父は毛利に背き、息子は流転の末毛利に帰参…渡辺勝・通父子の真逆の生涯

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中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)を語る上で欠かせないのが、今回ご紹介する渡辺勝(わたなべすぐる)・通(かよう/とおる)父子。

2人とも毛利家臣でしたが、歩んだ人生は真逆と言ってもいいものでした。父は毛利に背き、息子は毛利に命を捧げたんです。そうなったのはなぜなんでしょうか…。

毛利と周辺豪族との微妙で複雑な関係も絡んだ渡辺父子の人生、ゆっくりしっかりご紹介しましょう!

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先祖は豪傑・渡辺綱

渡辺綱:Wikipediaより引用

渡辺父子について触れる前に、彼らのご先祖についても触れておきましょう。

 

渡辺勝・通の先祖は、渡辺綱(わたなべのつな)。清和源氏3代目の源頼光(みなもとのよりみつ)に仕えた豪傑でした。

 

渡辺綱と言えば、数々の伝説が残っているんですよ。

京都の大江山に住んでいた鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治したことや、同じく京都の一条戻橋(いちじょうもどりばし)に現れた鬼の腕を切り落としたという伝説などが有名です。その時の愛刀が名刀「髭切」なんですね。

 

こんな豪傑を先祖に持つ渡辺勝と通。

特に、その血は通に受け継がれていました。そのことは、これからご紹介する彼の生涯を通じておわかりになるかと思います。

 

ちなみに、代々この渡辺氏は名前を一文字で通しています。これも特徴的ですね。

 

毛利元就に反抗した父・勝

渡辺勝は、毛利元就に仕えていました。それなりの地位にあったらしく、元就が家督を相続する時に、彼を認めるという家臣団の起請文に署名が残っています。

 

しかし、元就が家督を継いだ大永4(1524)年、突然、彼は元就に反抗したんです。

 

というのも、元就が家督を継ぐのに反対する動きもあったようなんですね。

元就の実兄で当主だった毛利興元(もうりおきもと)が死去すると、その子・幸松丸(こうまつまる)が幼少で後を継ぎ、元就は後見役を務めていました。しかし、その幸松丸が大永3(1523)年にわずか9歳で亡くなってしまったため、元就が家督を継ぐこととなったんです。

本来ならすんなりと行くはずのところに、家臣たちがわざわざ「元就の家督相続を認める」なんて文書を作成して署名しているんですから、皆が皆、賛成していたわけではなかったと推測されます。

 

その反対派の中に、渡辺勝はいたのでした。

そして彼は、同じく毛利家臣の坂広秀(さかひろひで)らと共謀し、元就の異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を担いでクーデタを起こしたんですよ。しかも、この裏には毛利の宿敵・尼子氏も絡んでいたようです。

 

クーデタ失敗と誅殺

しかし、どうして勝は元就の家督相続に反対し、クーデタを起こしたのでしょうか。

はっきりとはしていませんが、譜代家臣として代々仕えてきた渡辺氏が、徐々に新参者の勢力に押され、主流派から非主流派へと転落しそうだったということがあったようです。

共謀者の坂広秀もまた、分家の志道広良(しじひろよし)が元就に重用され、本家である自分が置いてきぼりな状況への不満と焦りがあったのでした。

 

そんな2人にとって、「今義経」と呼ばれるほどの武勇の持ち主でもあった相合元綱の存在は、まさに担ぐにぴったりだったわけです。

しかし、このクーデタによる元就暗殺計画は失敗に終わりました。いち早く情報をつかんだ元就が逆に攻め込んできて、さすがの相合元綱も討死してしまったんです。

そして、勝と坂は元就によって誅殺されたのでした…。

 

勝の居城は包囲され、一族はほぼ皆殺しにされたと言います。勝自身は元就に手討ちにされ、谷底に叩き落されたとも伝わっています。いずれにせよ、元就にとっては許しがたい反抗だったんですね。

 

一方、坂の嫡流筋に当たる毛利家臣・桂広澄(かつらひろずみ)は、クーデタに全く関与していないにも関わらず、坂の犯した重罪に対する責任を取るとして、元就の制止も聞かずに自刃を遂げています。潔いと言えばカッコいいですが、やはり謀反は関係のない親族にまで累を及ぼすわけで…。たいてい、誰も幸せにならないんですよね。

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生き延びた息子・通と複雑な勢力図

 

勝の一族は「ほぼ」皆殺しでしたが、それを逃れた人物もいました。それが、息子・通だったんです。

 

父が討たれた時まだ元服前だった通は、乳母に連れられて備後(びんご/広島県東部)の豪族・山内直通(やまのうちなおみち)の元に逃れました。

ここで彼は元服し、直通の一字をもらって「通」と名乗るようになったんです。

 

この地で成長した通でしたが、彼を取り巻く環境は非常に複雑なものでした。

 

実はこの山内氏、近隣からの亡命者をかくまういわば「隠れ谷」的な存在でもあったんです。

尼子経久(あまごつねひさ)の三男・塩冶興久(えんやおきひさ)の妻が山内氏出身だったため、山内と尼子の関係は近いものでした。しかし、父・経久に反抗した興久が追われると、山内直通はこれをかくまいます。

