「夜叉九郎」戸沢盛安、東北で輝きを放ち駆け抜けた25年の生涯!

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全国各地に勇猛な武将が割拠した戦国時代、東北の地もまた多くの豪族たちがしのぎを削り、数えきれないほどの多くの戦が繰り広げられたんです。

その中のひとり・出羽角館(でわかくのだて/秋田県仙北市)の戸沢盛安(とざわもりやす)は、「夜叉九郎(やしゃくろう)」の異名を取る猛将でした。

彼の生涯はわずか25年と短いものでしたが、ひときわ鮮やかな輝きを放ちました。

では、彼の生涯を追ってみたいと思います。

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東北を生き抜いてきた戸沢氏

盛安が生まれた戸沢氏は、鎌倉時代には奥州の地に在住していた模様です。

最初は岩手県雫石(しずくいし/当時は滴石)を領地としていました。

後、後醍醐天皇(南朝)と足利尊氏(北朝)が対立する南北朝時代が訪れると、戸沢氏は南朝側の陸奥守・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)に付きました。

そして顕信が敗北し出羽に移ると、それについて行ったということです。

ただ、他の東北諸将がそうしてきたようにその後は北朝側に転じ、動乱の時代を生き抜いてきたのでした。

盛安の父・道盛(みちもり)は6歳で家督を継ぎましたが、それを不服とした叔父の反乱を受けて角館を一度追われています。

重臣たちの助力によって3年後に帰還した後も、依然として安東(あんどう)氏や小野寺氏、南部氏などの脅威にはさらされ続けてきたのでした。

そんな中で、永禄9(1566)年に盛安は生まれたのです。

ちょっと待て! 使者が勝手に領主を名乗る事件

盛安の父・道盛は早くに隠居したようで、盛安の兄・盛重が跡を継ぎました。

しかし彼は病弱でとても当主を務められないとして、盛安が13歳の若さで家督を譲られることとなったんです。その後、盛重は仏門に入りました。

日本全国の情勢に目を向ければ、当時は織田信長の全盛期に入ったところでした。

各地の武将たちはこぞって彼に接触し、恭順を誓っていたんです。

近隣の強敵・安東愛季(あんどうちかすえ)もすでに信長と接触していたため、戸沢氏としてもこれに後れをとってはならない!というところだったんですね。

そのため、まずは、戸沢氏に従っていた豪族・前田利信(まえだとしのぶ)を名代として信長のもとに派遣したんです。

ところがこの前田利信、何を思ったか、彼自身が仙北の領主であるかのように振る舞い、信長に仙北の地を安堵されてしまったんです。

しかも、盛安から信長に献上するはずだった鷹を、自分からだと偽ったんですよ。

何でこんなヤツ選んじゃったのかな…と思いますが、もうどうにもなりません。

まんまと安土城まで案内してもらった利信は、この旅を「一生の思い出! 」と周囲に語っていたそうですが、彼の行状は意外なところから盛安に知れることとなってしまいました。

なんと、鷹を売った鷹商人から盛安にこのことが知らされたんですよ。

盛安としては憤懣やるかたないところだったでしょう。

しかしまだ彼は若年でしたし、ここで利信に厳罰を課して家内に紛争の種をまきたくなかったのかもしれません。

そのため、利信に対して特にとがめだてすることもなく、以後も利信は戸沢氏に仕え続けたんです。

ただ、江戸時代に入ってから前田氏の子孫が途絶えた際、戸沢氏は前田の家名存続を許さなかったそうですよ。そりゃそうだ。

「夜叉九郎」、戦場での大活躍

とまあ、こんな風に船出はなかなかハードな感じでしたが、盛安はそれ以後周辺豪族との戦に明け暮れる日々を送ります。

仙北には、最上義光(もがみよしあき/伊達政宗の伯父さん)とも抗争を繰り広げた小野寺義道(おのでらよしみち)という一大勢力がおり、盛安にとっては大きな脅威でした。

しかし義道が最上攻めに向かっている隙をついて、盛安は勢力を広げる戦いを挑みます。

先鋒はやられましたが、盛安は自ら500騎を率いて敵陣に突撃し、勝利に大きく貢献しました。

この奮戦ぶりから、彼は「夜叉九郎(鬼九郎とも)」との異名を取るようになったんですよ。

また、次なる相手はこれまた小野寺以上の大勢力・安東愛季でした。

「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」

と称された、東北でも指折りの有力武将です。

彼の領地は主に出羽の北半分でしたが、内陸へと進攻してきていました。

仙北を脅かされた盛安は、黙ってはいませんでした。

若いながらも武将として経験を積んだ彼は、天正15(1587)年に安東氏に戦いを挑んだんです。

安東軍3,000に対し、盛安率いる戸沢勢はわずか1,200。

劣勢は明らかでしたが、盛安は3日間に及ぶ激戦で互角以上の戦いぶりを見せます。

自ら敵の猛将の首級を挙げるなど、彼の目覚ましい活躍によって、戸沢勢は終始優勢を保ったのでした。

そして安東氏を退け、仙北での地位を固めることとなったんです。

戦場では、総大将ながら真っ先に敵に突っ込んでいくため恐れられた盛安ですが、ただ強かっただけではありません。

この戦で負傷し捕虜となった安東方の兵を、殺すことなく返還したんです。なかなかできない寛大さですよね。こうして、戸沢「夜叉九郎」盛安の名は近隣に知れ渡っていきました。

