「鬼義重」と呼ばれた猛将・佐竹義重、息子のせいで東北へ飛ばされた!?

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平安時代から続く名門武家・佐竹氏の18代当主であり、常陸(ひたち/茨城県)を統一した偉大なる武将・佐竹義重(さたけよししげ)。

「鬼義重」という異名を取るほどの猛将でしたが、その最期は常陸ではなく遠く出羽(でわ/秋田県)で迎えることとなったんです。

その理由は、息子のせいでした…。

なんでそんなことに?

佐竹義重の常陸統一から出羽での最期まで、しっかりゆっくり解説します。

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なかなか波乱の船出

天文16(1547)年に佐竹義昭(さたけよしあき)の長男として生まれた義重は、16歳の時に父から家督を譲られます。

父は常陸統一を目前にしており、その偉業を達成するべく、義重は父と共に周辺勢力との熾烈な勢力争いに身を投じることとなりました。

まずは越後の上杉謙信と結び、当時は北条氏側についていた小田氏治(おだうじはる)を破って勢力を広げます。

ちなみに小田氏治とは、とにかく諦めない、そして連戦連敗で有名な方ですよ。

順調な滑り出しに見えましたが、永禄8(1565)年、常陸統一を目前にして、父・義昭が急死してしまったんです。

まだ父の後見を受けながらの政権運営だったので、若い義重は一気に苦境に立たされることとなってしまいました。

周辺勢力はこの大事に付け込み、一気に佐竹に反抗してきたため、正直なところ常陸統一どころではなくなってしまったんです。

戦場では「鬼義重」、しかしそれ以上に外交上手

当時、佐竹氏は南北それぞれに強敵を抱えていました。

南は関東の覇者・北条氏、北には蘆名(あしな)氏という大きな勢力が控えており、周辺には小田・那須・白河などの地方豪族もいて、さすがにこれを一度に相手にするのは自殺行為という状況だったんですよ。

それでも、義重は若いながらも奮闘しました。

戦においては、7人を一瞬で斬り伏せたり、愛刀・八文字長義を振るって敵を兜もろとも真っ二つにしたりという大活躍を見せ、これによって「鬼義重」・「坂東太郎」の異名を取るまでになったんです。

その一方で、義重は外交を重んじました。

南北を敵に挟まれた状態で、外交がモノを言うことは重々承知していたのでしょうね。

敵対していた豪族や懐柔したい相手に対して、自分の子を養子として送り込んだり、娘を妻にあてがったりなど、かなり積極的に姻戚関係を結んでいきました。

これが彼の勢力基盤の安定と拡大にとても大きな役割を果たしたんです。

後に、彼の息子は敵対する蘆名氏を継いでいますからね。相当うまくやったことがわかります。

また、この頃すでに義重は、まだ羽柴姓を名乗っていた豊臣秀吉と知り合いになっています。

当時の秀吉は権力争いから一歩抜け出たところだったでしょうか。

天下人となるにはまだ早い状態でしたが、義重は彼の非凡さを見抜いていたんでしょうね。

そしてこの誼が後に佐竹氏にプラスに働くこととなるんですよ。

蘆名の次は…伊達政宗が相手!

強敵だった蘆名氏の当主・蘆名盛氏(あしなもりうじ)が亡くなると、次に勢力をじわじわと広げてきたのが、伊達政宗でした。

稀代の野心家である彼に対して、義重が危機感を抱いたことは言うまでもありません。

そこで、彼は蘆名氏など南奥羽諸将で連合軍を組み、政宗と対決します。天正13(1585)年、人取橋(ひととりばし)の戦いにおいて、義重を中心とする連合軍は伊達軍を大いに破りました。

もうひと押しで政宗の首まで取れる…というところでしたが、ここで義重は兵を引かざるを得ない状況に陥ります。

本国方面に北条方が攻め入るという報せが飛び込んできたんですよ。

結局、これで政宗を追いつめられなかったことが最大の失敗でもありました。

しかしこの戦は義重にとっても大きなものだったようで、後に彼は将軍・徳川家光に対して「生涯の大戦でした」と語っています。

この後も義重は再度連合軍を組織し、政宗に戦を挑みますが勝つことはできませんでした。

このため、北では政宗の勢力が拡大し、南には相変わらず北条氏が控えているという厳しい状況がずっと続くことになってしまったんです。

この間に義重は家督を長男の義宣(よしのぶ)に譲っていますが、とても楽隠居できるような状態ではなかったんですね。

蘆名といえば…美少年に恋しちゃった!?

ところで、義重の宿敵とも言える蘆名氏ですが、当主の盛氏が死んだ後は、養子となっていた盛隆(もりたか)が当主となりました。

この盛隆、実はいちばん有名なのが「美少年」だったということ。

実は義重、あろうことかこの敵である美少年当主に一目惚れしちゃったという話が残されているんですよ。

おそらく戦場でのことでしょう。まだ少年ながら妖しいまでの美貌を誇る盛隆の姿を目にした義重は、彼に心を奪われてしまいました。

そして彼は悩んだ挙句、なんとラブレターを送ったというんです。

おそらく、それはそれは熱い思いのたけが書きつづられていたんでしょうね。

しかも、それを読んだ盛隆が彼の思いに感じ入り、これまたなんと返事を寄越したんです。

そして2人の間にはラブレターのやり取りが始まったとか…。

このおかげか、戦を止めて和睦しちゃったなんていう話なんです。

後に、盛隆は23歳の若さで家臣に殺害されてしまいますが(痴情のもつれとも言われてます…)、その息子も早くに亡くなってしまいます。

そして、当主のいなくなった蘆名氏の家督を継いだのは、義重が養子として送り込んだ彼の二男・義広(よしひろ)だったんですよ。

真偽は不明であるにせよ、かつて愛した男の家に息子を入れて存続させるとは…なんか、いろいろ考えちゃいますね。

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小田原攻めに即・参陣、常陸54万石を保証される

北を伊達、南を北条に挟まれたピンチの義重ですが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による北条攻めが始まると、状況は一転します。

