戦国一ネガティヴな武将は毛利隆元! 大きすぎた父と弟へのコンプレックス…

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日々、生きるか死ぬかの瀬戸際が続く戦国時代、前向きでなきゃやってられませんよね。でも、毛利隆元はそんな戦国時代における突然変異と言ってもいいかもしれません。

パパは毛利元就、弟ズが吉川元春・小早川隆景というキラキラしいファミリーの長男として、彼はかなりコンプレックスを抱いていたようですよ。

今回は弟たちの影に隠れがちな毛利のプリンス・毛利隆元についてご紹介しましょう!

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毛利元就の嫡男として誕生

大永3(1523)年、隆元は毛利元就と正室・妙玖の長男として安芸(あき/広島県西部)に誕生しました。吉川元春と小早川隆景は同母弟となります。

この頃の父・元就は、まだ地方の一豪族に過ぎず、尼子氏から大内氏の下に移ったところでした。そのため、15歳になった隆元は大内義隆の人質として周防(すおう/山口県)に送られます。

人質となってすぐ元服した隆元ですが、この名前は大内義隆の「隆」の一字をもらってつけられました。大内家としても、隆元は将来の幹部候補として見ていたようですよ。名前についてもそうですが、待遇はなかなか良かったようです。

3年間の人質生活は、隆元の教養面には特に大きな影響を与えました。

この大内家、当時としては珍しく、「西の京」とまで呼ばれるほど京風の文化が栄えていたんです。そのため、ここで思いきり大内の薫陶を受けた隆元には、深い教養が養われていったんですね。彼はまずまずの美少年だったようで、大内義隆の覚えもめでたかったそうですよ…!

いきなり死を覚悟するほどの戦に放り込まれる

人質生活を終え、実家へと戻ってきた隆元ですが、その2年後の天文11(1542)年、いきなり厳しい戦に直面します。

勢い盛んな大内義隆は、勢力拡大を見込んで尼子氏の月山富田城(がっさんとだじょう)に攻め込みました。しかし、尼子方のゲリラ戦法や味方だったはずの豪族の寝返りなどによって大敗してしまったんです。

大内方として参戦していた毛利家は、ここでいちばん厳しい殿(しんがり)を任されました。名誉でもありますが、最も危険な役目です。そのため、父・元就と隆元は死を覚悟するほどでした。しかし、毛利家臣たちが元就の甲冑を身に付けて囮となり2人を逃がしたため、何とか生きて戻ることができたんですよ。

ちなみに、この撤退の際に大内義隆の息子が死んでしまい、これがきっかけで義隆はまったくやる気をなくしてしまったんです。そのため、大内家の勢いはここでストップし、衰退を始めたというわけなんですね。

自信なく家督を継ぐ:元就パパの心配

さて、主家が弱ってくれば独立のチャンス! というところですが、天文15(1546)年、元就が突然の隠居宣言をします。そして、突然に隆元に家督が回って来たんですよ。

さすがに誰だって、こんなに突然では心の準備もできていないはず。一応、隠居と言っても元就がほぼ実権を握っていたようですが、その裏では隆元がこんなことを言っていたからなんだそうですよ。

「父上が後見してくれるなら、私でも毛利の領地は守れますが…た、たぶん…」

はい、弱気です。

毛利の当主たるもの、こんなんでは先が思いやられる…とでも思ったか、元就はガチガチの武闘派で毛利の老臣・志道広良(しじひろよし)を隆元に付けて、ビシバシ教育します。

元就としては、大内家のお公家文化に感化されている隆元が物足りなくもあったようですよ。「能も芸事もいらん、武と計略が肝心なのだ!」と、度々隆元を叱っていますし、「あいつは優柔不断だから、武将にはちょっとな…」とぼやいてもいます。仕方ないですよ、あの大内家で過ごしちゃったらお公家色に染まるのは当然のことなんですし…。

弟2人が武将としてあまりにもデキすぎたことも、元就が隆元を心配する要因のひとつでもありました。そして、同時に、隆元がコンプレックスを抱く最大の要因にもなったんです。

偉大すぎる父、デキすぎる弟へのコンプレックス

特に、隆元にとっては、毛利家を中国地方の覇者にまで押し上げようとしている父の存在は強烈にまぶしいものだったようですよ。それは尊敬の念でもありましたが、隆元にとっては重すぎるものでもありました。

隆元が厳島神社に納めた願文には、「願うのは父の武運と無病息災。そのためには自分の命を捧げても構いません」とまで記されているんです。確かに、自分が家督を継いだとはいえ父が権力を持っていることには変わりなく、それは自分の無力さを感じさせてしまうものだったのでしょうが…ちょっと弱気な感じもしますよね。

また、剛の者として知られた弟・元春と、知謀に長けた隆景との兄弟仲も、実は決してうまくはいっていなかったようなんですよ。

隆元が元就に宛てた手紙では、「2人は私の城に来てもすぐ帰ってしまいます。それに、それぞれ自分の家(吉川・小早川)のことばかり考えていて、相談となれば父上にばかり。私はのけ者にされているようです」と愚痴を言っています。

