戦国時代って、実は織田信長・豊臣秀吉が出てくる前くらいの方が、断然面白いと思うんです。アクの強い奴らがたくさんいるんですよね。
その中でも強烈に目立っているのが、松永久秀(まつながひさひで)。その所業は伝説級です。東大寺大仏殿を焼いちゃったり、将軍を暗殺しちゃったり、信長を2度も裏切った挙句に爆死したり…!? これってホントなでしょうか?
生まれも育ちもわかりません
松永久秀は、永正5(1508)年生まれとも、永正7(1510)年生まれとも伝わっています。
出身地もはっきりせず、様々な説があるため、おそらく身分は高くなかったのでしょうね。
しかし、そんな境遇にあっても、久秀は自分の力で出世の糸口をつかみます。
三好長慶:Wikipediaより引用
天文2(1533)年頃から、後に室町幕府を牛耳る存在となる三好長慶(みよしながよし)の右筆(ゆうひつ)として仕えるようになったようです。右筆とは秘書役のようなもので、主の文章の代筆を務めましたが、やがて事務を取り仕切る役目も担いました。
それなりの教養を身に付けていなければ、こんな役は務められなかったはず、しかし、久秀がそんな教養をどこで身に付けたのかは謎です。しかも、和歌や能楽、茶の湯にまで精通していたというんですから、さらに謎が深まります。しかし、わからないのがまたミステリアスですよね。
頭がいいだけでなく、久秀は交渉役としても優れていたようです。
三好長慶が将軍を追放し、事実上の三好政権を樹立すると、久秀は公家・寺社と三好家の仲介役を務めました。公家とのやり取りができるということは、作法にも通じてないと無理でしょうし、もちろんコミュ力も相当のものだったんでしょう。いったいあなたは何者ですか…!? と問いたくなります。
しかもこの時、後の信長を苦しめた本願寺からも贈り物をもらったりしていて…ちょっと普通の人間じゃないことがわかりますね。
三好家の一切を任される存在に
天文21(1552)年になると、久秀は三好家のことすべてを取り仕切る「家宰(かさい)」となります。彼は長慶の娘を妻にしており、長慶と同居しているほどでしたから、三好家の中で彼の存在というものは無視できないものになっていたんです。
これまでは事務方や調整役としての面が大きかった久秀ですが、長慶が実権を掌握した頃からは、武将として活躍するようにもなっていきます。いったいいつ初陣を果たしたのかも不明ですが、彼が武将としての才能もあったことは事実。知れば知るほど不思議な男ですね…。
そして、彼はついに幕政にまで食い込んでいきます。
長慶はほぼ傀儡として足利義輝を将軍に据えていましたが、久秀は義輝からも直臣扱いをされるようになったんですよ。「御供衆(おともしゅう)として、将軍の側に仕えることを許されたんです。配膳とかもできちゃうお役目ですから、信頼も絶大だったわけです。
長慶にせよ義輝にせよ、久秀は権力者の心をつかむ術に長けていたんでしょうね。いったいどこでそれを培ってきたのか…ホントに、謎なんですよね。
こうして、久秀は三好家と将軍の仲介役としての地位を固めていったんです。
また、この頃、彼は終生の居城となる信貴山城(しぎさんじょう)を得ています。
実は彼、織田信長の安土城よりも前に天守閣を造った人物なんだそうですよ(諸説あり)。そもそも天守の起源は不明なんですが、他にあまり例のないことをやってのけたわけですから、久秀は進歩的な考えの持ち主だったと考えてもいいでしょう。
うーん、やっぱり謎多き人物です…!
