立花道雪(たちばなどうせつ)という人ほど、「武将らしさ」や「名将」の言葉が似合う戦国武将はいないでしょう。
さて、いったいどんな人物がご存知でしょうか?
生涯ほぼ無敗の勇将で「軍神」と呼ばれた男・道雪。
しかし、実は半身不随の障害を抱えていたんだそうですよ。
なぜそんなことになってしまったんでしょうか。
「有り得ない!」というその逸話を含め、文字通り「常在戦場」だった彼の生涯を見ていきたいと思います。
名前が変わりすぎてもはや「誰?」
最初にお断りしておかなければならないのですが、立花道雪は自分で「立花道雪」のフルネームを名乗ったことはありません。
あまりに名前が変わりすぎて、もはや「誰?」となってしまうので、ここでは「道雪」で統一していきますね。
道雪が生まれたのは永正10(1513)年。
豊後(大分県)の戦国大名・大友氏の一族である戸次親家(べっきちかいえ)の二男として生まれました。
長男が早くに亡くなったので、彼が後を継ぐことになったんですよ。
病弱な父の代わりに、道雪は元服前の14歳で初陣を果たします。
元服前ってことはつまり、成人式も迎えない未成年が一軍を率いて戦っちゃうようなものです。
しかも道雪、これで自軍より数の多い敵に勝っているんですから、どれだけ戦の才能があったのかと思いますよね。
そして父が亡くなるとすぐ元服して家督を継ぎ、親守(ちかもり)もしくは親廉(ちかかど)と名乗りました。
しかしまたすぐに名前が変わりますよ。
主君・大友義鑑(おおともよしあき)の一字をもらって、「戸次鑑連(べっきあきつら)」となるんです。
しかもこの大友義鑑(というか大友氏、ひいてはこの辺りの戦国大名はみんなそうなんです)、名前をあげまくっているので、家臣団にやたら同じの字が付いてる人が多いんです。
ホントにわかりにくいんですが、主従関係の証ということでご勘弁ください。
43歳で隠居!?(ほぼウソです)
主君の義鑑は側室の子を可愛がり過ぎて後継争いを招き、長男の義鎮(よしつぐ/後の大友宗麟)とその家臣によって排除されてしまいます。
道雪(まだ戸次鑑連です)は義鎮(まだ宗麟じゃない)派だったので、大友家内では重鎮となっていきました。
しかし、天文22(1553)年、43歳の時に、甥の戸次鎮連(べっきしげつら)に戸次家の家督を譲ると、一応隠居の身となります。
「ご隠居様」と呼ぶにはちょっと若すぎますよね。
はい、その通り、このご隠居様はただのご隠居様ではありませんでした。ここからが本領発揮だったんですよ。
この頃の大友氏は全盛期にあり、豊後だけでなく筑前(福岡県西部)に進出を考えていました。
しかし、関門海峡を挟んだ向こう、本州の中国地方には毛利元就(もうりもとなり)という大きな勢力がおり、彼もまた筑前を狙ってきたので、戦を繰り広げることになりました。
肥前(佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も加わり、毛利・龍造寺連合との戦は激戦となります。
その中で大活躍したのが、道雪だったというわけなんですよ。
鉄砲隊にそれぞれ1発分の火薬を筒に詰めてあらかじめ持たせ、2段射撃させて敵を撃破(作戦名:早込)させたり、弓矢隊の矢羽に
「参らせ候 戸次伯耆守(ほうきのかみ)鑑連(意訳:戸次鑑連参上)」
と書かせて敵方に雨あられと降らせてみたり、敵を震え上がらせることしかしてません。
そんなわけで道雪の武名は周辺諸国に響き渡り、恐れられるようになったんです。
ちなみに、毛利氏との戦いの最中の永禄5(1562)年に、主・大友義鎮が出家して宗麟と名を改めたため、52歳だった道雪もそれに倣い出家し、ここでやっと正式に「道雪」という名前で歴史に登場することになります。
しかし、道雪はすでにこの時、半身不随だったというんですよ。
いったいどうしてなんでしょうか?
