主君がいくら不出来でも、揺るがぬ忠誠を捧げた家臣たちってカッコいいですよね。
今回ご紹介する吉弘統幸(よしひろむねゆき)は、沈没しかかった大友家と、その舵取りをする不出来な当主を見捨てることなく最期まで従った忠義の臣でした。
あの立花宗茂(たちばなむねしげ)のイトコでもあり、彼に比肩する武勇を誇った彼の生涯は、太く短く、そして潔いものだったんです。
では、九州屈指の忠義の漢(おとこ)・吉弘統幸の生涯を追ってみることにしましょう。
親戚みんなが勇猛でした
吉弘統幸が生まれたのは永禄6(1563)年のこと。父は大友宗麟(おおともそうりん)の側近。吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)、祖父の鑑理(あきまさ/あきただ)は大友家の「三老」と呼ばれるほどの重臣でした。吉弘家は鎌倉時代から大友家に仕えており、名門だったんです。また、叔父には高橋紹運(たかはしじょううん)、その息子に立花宗茂と、強くならないわけがないような武門の家系に生まれたわけですね。
ところが、統幸が16歳になった天正6(1578)年、耳川の戦いで大友軍は島津軍に大敗を喫し、この時に父・鎮信が戦死してしまいます。このため統幸は家督を継ぎ、衰退してゆく一方となった大友家を支えることとなったのでした。
以前は九州でもトップクラスの勢いを誇った大友家ですが、大友宗麟の治世後半からはどんどん衰えていきます。その契機となったのが例の耳川の戦いの大敗だったんですが、宗麟とその息子・義統(よしむね)の不仲もまた原因だったんですよ。
というのも、義統の出来があまりにアレなもので、重臣の立花道雪(たちばなどうせつ/宗茂の義父)なんかは「義統様よりも宗麟様に復帰して欲しい」と言い出したほどでした。また、宗麟は宗麟で義統の後見として実権を握りましたが、どうも義統との仲も良くなく、お家はまさにぐだぐだな感じだったんです。
この状況なら、さっさと見限って他の主を見つけた方が良さそうなものですよね。しかしなぜか大友家臣って忠義の人が多くて、どんなにアレな主君でも見捨てることはしなかったんですよ。立花道雪しかり、高橋紹運しかり。そして、吉弘統幸もまたそうなる運命にあったのでした。
強敵島津との死闘
しかし、離反する者がいなかったわけではありませんでした。立花道雪が病没し、やがて薩摩から進攻してきた島津義久(しまづよしひさ)の脅威にさらされるようになった大友氏は、窮地に追い込まれていきます。
天正14(1586)年には島津の本格的な進攻が始まり、高橋紹運も岩屋城(いわやじょう)の戦いで鮮烈な玉砕を遂げてしまいました。
こうなってはどうにもならないと、大友宗麟はたまらず豊臣秀吉に助けを求めます。そして始まったのが秀吉による九州征伐だったんですが、その緒戦ともいえる戸次川(へつぎがわ)の戦いで、秀吉軍と大友軍は島津軍に敗れてしまったんですよ。
ひどい負け戦でしたが、ここで統幸はめざましい活躍を見せました。義統を助けて殿(しんがり)をつとめ、わずか300人で島津軍を食い止めたんです。そしてこの間に義統はひとりで逃げちゃうという、主としてあるまじき行為をしているんですが、それでも統幸は従います。なんで。
皆朱の槍を授かる「無双の槍使い」
正直どうしようもない戦いの後、秀吉によって九州征伐が完了すると、義統は正式に秀吉の家臣となりました。そのため、朝鮮出兵には統幸も大友軍の一員として参戦したんですね。
しかし、この朝鮮出兵が大きな運命の分岐点となったんです。
天正20(1592)年、文禄の役でのこと。
統幸は奮戦し、敵の軍旗を奪うなど抜群の活躍を見せ、秀吉に「無双の槍使い」と称賛されました。そして、「皆朱の槍(かいしゅのやり)」を賜るという栄誉に浴したんです。
「皆朱の槍」とは、柄が朱色に塗られた槍のこと。戦場で半端なく目立つだけでなく、武勇を認められていないと持つことを許されない「超」格式高い槍でした。
大友義統:Wikipediaより引用
そんな風に統幸は頑張ったんですが、ダメだったのが主君・義統。小西行長(こにしゆきなが)から救援を求められたんですが、小西戦死の誤報を鵜呑みにしてしまい、そのまま撤退してしまったんですよ。小西は生きておりなんとか自力で脱出したんですが、義統の行為は「味方を見捨てて敵前逃亡」という言語道断の所行として、秀吉を激怒させてしまったんです。
