“山内一豊”こう書くとどうしても後に“の妻”と続けたくなるのですが、今回は内助の功で有名な奥様は敢えてスルー。
一豊さんメインで行きます。
風采は上がらないが実は出来る男
この方良い男ぶりとは言いかねる外見だったようです。
中背で小太り、目は赤みがかって、普段は言葉少なで柔らかなモソモソとした物言い。
しかし一旦戦場に出ると人が変わったようで、大声で言葉数も多くテキパキと賢明な指図ぶり。
天正5年(1577年)羽柴秀吉の中国征伐播磨の陣で、一豊の指揮ぶりを見た秀吉、若い武将たちに向かってこう言います。
「山内が人数を使ふをいずれも見置けよ。見かけにたがひたる男、これこそ(山内が部下に指図するところを見て置け。これこそ人は見かけによらぬと言うものだ)」
って、褒めてるんだかけなしてるんだかわかりませんが、ともかく
「やればできる男よ」
と認識は改めたのでした。
天正18年(1590年)には、天下統一を了えた秀吉の命令で、それまでの近江長浜二万石から、遠州掛川五万石へ転封になります。
これは駿府から江戸へ入った徳川家康を監視せよとの意味で、秀吉の一豊への信頼が伺えます。
このころから一豊にも大名としての自覚が芽生えたようで、城を修理したり城下町をせっせと増改築します。
また暴れ川として有名で、東海道の難所としても知られた大井川の堤防建設、洪水が起こらぬよう流れを変えるなどの工事を行います。
それと共に、徳川に対する豊臣方の前線基地としても役割も、しっかり理解していました。
常に20人の飛脚を用意し、徳川に不穏な動きがあれば、すぐに秀吉の居る大阪へ連絡できるよう調えます。
このころは豊臣家に忠誠を尽くしていたのです。
時代の空気も読める男
しかし秀吉が60歳を過ぎた頃から、一豊の態度が変わって来ました。
東海道を行き来する家康や秀忠の一行を、掛川で歓待するようになったのです。
秀吉が亡くなれば
「これからは徳川の世かもしれぬ」
と読んだのでしょう。
その時になって慌てなくとも良いように、監視役から饗応役に変身して、家康の心証を良くするように努めました。
慶長5年(1600年)6月、家康が上杉討伐軍を率いて東海道を下った時は、掛川領内の小夜の中山に席を設け、家康軍の行軍の疲れを癒しました。
饗応の支度にも金をかけ、かなり気合の入ったもてなしをしたそうです。
この時にはもうはっきりと豊臣家を捨て、徳川家に山内家の運命を託す決断をしていました。
身の処し方がうまいのは、今に始まったことではありません。
豊臣秀次:Wikipediaより引用
かつて一豊は関白豊臣秀次の宿老の1人でしたが、秀頼誕生を受けて
「秀吉様のご寵愛は、実の子の秀頼様に移るだろう。秀次様べったりでは、まずいことになるかもしれぬ」
と巧みに秀次との距離を置き始めます。
文禄4年(1595年)秀次謀反の時には、前野長康(まえのながやす)渡瀬繁詮(わたらせしげあき)ら宿老が切腹を命じられたのに引き換え、一豊はその措置を免れました。
それどころか、秀次を説得して聚楽第から連れ出したのは手柄であると秀吉に褒められ、八千石の加増まで受けているのです。
明日はどう風向きが変わるかわからぬ戦国の世では、どちらに転んでも良いように両方に布石を打って置くことが必要でした。
変わり身が早いと言うべきではありません。先が見通せたのです。
覚悟の発言も出来る男
山内一豊:Wikipediaより引用
家康軍に遅れることひと月、後を追って一豊も上杉討伐軍に参戦します。
出陣の日の早朝、叔父の在川謙昨(ざいせんけんさ)が和尚を務めている、領内の真如寺(しんにょじ)を訪れた一豊。
在川和尚の胸元に槍の穂先を突き付け、問答を挑みます。
「占いによれば本日は凶なり。いったん家を出れば二度と戻れぬそうな。どうすれば良いか」
在川和尚少しも慌てず、二枚の旗を必勝の守りとして与え、
「大国の主として戻るが良い、小国の掛川に戻ろうと思うてはならぬ」
と言って送り出します。
わずか五万石の掛川へは戻れなくても良い、手柄を立てて出世して戻って来いってことですね。
