「鬼真壁」は父か息子か!? 3mもの棒を自在に操った常陸の猛将・真壁久幹(と氏幹)

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戦国時代には「鬼○○」なんてカッコいい異名を取る武将がけっこういますよね。

その逸話が並外れたスケールだったりして、本当に人間か!?と思ったりもしますが、それでも「鬼○○」と聞くと心惹かれずにはいられません。

今回ご紹介する真壁久幹(まかべひさもと)と氏幹(うじもと)もまた、そうした「鬼○○」のひとり。

しかしこの2人、混同されているところもあるようで…さて、どういうことなのでしょうか?

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父・真壁久幹

真壁久幹:Wikipediaより引用

真壁久幹は、大永2(1522)年、常陸(茨城県)の豪族である真壁宗幹(まかべむねもと)の息子として誕生しました。

 

当時のこの辺りは、小田氏・佐竹氏・後北条氏・宇都宮氏・結城氏など、主に北関東の豪族が群雄割拠した、情勢的には不安定なところでした。

その中で、真壁氏は真壁城(茨城県桜川市)を拠点とした鎌倉時代以降、命脈を保ち続けてきたんです。

地味にすごい。

きっと、周辺との外交関係をうまいことやる必要があったんでしょうね。

 

そんな状況ですから、久幹にも、周辺豪族との関係を保つバランス感覚が求められていたわけです。

 

久幹が家督を継いだ時は、彼は小田氏に従っていたようです。

しかし、小田氏が代替わりし、天文17(1548)年に小田氏治(おだうじはる)が当主となった時、久幹は小田氏を見限ります。

結城氏の家臣であり後に姻族となる水谷氏(みずのや)のすすめもありましたが、何よりこの小田氏、弱体化の真っ最中だったんですね。

この小田氏治、生涯を通じて戦に負けまくったことで有名になっちゃうような人ですから、それに従っていたら自分もつぶれてしまうと久幹は早々に読んだのでしょうね。

 

「鬼真壁」誕生か!? 小田氏治を叩きのめす

永禄2(1559)年のこと、弱いけどやる気はありまくりの小田氏治が、ライバルの結城政勝(ゆうきまさかつ)の死につけこみ、攻め入って来ました。

この時、久幹は結城方に属していたようで、氏治の軍勢を迎え撃ちます。

 

ここで彼は大活躍を見せました。

彼の獲物は、長さ1丈余り(約3m)もある、六角に削った樫の棒。

しかも鋲を打って補強してあるという、使う人が使ったらとんでもない武器でした。

それを自在に操った久幹は、敵をことごとく蹴散らし、総崩れに追い込みます。

そして、手勢と共に163もの首級を挙げたのでした。

 

この活躍が、「鬼真壁(夜叉真壁とも)」の異名の由来となったようです。

 

しかし、軍記物の記述によっては、これが久幹の息子・氏幹の活躍ともされています。

ただ、この年では氏幹はまだ10歳にしかなりませんから、「久幹=鬼真壁」の方がおさまりがいいような感じがします。

とはいっても軍記物の記述はいろいろと間違いもありますので、いろいろ考える余地があることをご了承くださいね。

 

再び小田氏治を破る

この戦いの後、久幹は常陸の一大勢力・佐竹義昭(さたけよしあき)と結びます。

二男の義幹(よしもと)の名は、義昭の一字をもらったものです。

義昭の息子・義重(よししげ)は後に「鬼義重」と称されるようになる猛将。鬼同士のちょっとしたつながりですね。

こうして、久幹は佐竹陣営において対小田勢力の先鋒的な存在となったのでした。

 

そして永禄12(1569)年、またも小田氏治との戦が起きます。

手這坂(てばいざか)の戦いです。

小田氏治:Wikipediaより引用

小田氏治は、佐竹方の武将・太田資正(おおたすけまさ)と梶原政景(かじわらまさかげ)親子の城に攻め込んできたのですが、この梶原政景の妻が久幹の娘だったんですね。

それなら、久幹に出撃しない理由はありません。

義理の息子のピンチを救うべく久幹は兵を率いて急行し、またも小田勢を蹴散らしました。

おそらく、再びあの巨大な樫の棒を振り回したんでしょう。

敵兵は恐怖しかなかったと思いますよ。

加えて、勢いに乗じて氏治の居城・小田城(茨城県つくば市)を攻略するという成果も上げたんです。

しかしこれで、氏治は城に帰れなくなっちゃったんですけどね。

それもまた戦国の世のならいです。

 

