関ヶ原の乱戦の中に消えた猛将・島左近、主に捧げた忠義と命!

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関ヶ原の乱戦の中に消えた猛将・島左近、主に捧げた忠義と命!

映画「関ヶ原」をご覧になった方なら、島左近(しまさこん)のカッコ良さを十分に分かってらっしゃると思いますが、大ヒット大河ドラマ「真田丸」には出てきませんでしたよね。たぶん、出てきたら、主人公の真田信繁を食っちゃう勢いだったからだと筆者は思っています。はっきりとしない半生や最期もまた、想像をかき立てるんですよね。今回は史実や伝承と共に、島左近の魅力と生涯をたっぷり紹介していきたいと思います。

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前半生は不明、そして名前にも諸説あり!

 

一般的には「島左近」が定着していますが、発見された自筆の書状では「嶋左」と書いているため、本当は「嶋」姓なのではないかと言われています。また、名前に関しても「清興(きよおき)」としているので、「嶋清興」が正式な名前にいちばん近いのかもしれませんね。しかし、ややこしくなるのでここでは「島左近」で統一したいと思います。

 

島(嶋)氏は当時、大和(奈良県)あたりに拠点があったようで、左近も大和出身だと考えられています。生まれたのは天文9(1540)年と推定されています。

何せはっきりしないことだらけなので、これから「不詳」や「~らしい」、「~そうだ」などの表現が続きますがお許しくださいね。

 

主と?同僚と?合わずに出奔、浪人となる

成人すると、大和の戦国大名・筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えたようで、元亀2(1571)年にようやく文献に左近の名前が登場します。ここで、彼が幽霊でも架空の人物でもないことが証明されました。

そして、筒井方の武将として、当時の最大のライバル・松永久秀(まつながひさひで)との戦いに参加していたようですよ。

松永久秀:Wikipediaより引用

で、この主君・筒井順慶なんですが、織田信長に従った後に豊臣秀吉に従うのですが、明智光秀討伐に参加するのが遅いとか、体調が悪いのに戦に参加しろとか秀吉にいろいろ言われた後、本当に体調を崩し、36歳で亡くなってしまいます。いびられたんですよ、きっと。

筒井順慶:Wikipediaより引用

順慶亡き後、後継ぎとなった定次(さだつぐ)と左近は折り合いが悪く、ついには出奔して浪人になってしまったそうです。一説には、同僚と合わないので自ら辞したとも言われています。いつの時代も、職場の人間関係はツラいものがありますよね…。わかります、わかるよ左近。

 

引く手あまたの浪人時代、運命の人は石田三成!

近江(滋賀県)で浪人生活を送ることとなった左近ですが、多くの戦国大名から仕官の誘いがあったそうです。つまり、彼が有能な武将だということがちゃんと知れ渡っていたんですね。

 

しかし、多くの誘いを左近は断り続けました。それがなぜなのかはわからないのですが、それでも諦めず(しつこく)誘いをかけてくる人物がいたんですね。

それが、石田三成だったんです。

 

三成だけはずば抜けて熱心に左近のもとにやって来ては誘いをかけ、断られ、それでもまた来て断られ…と繰り返したようです。どれだけ惚れ込んだのか、三成。

中国の「三国志」にも、天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)を部下にするため、劉備(りゅうび)が何度も足を運んでようやく来てもらえることになった「三顧(さんこ)の礼」という故事があります。それと同じだったんですよ。

 

そんな熱意を見せられたら、ちょっとほだされてしまうところもあったかもしれませんよね。

 

主と同じ給料をもらう部下!?秀吉もびっくり!

しかも、三成は、自分の俸禄(ほうろく/給料)の半分を左近にやるから、どうしても家臣になってくれと言いだしたんです。当時の三成の俸禄は四万石だったといいますから、二万石やるっていうんですよ。一万石あれば大名の仲間入りですから、とんでもないほどの「超」破格の待遇を申し出たというわけです。三成、本気(マジ)ですな…!

まあ確かに、三成は戦下手と伝わっていますから、名将として名高い左近はぜひ欲しい人材だったのでしょう。

 

この三成の熱意(もはや鬼気迫ると言った方がベター)に負け、左近は彼に仕官することを決意したのでした。

 

これを聞いた三成の主・豊臣秀吉は「主と家臣の禄が同じとはな!」とびっくりしつつ大笑いしたそうですよ。

この頃、左近が三成の家臣となったことを揶揄する狂歌めいたものが流行りました。

 

「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」

 

天正18(1590)年の、秀吉による小田原の北条征伐後の書状に左近の名前が見られるため、それまでにはすでに三成の家臣となっていたみたいですね。

 

劉備と諸葛孔明のような出会いをした二人ですが、その絆も彼らと同様、最後まで強いものとなっていったんですよ。

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関ヶ原前哨戦:左近の奇襲作戦で気勢を挙げる

秀吉亡き後、徳川家康が徐々に政権内部で幅を利かせてくると、それに反発した三成は、家康が東北の上杉征伐に行った隙に挙兵します。すると、家康(東軍)は素早く反転して関ヶ原(岐阜県)に到着したんですが、予想以上の兵力の多さに、三成側(西軍)には逃亡者が続出してしまいました。元々人望のない三成とお飾りの総大将・毛利輝元(もうりてるもと)の元では戦いたくない…と私も思います。