雷に打たれたけど返り討ち!?雷切伝説
生涯、主な戦で37戦無敗、軍神とさえ称えられた道雪ですが、実は35歳くらいの時に半身不随になってしまったと言われているんです。
ある時、大木の下で昼寝をしていた道雪。
すると突然の夕立により、その大木に雷が落ちてしまったんです。
それに巻き込まれて彼も雷に打たれ、その後遺症によって半身不随となってしまったんだとか。
しかしこれで終わらないのが道雪。雷に打たれた瞬間、愛刀・千鳥を抜き放ち、雷を斬ったというんです。
雷って斬れるの?という疑問はさておき、これ以降、千鳥は
「雷切(らいきり)」
と呼ばれるようになったそうですよ。
某人気アニメN○RUTOに登場する技の元ネタ、これなんです。
それじゃ戦に出られないでしょ…なんて心配はご無用です。
道雪はそれ以後、戦のときは刀と指揮棒を携え、100人ほどのお供に担がせた輿に乗っていたんだそうです。
天正7(1579)年、66歳の時には確実に乗っていたという記録もあります。
しかもそのまま敵陣へ突っ込むという…どれだけ元気なご隠居様か!とこちらも突っ込みを入れたくなりますね。
次なる敵は薩摩の勇・島津氏、しかし…
毛利氏が本領での情勢変化によって筑前から撤退すると、大友氏の次なる敵は、薩摩(鹿児島県)の島津氏となりました。
島津、ホントに手ごわいので、道雪は島津攻めには反対したんですが、宗麟が聞かないので仕方なく従います。
しかしやっぱり天正6(1578)年、耳川の戦いで大敗してしまいました。
そして、大友氏の勢いに陰りが出始めるんです。
邪魔な龍造寺隆信もまた島津氏に敗れ去りますが、その残党一族攻めに大友氏は大苦戦することになりました。
道雪もまた膠着した戦線に身を置くこととなりますが、1万弱の兵で3万の相手を打ち破ることに成功します。
しかし、その直後、道雪は陣中で病気にかかります。
すでに73歳、老齢となっていた身は病には勝てず、みんなの必死の祈願にもかかわらず、亡くなってしまったのでした。
主君の宗麟は、道雪の妻に手紙を出して長年の忠節をねぎらいました。
「道雪」という名には、
「道に落ちた雪は消えるまでその場所は変わらない。武士も最初に仕えた主に死ぬまで尽くすべき」
という意味があったんだそうです。
道雪はそれを貫いた「義」の勇将としても知られているんですよ。
そして、その武勇は遠く甲斐(山梨県)の武田信玄にまで届いており、彼は道雪に会いたがっていたんだとか。
そして、道雪を失った大友氏は再び島津氏に敗れ滅亡寸前にまで追い込まれ、結局、豊後一国の領地しか残らなかったのでした…。
娘を溺愛!婿養子にはスパルタ教育
ところで、道雪が立花姓で表記されるわけについてご説明しましょう。
大友宗麟の家臣に立花氏がいたんですが、2度離反した末に道雪によって討たれています。
そして道雪が立花氏の名跡と城を受け継ぐことになったんですが、宗麟は立花氏を良く思っていなかったので、道雪は立花姓を名乗るのを憚ったんだそうですよ。
なので、終生「戸次道雪」だったんです。
しかし、道雪は60近くなってから生まれたひとり娘・誾千代(ぎんちよ)に、立花姓と城をすべて譲ったんですよ。
しかも誾千代、まだ7歳の女子です。
そこで道雪、婿を取ることにしました。
そして目を付けたのが、同僚の高橋紹運(たかはしじょううん)のひとり息子・宗茂(むねしげ)。
いや、そちらもひとり息子なんですけど…。
さっそく紹運に「息子をわしの娘の婿に!」とアタックしますが、丁重にお断りされてしまいます。
しかし道雪は諦めることなく、しつこいくらいに何度も頼み込み、ついに紹運が根負けして宗茂はめでたく誾千代の婿として立花氏を継ぐことになったのでした。
そんな宗茂に、道雪はスパルタ教育を叩き込みます。
ある時、宗茂が道雪やお供と散歩をしていたところ、宗茂は誤ってトゲトゲの栗を踏み抜いてしまいました。
本来ならお供はすぐにそれを抜くところですが、立花(戸次)家ではそんなことはしません。
逆に、お供は栗を宗茂の足にもっと押し付けたんですよ。
悲鳴のひとつも上げたい宗茂でしたが、その時彼の視界に入ったのは、鬼の形相でこちらを見ている道雪。
「そのくらいで泣き叫ぶのか?ん!?」
という感じだったんでしょうね。
結局、宗茂は耐えるしかなかったんですって。
立花宗茂:Wikipediaより引用
後年、宗茂は「あれは困ったよ…」と回想しています。
まあ、そんな道雪の教育のおかげか、成長した宗茂は豊臣秀吉に
「日本無双の勇将じゃ」
とほめられるほどの名将となりました。
ちなみに、こんなに怖いスパルタ道雪ですが、自分の家臣たちはとても大事にしました。
少々の失敗には目をつぶり、
「弱い者は彼自身が悪いのではなく、大将が励まさないのが悪い」
と言い、武功のない家臣には
「お前が弱い者でないことはわしが良く知っている」
と励ましたそうです。
だからこそ、道雪の兵たちは死を恐れず戦い、彼の無敗神話を支え続けたのでした。
カミナリ親父だからできた!?主君へ「それダメ」
道雪の主・大友宗麟は、晩年は特に暴君化しました。若い頃から酒も女も大好きで(今で言う「パリピ」の悪い感じですね)、その気はあったみたいなんですよ。
他にも、飼っている猿を家臣にけしかけて、困っているのを見て喜んだりしていたそうです。
しかし、家臣たちは主だからと遠慮して何も言えずにいました。
そこで道雪は、まず猿に関しては、いきなり鉄扇で叩き殺します。
口をあんぐりの宗麟に対し、
「人を弄べば徳を失います。物を弄べば、志を失いますぞ」
とチクリ。
また、遊んでばかりの若かりし宗麟に道雪が面会を申し込むと、怒られると悟った宗麟は会おうともしません。
すると道雪は、自分も同じように女性を屋敷に呼んでパーティー三昧をしたそうなんです。
堅物の道雪のそんな行動を耳にした宗麟、物珍しさにまんまと道雪の屋敷にやって来ました。
そこで道雪が
「罰を受けても主の過ちを正すのが家臣のつとめ。私の命など惜しくはありませんが、主(宗麟)が評判を落とすのが残念なのです」
と言ったそうなんです。
さすがの宗麟も、これ以降は行いを正し、道雪の言うことには耳を傾けたそうですよ。
まとめ
- 前半生は名前が変わりまくる
- 隠居と言いつつ最前線で大活躍
- 雷に打たれて半身不随になったけど斬り返した
- 人生の最後まで戦場に在った
- 婿養子にスパルタ教育を施したが、家臣にはすごく寛大だった
- 主君にも遠慮なく諫言した
立花道雪のすごさ、もはや伝説級ですね。
お舅さんにはちょっと遠慮したいですが、こんな上司になら、喜んでついていきたくなっちゃいます。
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