義重は息子を連れてすぐさま秀吉の元に参上し恭順を誓うと、そのまま石田三成の忍城攻めに加わりました。

この素早い動きが、佐竹氏を救うこととなったんですよ。

というのも、秀吉が小田原に着陣した際、諸将に参陣を要請したんです。

これに遅刻することはすなわち重罪でもあったわけで、事実、伊達政宗などは大遅刻したので大幅に領地を減らされることとなってしまいました。

政宗のような人物がいた一方、義重の行動は外交としては完璧だったわけですね。

また、早くから秀吉と誼を通じていたことも有利に働いたんです。

この後、義重は秀吉から常陸54万石の領地を保証され、立派な大大名となりました。

そして、秀吉の後ろ盾を強みに、亡き父・義昭の悲願だった常陸統一も果たしたのです。

関ヶ原の戦い、息子がやっちゃった!?

関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用

さて、楽隠居の身となった義重ですが、その平穏はすぐに破られることとなります。

秀吉が亡くなり、実権はほぼ徳川家康の手に移り、また天下にはキナ臭さが立ち込め始めたんです。

そして起きたのが、関ヶ原の戦いでした。

隠居はしたものの発言権は絶大だった義重は、息子・義宣に対し、家康側の東軍に付くべきだと主張します。

しかし、肝心の息子はというと、どうも西軍寄りに付きたいような感じ。

というのも、三成とはつながりがあったからなんですね。

検地の際に三成から指導を受けたり、親戚の罪に連座させられそうになったところを取り成してもらったりと、何かと恩があったんです。

確かにそれなら恩義を感じても仕方ないんですが…しかし、関東で家康に反旗を翻すのは自殺行為。

このため、義宣は義重の説得を受け入れ、一応は東軍に付く態度を示し、家康による会津の上杉征伐に加わることとなりました。

しかし、この後の義宣の態度がいけません。

家康から人質を求められると断っちゃうし、会津攻めなのに突然水戸城へ引き揚げちゃうし…というありさま。

それでいて、300騎という微妙な数の援軍を出してみたり、関ヶ原で勝利を収めた家康と秀忠の元に戦勝祝いの使者を派遣したりと、いったい何がしたいのかわからない態度を取っちゃったんです。

これでは、「こいつ何がしたいんだ? 」と思われても仕方ないですよね。

案の定、何がしたいのかわからないと取られたのか、佐竹氏は常陸54万石から出羽(秋田県)20万石へと減封のうえ転封となってしまったのでした。

本当は、領地没収となる改易処分が下っても仕方ない状況だったんですが、そこは義重が徳川方に「何とか許してください…! 」と懇願したため、何とかこれくらいの処分で済んだんだそうですよ。

秋田美人が多いのは義重のおかげ!?

こうして、息子のせいにより(たぶん)、義重は息子と共に遠く出羽へと引っ越しすることになってしまいました。

しかも呑気に構えていられない状況だったんですよ。

旧領主派による一揆が起こる可能性がありましたから、やはり義重は隠居などしている場合ではありませんでした。

中心地は息子に任せると、義重は領地の南部を監視するため、別の城に入って目を光らせました。

何とか大きな一揆も起きずにすみましたが、国替えから10年後の慶長17(1612)年、義重は狩りの最中に落馬し、それが元で亡くなりました。66歳でした。

平安時代から続く常陸の名門武家の末裔が、まさか出羽で最期を迎えるとは、関ヶ原の戦いが起きるまでは考えもしなかったことでしょうね。

それはみんな、息子のせい…と言ったら言い過ぎですかね。

そんな息子でも、いいところはありました。北国に来て寒かろうと、ふだんから薄い布を敷いて寝るだけの父に、寝間着とふわふわの布団を贈ってあげたんです。

義重は感激しましたが…使ってみると、どうにも暑い。

というわけで翌日から元に戻しちゃったとか。

ところで、これはあくまでマユツバな逸話ですが、出羽へと国替えする際に義重は常陸中の美女をみな連れて行ってしまったそうです。

そのため、この美人たちが秋田美人の元となった、なんて話があるんですよ。

ちなみに、佐竹氏の後に常陸を治めることになった御三家の徳川頼房がそのことに対して文句を言うと、義重は不美人ばかりを送り返してきたとか。

国替えされた鬱憤を晴らしたのでしょうか。

まとめ

  1. 早くに父を亡くすなど、船出は波乱含みだった
  2. 戦場では「鬼義重」と恐れられたが、一方では外交を駆使した
  3. 伊達政宗とは熾烈な争いを繰り広げた
  4. 美少年に恋しちゃったこともあるらしい
  5. 秀吉の小田原攻めにすぐに駆け付け、常陸54万石を保証される
  6. 関ヶ原の戦いに際し、息子の曖昧な態度のせいで出羽に減転封された
  7. 秋田美人の誕生に関わっているという説もある

せっかく常陸統一まで成し遂げたのに、息子の態度ひとつで出羽に移されてしまった佐竹氏。

こんなことなら、義重が隠居しないでいればよかったのに…と思ってしまいますね。

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