主の死によりさらに権力強化
三好家の家宰として、将軍の側近として、久秀はどちらにおいても重鎮となっていました。
しかし、三好家には次々と不幸が襲いかかります。
長慶の弟である十河一存(そごうかずまさ)と三好実休(みよしじっきゅう)、嫡男の義興(よしおき)らが次々と亡くなってしまったんです。
特に戦場では頼もしい存在だった弟たちの死は、政権自体にとっても大打撃でした。その上、嫡男まで失ってしまっては、長慶がショックを受けるのも仕方のないことだったんです。
しかし、ショックを受けただけではなく、長慶はこれ以降、どんどんやる気を失っていってしまったんです。
そして永禄7(1564)年、失意のうちに長慶は病没してしまいました。久秀が御供衆となってから5年経つか経たないかの頃でした。
急遽、長慶の甥の義継(よしつぐ)が跡を継ぐことになり、久秀は、三好一族で重臣の三好三人衆と共に、三好政権を支えていくこととなったんです。
将軍を暗殺? 永禄の変
足利義輝:Wikipediaより引用
三好長慶がいなくなったので、将軍・足利義輝は今度こそ自分の思い通りに政権運営をしようと動き始めます。しかしこれは三好政権にとってみれば邪魔そのもの。
そこで、三好義継と三人衆、久秀の息子・久通(ひさみち)は、なんと将軍暗殺を決行してしまったんです。これが「永禄の変」です。
この事件により、久秀は後世、将軍を暗殺した男として語られるようになりますが、彼は実行犯ではありませんでした。この変の際、彼は別のところにいたことがわかっています。
しかし、事件後に彼が三人衆らをどうこうした形跡も見られず、息子も暗殺劇に加わっていることから、黙認したのではと言われていますね。もしかすると影の首謀者…なんて勘ぐってしまいます。
三好義継像:Wikipediaより引用
しかし、変の後に久秀は三人衆と対立し、内乱に発展します。一時は苦戦し、身を隠すほど追い込まれましたが、やがて三人衆と決別した三好家当主・義継が久秀を頼ってきたため、彼を奉じて復帰したんです。
こういうところ、まだ久秀が三好本家に対して忠実だったと考えられますよね。主家乗っ取りとよく言われますが、義継がそんなにデキのいい人物ではなかったために、久秀が舵取りをしていたんじゃないかと思いますよ。
大仏焼いちゃった!? 東大寺大仏殿の戦い
永禄10(1567)年、久秀は義継と組み、三好三人衆と対決します。戦場となったのはなんと、東大寺だったんです。そのため「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれています。
この戦いの際、大仏殿が燃えてしまったんですよ。大仏の首まで落ちるという悲惨な火事でしたが、これが久秀の仕業だとする説が後世になってつくられてしまったんです。
元々、久秀は故意に大仏殿を焼いてしまったわけではなく、奇襲をかけた際に燃えてしまったんだそうですよ。また、失火説やキリシタン放火説などもあり、原因ははっきりしていないんです。
この戦いで、久秀は一応の勝利を収めますが、三人衆が完全に退いたわけではありませんでした。
そこで、久秀は新たな同盟相手を見つけます。
それが、尾張を統一し勢いに乗った、新進気鋭の戦国大名・織田信長だったんですよ。
織田信長に臣従、そして反逆
信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀はすぐさま彼に降伏し、臣従を誓います。この時、彼は茶の湯に使う名器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上し、気に入られました。信長、茶の湯大好きですし、変わった人好きですからね…やっぱりこういうところ、取り入るのがうまいんですよ。しかし、久秀の最期にも茶器は関わってくることになるんです。…それについては、また後で。
こうして信長の臣下となった久秀は、しばらくは信長に忠実な部下として数々の戦いに参加します。
信長は勢いのままに三好三人衆を蹴散らしますが、ここで和睦をまとめ上げたのは、やはり久秀でした。
ただ、やっぱりじっとしていられないところもあったようで。
そこがきっと梟雄と呼ばれる所以なのでしょうが、やがて久秀は不穏な動きを見せ始めます。こそっと武田信玄と連絡を取り合ったりして、信玄が対信長のため甲斐から進撃を開始すると、途端に信長に反逆したんです。しかも、敵だった三好三人衆も一緒に。
ところが、肝心の信玄が進軍中に亡くなってしまったため、さすがの久秀のアテも外れてしまいました。そして信長に追いつめられ、ついには降伏する羽目となったんです。
ところが、信長は久秀を許しました。
ふだんの信長なら絶対殺してますよね。しかしそうしなかったのは、久秀自身に魅力があったのか、それともまだ利用価値があると思ったのか…自分なら久秀を飼い慣らせると思ったんでしょうかね。
2度信長に反抗した男の最期は…爆死!?
