豪傑・真柄直隆、姉川に散る…!! 太郎太刀を手に縦横無尽の戦いぶりは圧巻の一言

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戦国時代には多くの猛将が生まれ、戦場に散っていきました。

散ってこそ華、というのも切ないものですが、やはりそうした最期にロマンを感じてしまうのも後の世に生きる私たちです。

豪傑・真柄直隆(まがらなおたか)は、5尺3寸(約175㎝)もの刀を自在に操り、獅子奮迅の活躍を見せた後に戦場に散りました。

その最期のカッコ良さ、しっかりお伝えしようと思います。

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朝倉氏に仕える

真柄直隆が生まれたのは天文5(1536)年。同年代としては、1つ年下が豊臣秀吉や室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)などがいます。主となる朝倉義景(あさくらよしかげ)は直隆より3つ年上の天文2(1533)年生まれです。

 

生まれた場所は、越前国真柄庄(福井県越前市上真柄町)。この一帯は朝倉氏の支配下でしたが、真柄氏は国衆としてかなり独立した立場だったようです。一応は朝倉氏に臣従していましたが、きちんと家臣として仕えるようになったのは直隆の代からみたいですね。

 

直隆は、若かりし頃から剛の者として知られていたようです。

その腕前を披露する場が、永禄9(1566)年に訪れました。

というのも、まだ将軍の座に就いていない足利義昭が、朝倉氏の当主・義景を頼って越前にやって来たからなんです。

 

余談ですが、この時に明智光秀(あけちみつひで)もまた朝倉義景に仕えていたと言われており、ここで義昭の知遇を得て直臣となったというので、もしかすると直隆と光秀は顔見知りだったかもしれませんね。ちょっと気になります。

 

大太刀「太郎太刀」を自在に操る

義昭の前で、直隆は得意の剣の腕前を披露しました。

5尺3寸とも言われる大太刀「太郎太刀」を頭上で数十回も振り回すという大技をやってのけたんですよ。

太刀の長さだけで約175㎝、これは当時の男性の平均身長である160㎝前後よりもはるかに大きいわけで、一説に直隆は身長2mもの巨漢だったと言われますが、それにしても刀の大きさがハンパないことがわかりますよね。

それを自在に操るんですから、きっと義昭はビビったに違いありません。

 

また、直隆の息子・隆基(たかもと)も、父同様に怪力ぶりを披露しました。

黒い巨石を空に向かって数十回も投げあげて見せたというんですから、尋常ではありません。石がどこに飛んで行って落ちたのか、そこは突っ込んではいけないところだと思うので敢えて触れませんが、とにかく怪力少年だったことは間違いないようです。

 

一説には、直隆には直澄(なおずみ)という弟もあり、兄弟そろって武辺の人だったようですよ。2人が同一人物という説もあるので、こればかりははっきりとはわかりませんが。

 

姉川の戦いに至るまで~義景がダメだったから…

さて、足利義昭が朝倉義景の元に身を寄せていたのは、義景が義昭の上洛に力を貸してくれると思っていたからなんですが、この義景がまた凡庸というか、イマイチ決断力に欠けていまして…。周辺情勢のせいにしてもいいんですが、せっかく義昭が逃げ込んできているのに、上洛させてやろうともしなかったんですね。ここで動いていれば天下取りに絡めたかもしれないのに…。

 

というわけで義昭は義景を諦め、織田信長に接近したんです。信長は野心家ですから、すぐに義昭を奉じて上洛し、将軍の座に就けました。

そして信長は義景に上洛を要請しますが、義景は「信長に従うのはイヤ」とか「越前を留守にすると不安だから」とか何とか理由をつけて行かなかったんです。

 

これは、信長に朝倉攻めの格好の口実を与えることになってしまいました。ていうか、それくらいわかろうよ…と思いますが、もうどうにもなりません。一説には、義景はこの頃から遊び暮らすようになっていたとも言いますし、朝倉氏の斜陽化は加速していったのでした。こんな主、直隆はどんな思いで見ていたんでしょうね。見限っても良かったのに、どうしてそうしなかったんでしょう。

 

そして元亀元(1570)年、直隆が35歳の時、姉川の戦いが起こったのでした。

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世紀の一騎打ち! 直隆VS本多忠勝

姉川の戦いは、朝倉義景と浅井長政(あざいながまさ)連合軍と、信長・徳川家康の連合軍の対決でした。

序盤、優勢に戦を進めた朝倉軍は、家康の本陣を突き崩そうと攻勢をかけます。

 

すると、そこにたった一騎で突っ込んでくる武将がいました。

 