 

当然、士気が低い西軍でしたが、左近はそこで一計を案じます。

 

関ヶ原の戦いの本戦に突入する前、前哨戦の杭瀬川(くいせがわ/岐阜県大垣市)の戦いの際、彼は川のそばの林の中に伏兵を置き、奇襲作戦を決行したんです。

 

伏兵以外の兵たちは川の対岸へ渡り、東軍を挑発して戦が始まりました。

左近は頃合いを見計らって退却を始めます(もちろん、負けたふり)。すると相手は追撃してくるので、そこに林の中の伏兵が襲い掛かったんですね。

この戦いにおいては、左近が指揮する西軍側の大勝でした。

 

スポーツなんかだと、緒戦を取った方が有利と言いますよね。

それは戦にも通じるところがあったはず。

この勢いなら、いけるかもしれない…と西軍の兵も思っていたでしょう。

 

夜襲を提案するも、三成が「それダメ」

左近もこの勢いのまま、たたみかけようと考えていたようです。

そこで、同じ西軍にいた島津義弘(しまづよしひろ)と共に、夜襲をかけようと三成に進言しました。

島津義弘:Wikipediaより引用

ところが、三成はその提案をあえなく却下してしまったんです。

左近と同様、島津義弘と言えば「軍神」として有名な名将中の名将。

左近と義弘、2人の戦のプロフェッショナルの提言を却下した時点で、すでに勝敗は決したのかもしれません。2人もそう思ったのではないでしょうか。

 

勝手をするわけにはいかないので、もちろん左近は引きさがりましたが、それでも三成を見限ることはありませんでした。一方の島津義弘は、三成のこの態度に気分を害し、西軍に所属はしたものの戦そのものには参加することはなかったんです。

小早川秀秋:Wikipediaより引用

さて、関ヶ原の戦いの結果はというと…小早川秀秋の裏切りもあり、西軍の大敗に終わりました。

 

それでも主は主。忠節を尽くした左近

 

夜襲の提案が却下され、おそらく左近は少なからず三成に失望感はあったはずです。

しかし、彼はそうした主の欠点も理解し、受け入れていたんです。

 

それを示す逸話があります。

 

徳川家康の重臣にして剣豪・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、左近の姻戚でもあり親しい関係だったので、関ヶ原の戦いの直前に会って話をしたそうです。

話題は天下の行く末に及び、宗矩は三成の動向についてカマをかけたようです。

すると左近は、「今は松永久秀や明智光秀のような、決断力と知謀を兼ね備えた人物がここにはおらぬ。だから何事も起きはしない」と答えました。

 

三成は、親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)にも「お前は決断が遅い」と言われています。左近の頭にも、三成に大事の決断力が欠けていることは十分にあったのでしょうね。

 

それでも、あれほど熱心に自分を誘い、丁重に招いてくれた主。

左近には、三成に忠節を尽くす以外の考えはなかったようです。

 

左近の最期はどうなった?

 

さて、関ヶ原の戦いで敗戦した西軍の中には、もちろん左近もいました。

その最期については、実ははっきりとわかっていないんです。

 

最も有力なのは、乱戦の中で命を落としたというもの。

左近の隊は黒田長政(くろだながまさ)隊と交戦していたんですが、その鉄砲によって銃撃されたとも考えられます。

左近の戦いぶりは、それはすさまじいものだったようで、後に黒田隊の者たちは悪夢を見るようになったそうです。その中で、「かかれ! 」と号令をかける左近の叫び声が耳から離れなかったとか。

 

結局、左近の遺体は発見されませんでした。当然、首もありません。

となると、にわかに出てくるのが「生存説」なんですね。

 

実は生きていた!?生存説と左近の末裔

関ヶ原の戦いの後、京の街中で左近を目撃したという情報がちらほらと飛び交うようになりました。

実際に、京都の立本寺(りゅうほんじ)には左近の墓があるんですよ。左近は僧となり、この寺で寛永9(1632)年に亡くなったとされているそうです。となると推定93歳。関ヶ原の戦いから実に32年後のことですね。これが事実ならすごいですよ。

この他にも、各地に左近生存説が存在します。

また、左近の息子の末裔という家系が、広島で代々伝わる酒造業者となっているとか。

 

いずれにせよ、左近生存説にはロマンがありますよね。でも、生きていたならもう一度くらい戦ってほしかったような気もします。

 

まとめ

 

  1. 前半生は不明、名前ですら複数説がある
  2. 主もしくは同僚と反りが合わず出奔、浪人となった
  3. 石田三成の熱意により家臣となった
  4. 誰もが「三成には過ぎた家臣」だと思った
  5. 関ヶ原の前哨戦で采配を振るい大勝利を収めた
  6. 作戦を三成に却下されても、見限ることはなかった
  7. 主・三成の欠点を理解し、それでも忠節を尽くした
  8. いつどこで命を落としたのかは不明
  9. 生存説も出ていた

 

謎多き島左近ですが、はっきりしているのは、石田三成に捧げた忠誠ですね。

 

生存説を取るなら、もしかすると三成の菩提を弔っていたのかもしれません。

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