信長の下に戻った久秀ですが、待遇は以前よりは落ちるものでした。彼が支配していた大和(やまと/奈良県)の支配権は信長の部下に移り、彼自身は一領主に過ぎない存在となってしまったんです。
筒井順慶:Wikipediaより引用
しかも、その後に大和を支配したのが、彼にとっては宿敵とも言える筒井順慶(つついじゅんけい)だったんですから、余計に面白くなかったようです。
となると、やっぱり反逆の芽が頭をもたげてくるわけですよ。
天正5(1577)年、信長の石山本願寺攻めに加わっていた久秀ですが、突如戦線を離脱し、砦を焼き払うと信貴山城に立て籠もってしまったんです。
しかし、あまりにも突然すぎて、信長はわけがわからなかったようですよ。あの信長が、使者を派遣して「なんで立て籠もっちゃったの? 」と尋ねるほどでしたから。しかも、「なんか問題あるなら言ってよ、そしたら対応するし」とまで言っているんです。
2度も裏切っているのに、このやたら丁寧な対応…信長らしくありませんよね。そんなに久秀を気に入っていたんでしょうか。
そんな信長に対し、久秀はひたすら拒絶の姿勢を貫き、使者には会おうともなかったんです。
さすがに信長も堪忍袋の緒が切れたか、4万の兵を派遣し、信貴山城を包囲したのでした。
対する久秀の率いる兵は8千ほどでしたが、信貴山城自体がかなりカタイ城だったので、そう簡単には落ちません。
このままでは戦線が膠着してしまうと踏んだ信長は、またも下手に出ました。
使者を派遣し、久秀が持っている名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出したら許してやると言ったそうなんですよ。どこまで甘いんですか、信長…!
ただ、久秀はこれを受け入れませんでした。
「我々の首と平蜘蛛は信長公のお目にはかけぬぞ」と言い放つと、平蜘蛛を叩き割り、天守に火を放って自害したんです。68歳でした。
この最期に尾ひれがつき、後世になると、平蜘蛛に火薬を仕込んで点火し自爆したという話になっちゃったわけです。まあ、久秀なら自爆しそうだと後世の人々も思っていたということでしょうね。
作られた梟雄のイメージ
久秀のイメージはいわゆる「梟雄」というものですが、こうして彼の生涯を見てくると、それは後世によって与えられたものという部分が大きいことがわかると思います。
三好家を乗っ取ったように言われてもいますが、実際は長慶の跡を継いだ義継に頼られると協力していますし、義継が戦死するまで行動を共にしています。
また、十河一存や三好義興の死に一枚噛んでおり、実は久秀が暗殺したのではないかとも言われていますが、これも根拠ははっきりしておらず、後世のイメージから罪をなすりつけられたような感がありますね。
まあ、かなり変わった人だったことは間違いありませんが、どこの馬の骨とも知れない身分から、公家や将軍とも対等に渡り合う教養を身に付けて立身出世を果たした彼の努力と才能はすごいものでした。確かに、こんなにアクの強い人材を使えるのは、当時なら信長くらいしかいなかったんでしょうね…。その信長が「無理! 」となれば、もう久秀に行き場はなかったのかもしれません。
まとめ
- 出自不詳ながらも、一流の教養を身に付けていた
- 権力者・三好長慶と将軍・足利義輝から信頼を受ける
- 長慶の死後は三好家を支えた
- 将軍暗殺については、実行犯ではなかった
- 東大寺の大仏には、故意に放火したわけではない
- 織田信長に臣従するが、やがて反逆
- 許されたのに再び信長に反抗し、自害した
- 梟雄のイメージは創作によるところが大きいようだ
何を考えているか分からない不気味なイメージが付いて回る久秀ですが、それが人気の理由でもあるのかもしれません。
ただ、実際はそこまで腹黒い男でもなかったような気がします。
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