これを読んで危機感を抱いた元就が、三本の矢の逸話で有名な「三子教訓状」を作成することになったとも言われています。

だんだんネガティヴさを垣間見せるようになってきた隆元ですが、親しい僧に出した手紙には、彼の心の闇の根深さがはっきりと書かれているんです。

「自分は無才で無器量」、「毛利家は自分の代で終わりだ」、「父はすごすぎてかなわない」、「自分には補佐してくれる良い家臣もいない…」と。お兄ちゃん、どうしたの! と言いたくなりますが、これが彼の本音だったんですね。

ただ、最後の「力不足だが、自分は頑張る。こうしたことは胸の内にとどめておく」という一文が、涙を誘うんですよ。お坊さんくらいにしか本音を言えず、自分ひとりで自分のネガティヴさと戦っていた隆元…。これほど孤独な戦いがあるでしょうか。ツラかったでしょうね…。

父も弟も、隆元がここまで考え込んでいたとは思いもよらなかったようです。隆元の没後にこの書状を読んだ彼らは、「これほどまでに思いつめていたとは…!」と驚いたそうですよ。

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全然無才じゃない! 隆元にしかできないことがあった

こんな風に、父と弟へのコンプレックスまみれだった隆元ですが、実は内政面(特に財務)で優れた手腕を発揮しました。

毛利家はいち早く五奉行制を取り入れ、官僚による内政を行っていましたが、それを統括したのは隆元でした。また、戦費の調達や傘下の豪族たちとの交渉を行っていたのは彼であり、信頼もあったそうなんです。事実、隆元が亡くなると、毛利家の収入が減ったというんですから、彼がそれだけうまく家を切り盛りしていたことがわかりますよね。これは、「ザ・武将! 」な元就や弟たちにはできなかったことです。

地味だけれどなくてはならない存在。それが彼だったことを、悩んでいた時の彼に教えてあげたいですよね。プレゼンしたいですよ、「毛利隆元の毛利家への貢献度」とかタイトルつけて。

その一方で、ホントにネガティヴですか?と聞きたくなるような果断な部分も見せているのが、隆元の複雑なところです。

天文20(1550)年の大寧寺(たいねいじ)の変で大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれると、隆元は陶との対決に及び腰な元就に対して「いずれ毛利と陶は決裂する運命。今やらねばいつやるのですか! 」と言い、その後の厳島の戦いで陶軍に勝利を収めているんですよ。

いったいどっちが本当の顔なのか…と思いますよね。その掴めなさがまた、興味をそそるんです。もしかすると、自分自身をも奮い立たせていたのかもしれません。

突然の死! 毒殺説も…

ネガティヴな内面を表に出すこともなく、隆元はその後も豊後(大分県)の大友氏との戦に臨むなど、父を支え、毛利の当主として申し分のない働きを見せました。

そして、室町幕府からは安芸や周防など中国地方各国の守護に任ぜられ、隆元自身も戦国大名として名を挙げていったんです。

しかし、死は突然に訪れました。

永禄6(1563)年、宿敵・尼子氏との全面対決のため、隆元はすでに尼子と対峙している父の元へと向かいます。

その途中、備後(びんご/広島県東部)の豪族・和智誠春(わちまさはる)に、酒宴に招かれた隆元ですが、その宴から帰ると、突然苦しみ出しそのまま亡くなってしまったのでした。まだ41歳という若さだったんです。

跡継ぎの輝元はまだ幼かったため、元就が後見となりました。

しかし、元就の悲嘆は深く、名将として知られた彼の判断力をも失わせるほどだったんですよ。

元就は隆元の側近の関与を疑い、すぐに切腹させていたのですが、実はその側近、酒宴を断るようにと隆元に進言していたことが、後になって判明したんです。そして元就は招待した側の和智を疑い、幽閉・誅殺したのですが、和智が本当に隆元を毒殺したのか、真実はわからずじまいでした。

名将らしからぬ問題解決のやり方ですよね。それだけ、隆元の存在が元就にとっては替えがたいもので、それを失った動揺が大きかったということだったのでしょう。

いなくなってありがたみが分かる、とはまさに隆元のこと。

弟たちもそのことにようやく気付き、本家を支えていくという思いを新たにしたのでした。

こうして、吉川・小早川の「両川(りょうせん)」が毛利本家を支える体制が固まっていったというわけです。

まとめ

  1. 毛利元就の嫡男として生まれ、大内家の人質となった
  2. 国に戻るも、月山富田城の戦いでは死を覚悟するほどのピンチに直面した
  3. 家督を譲られるも、自信がなく頼りなかったらしい
  4. 父と弟たちへのコンプレックスが大きく、ネガティヴ思考だった
  5. しかし、財務など内政手腕には秀でていた
  6. 突然の死には毒殺説もある

ちなみに、毛利家の血筋らしく、隆元は正室ひとすじでした。ただ、息子・輝元は多くの側室を置いたんですね。

「毛利は私の代で絶える」というのは、「毛利の『正室ひとすじの血』は私の代で絶える」ということだったのかもしれませんよ、案外。

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