慶長5年と言えば関ヶ原、家康の留守を狙って石田三成らが挙兵します。
その一報を受けた家康は、下野国小山(しもつけのくにおやま、栃木県小山市)で軍議を開き、配下の諸将の覚悟を質します。
世に言う小山評定です。
大阪に残して来た妻子を、三成方が人質に取ることを恐れて諸将が動揺する中、一豊がずいっと進み出て口を開きます。
「我が居城掛川城を内府殿(家康の事)に明け渡し、人質も差し出し、みずからは先陣して戦わん」
この発言には、居並ぶ武将も口をあんぐり。
「日ごろは昼行燈のような山内殿が、なんと覚悟の有る事を申されるものよ」
一気にその場の空気を持って行ってしまいました。
この言葉に押されるように、その場に居た面々は我も我もと、忠誠を誓う誓紙を家康に差し出します。
進路に当たる街道筋に城を持つ武将たちは、居城を明け渡すことを約束します。
家康軍は対石田三成で一つにまとまり、城を開いてもらってその行軍は随分と楽なものになりました。
合戦に先んじて一豊は、言葉で一番手柄を立てたのです。
他人の褌で相撲を取る男
しかしこの言葉、実は借り物だったのです、と言うか盗作ですね。
堀尾忠氏:Wikipediaより引用
浜松城主の堀尾忠氏(ただうじ)が、軍議が始まる前に自身の考えとして、一豊に語った言葉だったのです。
それをぬけぬけと、自分の覚悟として家康の前で披露した一豊も相当なものですが、忠氏も人物でした。
一豊を責めるどころか、評定からの戻り道で
「日頃律儀な山内殿に、今日はしてやられましたな。それがしには言うべき言葉もござらんよ」
と言い、二人して大いに笑い合ったとか。
しかしこれでは忠氏が人が良すぎます。忠氏が一豊を笑って許したのは、日頃の一豊の振る舞いがあったからなのです。
土佐藩に伝わる“藩翰譜(はんかんふ)”に拠ると、
「堀尾信濃守忠氏、いまだ年若けれども才智ある人なりしかば、一豊常に親しみて、家の事大小となく、此の人と謀る」
と述べています。
ここにある通り若年の忠氏ですが、考えの深い人だとして、一豊は大事も小事も相談を持ち掛け、その意見を尊重していました。
自分を買ってくれているとわかっていればこそ、忠氏も一豊の振る舞いを笑って許したのでしょう。
思うに一豊と言う人は、相手が若年であろうと女性であろうと侮ることなく、学ぶべきことは謙虚に学ぶ、そう言う柔軟な考え方が出来る人だったようです。
土佐藩の基礎を築いた男
慶長5年(1600年)7月28日、宿舎を立った一豊は約束通り掛川城を明け渡し、甥の政豊(まさとよ)を人質として小田原城へ送ります。
8月14日には尾張清洲城に着陣。
8月22日、一豊は2,000余りの軍勢を率いて、池田輝政を先鋒とする18,000の軍と合流、木曽川上流を押し渡ります。
西軍織田秀信が守る岐阜城の前線を突破、翌日には浄土口から本丸へと突き進み、岐阜城を抜きます。
途中犬山城を守る加藤貞康(さだやす)を説得して、東軍に投降させる手柄を挙げながら、9月15日関ヶ原の決戦に臨みます。
関ヶ原では池田輝政らと共に17,000の軍勢で、南宮山(なんぐうさん)に拠る毛利軍への応対として布陣します。
しかし毛利軍先鋒の吉川隊が東軍に内通していて、本体の動きを押さえたため、目立った戦闘も無く手柄は上げられませんでした。
もっとも戦後の論功行賞では、小山評定での諸将の迷いを断ち切らせた発言が高く評価され、土佐一国二十万石が与えられたのです。
まさに在川和尚の言葉通り、“大国の主” として、遠州掛川ではなく土佐の国へ戻ることが出来ました。
慶長6年(1601年)土佐の国へお国入り。最初は長宗我部氏生き残り家臣による、浦戸城籠城騒ぎもありましたが、それもまもなく鎮圧。
2年後には高知平野に新しく高知城を築城します。
慶長10年(1605年)高知城にて病のため死去、享年60歳まずますの寿命でした。
藩主として過ごしたのは4年9ヶ月でしたが、城下町を整え土佐藩の基礎を築き、子孫は江戸時代を通じて国を守り抜き、明治維新を迎えました。
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