強い戦国武将には「四天王」や「○○将」なんて強い家臣がいるものですよね。
今回ご紹介する原虎胤(はらとらたね)は、「武田の五名臣」にして「武田二十四将」に数えられることもある豪傑です。
生涯に参戦した戦は38度、その体には53ヶ所もの傷跡があったとか。
「鬼美濃」とも呼ばれた武田屈指の猛将の生涯を、ゆっくりとご紹介していきたいと思います。
関東のゴタゴタで城を追われる
明応6(1497)年、原虎胤は小弓(おゆみ)城主・原友胤(はらともたね)の息子として誕生しました。
同い年には毛利元就がいます。
虎胤が生まれた原氏は、下総(千葉・茨城・埼玉・東京にまたがる付近)千葉氏の一族で、「千葉四天王」と呼ばれる名門の家でした。
しかし、このころの関東地方は戦乱の真っただ中。
古河公方・足利成氏(あしかがしげうじ)が引き起こした、約30年に及ぶ享徳(きょうとく)の乱がようやく終わったところでしたが、この乱が関東地方のあちこちに飛び火していたんですね。
古河公方のおうち(ここのせいで戦国時代が始まっちゃったと言っても過言ではない)でも家族がいがみ合い分裂し(父+兄VS弟)、そのどっちに付くかで関東の豪族たちは戦いを続けていたんです。
そして、虎胤の父は古河公方側、つまりは兄である足利高基(あしかがたかもと)に付いていました。
ただ、ライバルの豪族が弟の足利義明(あしかがよしあき)を担ぎ出し、その義明に原氏の小弓城は攻め落とされてしまったんです。これで義明が小弓公方となるわけですね。
城を追われた虎胤、この時はまだ21歳の若武者でした。
それでも剛勇の片鱗はすでに見せており、父と共に血路を切り開いて戦場を脱出。
その後、甲斐の武田信虎(たけだのぶとら)を頼って落ち延びていったのでした。
武田の足軽大将として頭角を見せる
武田信虎:Wikipediaより引用
ご存知の通り、武田信虎は武田信玄の父です。
この時は甲斐から勢力を広げるために野心満々でした。
そこへやってきた虎胤たちは、戦に敗れたとはいえ関東の名族・原氏の一門です。
こうした名家を無下に扱うなんてことはなく、むしろ信虎は大歓迎したんですよ。
虎胤の「虎」の字は信虎から授かったものでした。
信虎の下で、虎胤は、武田の甲斐統一に向けての戦・飯田河原の戦いに臨みます。
相手は駿河の今川氏親(いまがわうじちか)配下の武将・福島正成(くしままさなり)。
後に「地黄八幡(じおうはちまん/じきはちまん)」として名を挙げた北条綱成(ほうじょうつなしげ)の実父です。
武田軍2千に対し、今川方は1万5千もの大軍だったと言われていますが、ここで虎胤は先陣を切って敵に突進。
そしてなんと福島を討ち取ったんです。
その後、信虎と嫡男の晴信(はるのぶ/後の信玄)が対立し、信虎が追放されてからは信玄の足軽大将として虎胤は仕えました。
その武勇は名高く、「武田の五名臣」や「武田二十四将」に数えられることも多かったんですよ。
山本勘助も感服した城攻めの名手「鬼美濃」
山本勘助:Wikipediaより引用
虎胤は、城攻めの名手としても知られていたそうです。
彼が落とした城は、ほとんど修理がいらないと言われていたそうなんですよ。
城自体にダメージを与えずに落としていたんでしょうが、それは彼が用いた奇策などに秘訣があったようです。
例えば、ある城を攻略した際には、縄の先に登山のザイルみたいなものをつけた鉤縄(かぎなわ)を使い、兵たちに夜半にこっそり石積みを登らせて内側から城門を開けさせ、一気に城を攻め取ったそうです。
この戦いぶりを、信玄の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)はこう評しています。
「原虎胤には、足軽10人を100人分の働きをさせる力がある。そして罠を仕掛けるのも上手い。その上、徒歩でも馬上でも無類に強く、傷を負っても塩を塗り込んで平然としているのだ」
指揮をしても一流、自分で戦っても一流ということですよね。
そんな強さを発揮する彼を、人は彼の呼び名から「鬼美濃」と呼ぶようになりました。
信玄から追放され、今度は北条氏康のもとへ
さて、「鬼美濃」の異名が周辺諸国に鳴り響いた虎胤でしたが、思わぬことで信玄の下から追放されることになってしまいました。