ただ、直通への圧力が強まるのを察した興久は自ら自害して果て、直通へ累が及ばないようにしたんです。

救おうと思っていた興久が自分を気遣って死を選んだ…その事実に直通は動揺、落胆し、以後、山内と尼子は疎遠になっていったわけです。

 

ウルトラC的な毛利への復帰

山内・尼子間の不仲は、打倒・尼子に燃える毛利元就にとってはチャンスでした。そこで元就は山内直通への接近を図り、両者は親密になっていきますが、ここで直通が驚きの申し出をします。

それが、直通が保護していた渡辺勝の遺児・通を再び毛利家臣として迎えて欲しい、というものだったんですよ。

 

さすがの元就もこれには渋ったようです。かつての主従関係とはいえ、彼は通の父・勝を誅殺した「親の仇」にも当たるわけですからね。

しかし、元就にはこれを断りきれない要因もありました。

当時、毛利とは宿敵とも言える関係だった宍戸氏とようやく仲良くやっていけるようになったところだったんですが、この宍戸氏が山内直通と姻戚だったんです。

宍戸も山内も両方丸め込んでおきたい元就としては、直通の申し出を断るわけにはいかなかったんですね。

 

こうして、通は毛利家臣へと復帰を果たしたのでした。

本来なら恨みのひとつもあっていいはずですが、通はそうではなかったようです。もちろん、恩人・山内直通の好意を裏切れないという理由もあったようですが、通は元就の下で武将として活躍しました。

天文9(1540)年に起きた、半年に及ぶ尼子晴久(あまごはるひさ/当時は詮久)との吉田郡山城の戦いにおいては、元就の命によって主に伏兵的な役割を担いました。これは見事に成功し、通は数に勝る尼子方を蹴散らしたんです。幾つもの戦いで場数を踏んでいくごとに、元就の信頼も勝ち得ていったんですよ。

 

元就の身代わりとなって戦場に散る

 

当時、周防(すおう/山口県)の大内義隆(おおうちよしたか)に臣従していた元就は、天文11(1542)年、尼子討伐を目論む大内方として月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いに参戦します。

全盛期だった大内義隆が尼子を潰す気満々で挑んだこの戦いですが、結果は思いもよらないものでした。

補給路の道すがら尼子方が展開したゲリラ戦によって兵糧の補給が上手くいかなかった上に、尼子方から大内傘下に入っていたはずの豪族たちが再び尼子へ寝返ったということもあり、大内方が大敗を喫してしまったんです。

 

撤退を決めた大内軍にあって、元就率いる毛利軍は殿(しんがり)を任されました。

ただ、尼子の執拗な追撃は彼らを苦しめ、追い詰めていったんです。

そして、石見(いわみ/島根県西部)の大江坂七曲りの地で、ついに元就たちは絶体絶命の大ピンチに追い込まれました。元就以下、皆が死を覚悟したそうです。

 

ここで、通は、元就の甲冑を身に付けました。そして、元就たちが逃げる方角とは反対方向に馬を走らせ、「我こそは毛利元就! 」と叫び、敵を引きつけ囮となったんです。

通を含む7人の家臣がここで主君の身代わりとなり、奮戦の末に討死しました。元就は彼らのおかげで命を永らえることができたのです。

 

この話は月山富田城での撤退時ではなく、永禄2(1559)年の降露坂(ごうろざか)の戦いの時のことだとも言われていますが、いずれにせよ、相手は尼子、そして大敗時だったということは同じです。

 

現在、通たち7人が戦死した場所は「七騎坂(ひちきさか)」と呼ばれ、彼らの奮戦を物語る地として伝わっています。

 

主を救った栄誉は後世に続く

 

元就は通の忠誠心に深く感謝し、彼の息子・長(はじめ)を取り立てて重く用いました。以後、渡辺氏は主を救った忠義の臣として、毛利家でも一目置かれる存在となっていきます。

 

関ヶ原の戦いの後、毛利家は江戸幕府に冷遇されることとなりますが、その後の長州藩では正月恒例の儀式があったと言われています。

それは、甲冑を身に付けた藩主に、家老が「今年の倒幕はいかに? 」と尋ね、藩主が「時期尚早だ」と答えるものだったそうです(諸説あり)。

 

渡辺氏は正月の甲冑開きの際に先頭を務めたと言われているので、もしかすると、この儀式で用いる甲冑と何らかの関係があるのではないでしょうか。だとすれば、本当に名誉な役割を年初に果たしていたわけですね。

 

父・勝は毛利に反抗しながらも、息子・通は命を投げ出して毛利を救う…そんな数奇な運命に巡り合ってしまった渡辺氏ですが、通の犠牲が後の倒幕にまでつながっていくのですから、彼らの存在は毛利の歴史において実に大きなものだったのですね。

 

まとめ

  1. 渡辺父子の先祖は豪傑・渡辺綱だった
  2. 父・勝は主君の毛利元就に反抗した
  3. 勝はクーデタに失敗し、元就に誅殺された
  4. 息子・通は生き延び、山内直通にかくまわれた
  5. 山内直通のおかげで通は毛利に復帰した
  6. 通は元就の身代わりとなって討死した
  7. 通のおかげで渡辺氏は後世まで毛利家で重用された

 

通にこそ、先祖の豪傑の血が色濃く表れたのでしょうね。

 

父の仇であっても主。その忠誠心には、感嘆するしかありません。

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