に立ち向かった人物だからこそ、昔から民衆に支持されて来たのでしょうね。
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