甲斐の国内で、法華宗と浄土宗との間で論争が起きたんです。
この時、虎胤は浄土宗側に立ってモノ申してしまったそうなんですが(法華宗側だったという説もあり)、それ以前に、宗教について介入したことが問題だったんですよ。
というのも、武田の法律で
「一宗一派に属してはならない」
という決まりがあったんです。
虎胤はその禁を破ってしまったわけですね。
これに怒ったのが信玄。そんなことも守れんのか!と、虎胤を追放してしまったのでした(虎胤が出ていったという説もあります)。
浪人となってしまった虎胤ですが、「鬼美濃」の名声をもってすれば仕官のクチも案外簡単に見つかるもの。
次に彼が仕官したのは、北条氏康でした。
氏康は「信玄どのは良い家臣をお持ちでしたな。渡辺綱(わたなべのつな/京に出没した鬼・酒呑童子を退治した豪傑)にも勝るあっぱれな武士よ」と、快く虎胤を迎え入れたんですよ。
情の篤さを見せた「鬼美濃」
北条氏に仕えた期間はごくわずかでしたが、こんな逸話が伝わっています。
北条方が今川を攻め、今川の救援に来た武田軍と戦うことになりました。
北条方に属していた虎胤は、かつての同僚と刃を交えることになったわけです。
しかし、武田方の武将も虎胤に敬意を表し、深追いをしては来ませんでした。
ところが、そんなところへとある若武者が突っ込んできたのです。
虎胤は、腰に差した二間(約360㎝)もの大指物を抜き放つと、若武者の首をみね打ちし、あっさり落馬させました。
するとそこへ、虎胤と共に戦っていた武者がやって来て若武者を殺そうとしたんですが、虎胤はそれを制止しました。
「そいつは甲州で自分の所にも出入りしていた者。自分に免じて、命だけは助けてやってくれないか」
こうして若武者は助かったんですが、この話を聞いた人々は、「鬼美濃の目にも涙」と噂し合ったとか。
情けが自分の身を救う
また、若かりし頃、虎胤は戦場で怪我をした敵の老武者を見つけ、首を取らずに敵の陣屋まで送り届けてあげたこともあったそうです。
すると、老武者の甥という男が現れ、
「叔父の名誉のために名乗ることはできないが、これをお前の主に見せるといい」
と言ってひょうたんを虎胤に渡しました。
それを見た虎胤の主は、
「そやつは敵の勇士だぞ」
と言い、それ以後、虎胤はひょうたんを馬印にして戦場で活躍するようになりました。
しかしある時、虎胤は敵の武者と戦って組み伏せられ、大ピンチになってしまいます。
敵が刃を振りかざし、
「もはやこれまで…!」
と虎胤が覚悟した瞬間、なんとその武者はその刃で自分の首を刎ねたのです。
その人こそ、かつて虎胤が送り届けた老武者の甥でした。
虎胤の情けを忘れず、彼は自分の命を差し出して応えたというわけです。
再び武田に帰参
さて、北条氏康に仕えたのもつかの間、再び虎胤は武田信玄の下に戻ることになりました。
というのも、北条・武田・今川の間で甲相駿三国同盟が結ばれ、信玄がちゃっかり
「虎胤返して」
と氏康に申し入れたからなんですよ。
こうして武田に帰参した虎胤ですが、信濃攻めの際に負傷し、戦からは遠ざかります。
このため、山本勘助や信玄の弟・武田信繁(たけだのぶしげ)など多くが討死した第四次川中島の合戦には参加しませんでした。
そして、永禄7(1564)年に68年の生涯を終えます。
虎胤の「鬼美濃」の呼び名は、同じく武田の猛将であり武田四天王のひとりでもある馬場信春(ばばのぶはる)に受け継がれました。
まとめ
- 若い頃に城を追われ、武田信虎を頼った
- 武田では足軽大将として活躍し、「武田の五名臣」のひとりにも数えられた
- 「鬼美濃」と呼ばれる武勇を誇り、山本勘助にも評価されていた
- 宗教のことで信玄の怒りを買い追放された
- 北条氏康に仕え、武田方と対戦した際には敵に情けを見せた
- 若い頃にも敵の武者を陣屋にまで送り届けるなど、情に篤い人物だった
- 武田に帰参し、生涯を終えた
「鬼美濃」と恐れられた虎胤でしたが、奥さんにだけは頭があがらなかったそうですよ。
そんなところにも親しみが持てますよね。
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