彼こそ、後に豊臣秀吉に「天下無双」と称され、6mにも及ぶ長槍・蜻蛉切(とんぼきり)を操る徳川方の勇将・本多忠勝(ほんだただかつ)だったんです。この時はまだ23歳の若武者でした。

 

それに立ち向かったのが、直隆でした。

両者は激しく打ち合いますが、なかなか勝負がつきません。共に豪傑、どちらが退くこともなく、いつこの戦いが終わるか…といったところでしたが、この間に忠勝の奮戦を目にした徳川軍が奮起し、朝倉軍を押し返し始めたのです。

そして両者の戦いは、戦の流れの中で勝敗のつかないまま流れてしまいました。

 

しかし、この一騎打ちは姉川の戦いでの伝説となりました。太郎太刀と蜻蛉切の世紀の競演、そしてそれを操る持ち主たちもまた天下に名を知られた猛者。後々の語り草になったというわけですね。

 

単騎、徳川軍に突撃!!

 

直隆と本多忠勝の一騎打ちの後、朝倉軍は徳川軍に押され、やがて敗色が濃厚となってきました。撤退戦となる中、直隆はなんとひとり、反攻に出たんです。単騎で敵に突撃し、12段構えの敵陣を8段まで突破したんですよ。まるで、さっきの本多忠勝を見るかのようです。

 

そして「太郎太刀」をまるで水車のように縦横無尽に振り回し、敵を斬りまくったんです。大量の返り血を浴びて真っ赤に染まった直隆の巨体と太刀は、それだけでも敵が怯むに十分でしたが、天地が裂けるかのような直隆の雄叫びはすさまじく、誰も近寄ることができませんでした。

 

「志しの者あらば我と勝負せよ!」

と叫ぶ直隆ですが、正直めっちゃ怖いので、進み出る者がいません。

 

しかし、そんな中で進み出た数人がいました。

徳川家臣の向坂(さきさか/勾坂/こうさかとも)三兄弟です。おそらく彼らの胸には、三河武士の名を汚すわけにはいかないという思いがあったはず。「犬のように忠実」と称された三河武士、黙っているわけにはいきませんよね。そして、彼ら三兄弟が一斉に直隆に斬りかかったんです。

 

しかし、対する直隆の勢いはまだ衰えません。三兄弟の長兄の槍を打ち落とし、兜の吹き返し(兜の左右の両端が上へ反り返っている部分)を打ち砕き、さらに首を取ろうかという勢い。一方の三兄弟の弟たちは、兄を助けようと決死の覚悟で直隆に突撃し、ついに深手を負わせました。

 

動けなくなった直隆はついに力尽き、最期を悟ります。すると、三兄弟に向かって「今はこれまで。我の首を取り、男子の本懐とせよ」と言い放ち、首を差し出したのでした。

 

この時、向坂三兄弟が直隆を討ち取った太刀は、「真柄切」と呼ばれるようになったそうです(諸説あり)。

 

息子・隆基も姉川に散る

一方、直隆の息子・隆基もまたこの戦いで戦死しました。彼を討ち取った徳川家臣・青木一重(あおきかずしげ)は、後に、この時のことについて「真柄は剛力の者で、私の力が及ぶところもない。誰かと戦って手負いになったのを、私が運良く行き合ったから討ち取れたのだ」と話したそうです。

 

こうして、豪傑・真柄父子は姉川で壮絶に散ったのでした。弟・直澄も戦死したと言われています。ただ、一族で生き残った者がいるらしく、真柄氏が断絶したわけではなかったようですよ。

 

姉川の激戦を物語るかのように、当地には「血川」や「血原」といった地名が残されています。直隆らの死闘が偲ばれますね。

 

まとめ

  1. 越前に生まれ、朝倉氏に仕えた
  2. 五尺三寸(約175㎝)もの太刀を自在に操った
  3. 主・朝倉義景の出来がいまいちだったので姉川の戦いに至った
  4. 姉川の戦いでは本多忠勝と一騎打ちしたという話もある
  5. 敗色濃厚の中、徳川軍に単騎突撃し、向坂三兄弟に討たれた
  6. 息子もまた姉川で戦死した

 

主に恵まれていたら、もっと大きな活躍ができたかもしれませんね。

 

あの本多忠勝とやり合ったのですから、真柄直隆は相当な豪傑と言えると思います。

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1 個のコメント

  • 真柄氏の末裔は青森の下北におられますよ
    本人曰く
    本人の姓も真柄で年齢90代ですが
    先祖は会津藩で真柄はこの地域でも一軒しかないと申してました。
    先祖の名前を聞くと
    真柄 十郎左衛門 と 直隆の別名を
    言っておられたし信憑性は
    高いと思われます

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