そして下された沙汰は「改易」という厳しいものでした。所領没収、つまり無職になっちゃったんです。家臣たちも当然、浪人になってしまったわけですね。
義統は大名に身柄を預けられ幽閉状態となり、統幸ら家臣は散り散りになり浪人生活を余儀なくされました。
黒田如水:Wikipediaより引用
そんな統幸に手を差し伸べたのが、黒田如水(くろだじょすい/官兵衛、孝高)でした。
如水の重臣である井上之房(いのうえゆきふさ)のもとに身を寄せ。しばらく過ごした後、統幸はイトコの立花宗茂に仕官します。
立花宗茂:Wikipediaより引用
2度目の朝鮮出兵である慶長の役には、立花軍の一員として参加しました。
やっぱり主を助けたい!立花家を辞す
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きると、立花宗茂は西軍に属します。
しかしこの時、義統の嫡子である義乗(よしのり)は徳川秀忠のそばに仕えていたため、東軍となりました。
この時、統幸は大友のためにと立花家を辞す決心をします。やはり、主を捨て切ることはできなかったんです。
辞意を伝えた席で、統幸は宗茂に対して自分の太刀を形見にと差し出します。
宗茂もまた、「引き留めたいが、義によってお前が行くというなら止められない」と統幸の意思を尊重し、路銀と共に自らの脇差を与えたそうです。なんていい話。というか、宗茂の方が絶対いい主君なんですけど。
そして統幸は義乗の元へ向かうべく関東へ馬を勧めますが、その道中、堺(大阪)でなんと義統と再会したんです。秀吉の死後、幽閉を解かれた義統は秀頼に仕えており、領地の奪回を目指そうと西軍に付く意思を固めていたところでした。
統幸は「必ず天下は徳川のものになりますし、義乗様もいるのですから東軍に付くべきです」と義統を諌めますが、旧領への希望を捨てられてない義統は、彼の言うことを聞き入れてはくれませんでした。
結局、統幸はここで義統に従うことを決め、再び九州へと戻って行ったんです。その先に勝利はないことをわかっていたのに、それに先立ったのはやはり主家への忠義でした。
なんでそんなに義統が大事なの!と思いますよね。でも、この愚直なまでに主君に忠義を尽くすのがなぜか大友家臣の特徴だったりするので…。それにしても、歯がゆいです。
最後まで大友家に捧げた命
義統に従い九州入りした統幸は、石垣原(いしがきばる)の戦いで東軍に属した黒田如水の軍勢と激突しました。
先鋒を大いに破った統幸でしたが、軍の士気は上がりません。というのも、如水の援軍がまだまだ大勢控えていましたし、劣勢は明らかだったからです。それでも、統幸は自慢の槍の腕を存分にふるい、ひとりで30余りの首を取ったと言います。
やがて如水の援軍が到着すると、その兵力差は約5倍にまで達しました。
もはやこれまでと、統幸は覚悟を胸に義統と最後の対面をします。
その場で、彼は「もしこの戦いに勝つことがあっても、殿に運は向きますまい。私は討死すると決めてまいりましたゆえ、これが最後の対面となるでしょう…」と言い、死地に向かったのでした。
統幸に従うのは、30余りの手勢のみ。
統幸は彼らと共に突撃し、壮絶に散ったのでした。
一説には、旧知の仲である井上之房に遭遇し、彼に武功をと自刃したとも言われています。
黒田家の歴史書である「黒田家譜(くろだかふ)」にまで、統幸のことは記されているんですよ。
「統幸のような真の義士は、古今たぐいまれなることだ」と書かれています。
本来なら敵である家に称賛されているのですから、統幸が立派な武将だったことがわかりますね。
統幸の子孫によって、彼を祭神とした吉弘神社が別府市に建立されました。そして、統幸は今もご当地の英雄として、人々に慕われているんですよ。
まとめ
- 代々大友氏に仕えた家に生まれ、一族みな武勇を誇った
- 島津相手に殿をつとめ、主を逃がした
- 朝鮮出兵で奮闘し秀吉にも褒められるが、主君が改易され浪人となってしまった
- かつての主・大友義統に忠義を尽くすため、立花宗茂のもとを去った
- 負け戦にもあえて挑み、戦場に散った
統幸ほどの人材ですから、いくらでも仕官の道はあったはず。それでも大友義統を見捨てなかった彼の忠義は、本当に純粋だったんですね。その潔さには、頭が下がります。
コメントを残す