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濁流を気合いで泳ぎ秀吉に謁見

さて、織田信長はすでに本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が天下人への階段を着実にのぼっているところでした。

天正18(1590)年、秀吉は天下統一の総仕上げとして、小田原の北条攻めを開始します。

それに際して、諸将に小田原への参陣を要請したわけなんですね。

これを聞きつけた盛安もまた、すぐに角館を出発します。

いち早く秀吉に謁見し忠誠を誓えばいい待遇を得られる見込みが高いわけですから、行かない手はありません。

余程急いでいたのか、盛安はなんとわずか9人の供のみを連れて出立したのでした。

この道行きには逸話もあり、日本海から海路で京都を目指した盛安一行は、途中で旅費が尽き、商人に借りなければならなかったなんて話もあります。

また、こうして彼らが進んでいる間にも秀吉本隊は小田原に向かって進軍しているわけで、当然、盛安たちは秀吉を追いかける格好になりますよね。

なんで東北から南下しなかったのか…という思いはさておき、こんなわけで、秀吉が遠州島田(静岡県島田市)に到着した時、盛安たちは遠州金谷(同じく静岡県島田市)にいたんですが、両者の間には大井川が立ちふさがっていたんです。

というのも、この時大井川は大雨の影響で増水しており、とても渡れたものではありませんでした。

尻込みする家臣を前に、盛安は

「太閤殿下に忠義を見せるのに、一夜たりとも遅参はできぬ! 増水などに負けてたまるか! 」

と川に飛び込み、気合いで泳ぎ切ってしまったそうですよ。なんて気合い…!

そしてそれに続いた(続かざるを得なかった)家臣も偉い…!

というわけでずぶ濡れのまま秀吉に謁見した盛安は、その行動をほめられ、刀を授かったということです。

しかし、なぜ東北の者が大井川を逆に渡ってきたのか…秀吉だけではなく、周囲の者でもそう思った人、絶対いるでしょうね。

しかし、秀吉といえば、伊達政宗みたいに派手で目立つヤツがお好きですから、盛安のこの行動も面白く映ったのかもしれませんよ。

謎の陣没…無念の死

こうして小田原攻めに参加することとなった盛安は、角館から兵を呼びました。

夜叉九郎の名を関東でも知らしめるいいチャンスだったんですが、この陣中で彼は突如病に倒れます。

そしてそのまま25歳の若さでこの世を去ってしまったのでした。無念です…。

跡継ぎの息子・政盛(まさもり)はまだ6歳と幼かったため、弟の光盛(みつもり)が急遽家督を継ぎました。

秀吉が東北諸将の領地再分配を行った奥州仕置(おうしゅうしおき)で、戸沢氏は出羽仙北4万4千石を安堵されましたが、光盛もまた文禄の役に参加する途中に病死してしまったんです。

戸沢氏の迎えた大ピンチでした。

しかし、戸沢氏には結束の強い家臣団が残されていました。

実は、盛安が小田原参陣中に、かつて僧となっていた実兄・盛重が謀反を起こしていたんです。

彼は還俗し、戸沢氏の支流の家へ養子に入ったんですが、兄なのに家臣扱いになったことに不満を持っていたようなんですよ。

そのため、盛安の側近を殺害してお家を奪おうとしたんです。

ただ、盛安の家臣たちはそれを是とせず、むしろ一致団結して盛重を排除したのでした。

そして、盛安・光盛の死後は政盛をすぐさま秀吉に謁見させ、当主として認めてもらい家を存続させることに成功したんです。

夜叉九郎の忠実なる家臣たちの力が、戸沢氏存続の原動力となったわけですね。

以後、政盛は関ヶ原の戦いでは東軍に付いて戦国時代を生き延び、出羽新庄(山形県北東部、新庄市周辺)藩6万石の藩主となり明治時代まで続いていったのでした。

まとめ

  1. 戸沢氏は鎌倉時代から奥州で続く家柄だった
  2. 家臣が抜け駆けし勝手に仙北領主を名乗ってしまった
  3. 小野寺氏や安東氏と戦を繰り広げ、「夜叉九郎」の異名を取った
  4. 秀吉に会うため濁流を気合いで泳ぎ切った
  5. 25歳の若さで、小田原陣中で没した

25歳の人生とは、あまりにも短すぎますよね。もう少し長生きしていれば、もっと「夜叉九郎」の名が有名になったことでしょう。それが残念です。

 
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