なお、この戦において、久幹は当時として最新鋭の武器・鉄砲をいち早く取り入れたとも言われています。

白兵戦だけに頼らない柔軟さも持っていたのでしょうね。

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戦乱の世で独立を模索

 

この後、天正年間(1573~1593)に久幹は息子の氏幹に家督を譲り、出家して道無と号します。

しかしまだまだ現役、実権は彼が握っていたようですよ。

 

そんな中で、彼は佐竹氏と結ぶ一方、こっそりと小田氏にも内通するなど、佐竹氏への完全服従という姿勢は取りませんでした。

天正12(1584)年の、後北条氏と佐竹・宇都宮氏連合による沼尻の合戦においては、久幹は佐竹氏ではなく後北条氏側に付いています。

ただ、戦のさなかに久幹は佐竹方に戻っているんです。よく許してもらえましたよね…。

こういう事態って珍しいことではなかったんでしょうが、それもまた真壁氏の強さがあったからこそ許されたのかもしれませんね。

 

もうひとりの鬼真壁・氏幹

天正17(1589)年に久幹は68歳で亡くなりました。

それから真壁氏の舵取りをしたのが、すでに家督を譲られていた氏幹です。

 

氏幹は佐竹氏配下として、妹婿の梶原政景と共に主要な戦にはほとんど参戦したと言われています。

そのため、豊臣秀吉の小田原征伐の際、いち早く参陣した佐竹義重が常陸を安堵されると、氏幹にも真壁筑波4千5百石の領地が与えられました。

 

氏幹と父・久幹が混同されて「鬼真壁」とされているようなんですが、氏幹は剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)の弟子だったとも言われており、霞流棒術の創始者ともされています。

同じく剣豪である斎藤伝鬼坊(さいとうでんきぼう)とは同門になりますが、氏幹の弟子が伝鬼坊に挑戦し敗れて死亡すると、他の弟子たちが大勢で伝鬼坊を襲撃し殺すという事件も起きたそうですよ。

棒術の創始者なら、あの3mもあった樫の木を振り回すのもたやすかったはず。

となると、「鬼真壁」のモデルは久幹だけでなく氏幹も関係しているとも言えますね。

 

真壁を去った真壁氏

氏幹には息子がおらず、甥の房幹(ふさもと)を養子に迎え、慶長3(1598)年に家督を譲りました。

ただ、ここから真壁氏の運命は主家の佐竹氏と共に大きく変わっていくこととなります。

 

義重が隠居した後の佐竹氏は、息子の佐竹義宣(さたけよしのぶ)のちょっと日和見…というか、東軍なのか西軍なのか意味不明な態度を取ったため、関ヶ原の戦いの後、常陸から遠く出羽(秋田県)への転封を命じられてしまったんです。

氏幹はこれについていくことはなく、常陸の地にて元和8(1622)年に亡くなりました。

一方、房幹はというと、角館城(かくのだてじょう)の守りを任され、佐竹氏の重臣となり、この地で真壁氏が続いていくこととなりました。

 

久幹の時代に佐竹氏に与してから、まさか東北の地へ行くことになろうとは考えてもみなかったことでしょう。

 

ちなみに、加波山(かばさん)の麓に築かれた真壁城は、真壁氏が去った後は浅野氏が入ります。

初代藩主は浅野長政(あさのながまさ)、豊臣秀吉の正室・おねとは義理のきょうだいという間柄の人物。

そして長政の三男・長重(ながしげ)がこの真壁城を受け継ぎますが、この血筋から、忠臣蔵で有名な松の廊下での刃傷沙汰の当事者となった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が生まれるんです。

 

まとめ

  1. 真壁久幹は周辺の豪族たちとの勢力争いの中、小田氏から離反した
  2. 3mもある樫の棒を自在に操り、敵兵をなぎ倒して「鬼真壁」と呼ばれた
  3. 白兵戦では無類の強さを誇り、その一方では鉄砲をいち早く取り入れたという
  4. 佐竹氏などに臣従する姿勢を見せつつも、独立の気配も捨てなかった
  5. 久幹の息子・氏幹もまた「鬼真壁」と称されている
  6. 真壁氏は佐竹家臣となり、佐竹氏の秋田移封に従って東北に移った

 

「鬼真壁」は久幹なのか氏幹なのか…はっきりしないことも多いですが、その時代に「鬼真壁」と称される強い当主がいたことは確かです。

決して有名ではありませんが、地方で死闘を繰り広げた真壁久幹のような武将には、どうしても引きつけられてしまいます。

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