関東でも屈指の名門・宇都宮家。栃木県の県庁所在地・宇都宮市の名にもなっているくらいですから、昔からこの地に根付いていたことがわかります。餃子やバスケ、自転車などで有名な宇都宮市ですが、街としての原型をつくり上げたのが、宇都宮家なんですよ。
今回は、戦国大名としての宇都宮家最後の当主となった宇都宮国綱(うつのみやくにつな)についてご紹介します。いきなりの転落劇は、ほぼパワハラだったのでした…。
宇都宮家とは?
宇都宮家のルーツは、遡ればなんと藤原家に辿り着きます。
平安時代、全盛時代を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)の兄・道兼(みちかね)の曾孫とされる藤原宗円(そうえん)が、当時源氏の頭領だった源義家(みなもとのよしいえ)の奥州征伐「前九年の役」に従って関東に下り、そのまま下野(しもつけ/栃木県)に住みついたところから始まりました。
そこから領地を広げ、最盛期には下野だけでなく下総(しもうさ/千葉県北西部・茨城県)や常陸(ひたち/茨城県)にまで支配が及び、関東随一の武士団となりました。
実は、宇都宮家は武士だけでなく神主としての顔も持っていました。
現在の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の神主でもあったんですよ。
加えて、5代目の宇都宮頼綱(よりつな)は歌人としても一流であり、小倉百人一首の選定を藤原定家(ふじわらのていか)に頼んだ人物なんです。
神主・歌人・武士という、様々な側面を持った、一風変わったお家だったんですね。
家中分裂の時期に生まれた国綱
鎌倉時代から室町時代にかけては「坂東一(関東一)の弓取り」として武名を高めた宇都宮家ですが、国綱の父・広綱(ひろつな)の頃までには、当主の早逝と幼い後継者の繰り返しにより、家中分裂がしょっちゅう起き、弱体化の一途を辿っていました。
加えて、北からは上杉謙信、南からは北条氏康(ほうじょううじやす)という強敵が攻め込んでくるという、かなり危機的な状況にあったんです。
そんな中、永禄11(1568)年に国綱は誕生しました。
しかし、またも例に漏れず、宇都宮家は当主の早逝に直面します。国綱の父・広綱は天正4(1576)年に32歳の若さで病没してしまったんですよ。当時、国綱はまだ9歳。家督を継ぎはしたものの、自分で何かできるはずもありませんでした。
そして、待ってましたとばかりに反対勢力が国内で挙兵。その上、南からは北条氏政(うじまさ)の侵攻も受け、どうしたらいいの! という状況は続いていたんです。
母は強し! 実母・南呂院に支えられる
しかし、幼い国綱を支えたのは、最も近しい存在である実母・南呂院(なんろいん/なんりょいん)でした。何といっても彼女の実家は常陸の雄・佐竹家。兄の佐竹義重(さたけよししげ)は「鬼義重」の異名を取った猛将でしたから、彼女ももちろん、佐竹の血を引く女性として、尼将軍さながらに家を取り仕切ったんです。
佐竹家からの支援を受けたほか、下総・結城(ゆうき)家に国綱の弟・朝勝(ともかつ)を養子に出し、末弟の高武(たかたけ)は有力家臣の芳賀(はが)家に養子に出して、周辺との関係を強めました。また、甲斐(山梨県)の武田家とも盟約を結ぶなど、見事な外交手腕を発揮した南呂院は、幼い息子を全力で支えたわけです。
これがあってこそ、後の国綱があるんですね。母は偉大です。
織田・豊臣に臣従、うまく世の中を渡っていく
成長した国綱はやがて自分で舵取りをするようになり、織田信長と通じ、本能寺の変で彼が倒れた後は豊臣秀吉に臣従し、うまく世の中を渡っていきます。
秀吉の天下統一総仕上げとなる小田原征伐(対北条家)の頃は、宇都宮家の周辺はみな北条方となっており、四面楚歌の状態でしたが、国綱は秀吉の元に駆けつけて臣従を誓い、戦後には下野18万石の領地を保証されました。
国綱は秀吉のために積極的に動き、文禄元(1592)年からの朝鮮出兵(文禄の役)にも参加しています。
こうした奉公ぶりが評価されたか、国綱は秀吉から羽柴姓・豊臣姓共に名乗ることを許されています。しかも朝廷の官位である侍従まで授けられ、秀吉の一門としてみなされるようになりました。
いろいろありましたが、これでようやく宇都宮家も安泰か…と思われたその時、とんでもないことが起きてしまったんです。
突然の改易! その裏にはパワハラが…?
慶長2(1597)年、突然、国綱は改易されてしまいます。
改易とは所領没収のこと。つまりは浪人になってしまうという、武士にとってはいちばん恐ろしい処分でした。
これに至るまでに、何があったのか。
いろいろな説がありますが、総合的に判断すると、どうやら国綱が五奉行のひとり・浅野長政(あさのながまさ)の息子との養子縁組の話を断ったことからこうなってしまったようです。
五奉行と言えば、石田三成や大谷吉継(おおたによしつぐ)などが顔を連ねる、秀吉政権の事務方のトップ。
最初、国綱はその話を受けようとしていたそうなんですが、それに猛反対したのが、芳賀家へ養子に行った実弟の高武でした。しかも高武、養子縁組の話を進めようとした国綱の側近を殺してしまったんですよ。
せっかく家内と国中の強化に努め、それが実を結んだところだったのに、ぶち壊しです。
また、宇都宮家といえば鎌倉以来の名門ですが、浅野家は、宇都宮家から見ればポッと出の家柄。「釣り合わないだろ! 」という声もあったそうですよ。
浅野長政:Wikipediaより引用
そんなことがあれば、当然、浅野長政の方も面白くないですよね。
そして、検地を受け持っていた彼は、国綱が石高を偽り、過少申告していたと秀吉に吹き込んだと言うんです。実際に収められる年貢の量を少なく申告すれば、余った分はこっそり懐に入れられちゃうわけですから、今で言えばれっきとした税金逃れになってしまうわけですね。
国綱が過少申告していたかどうかは不明なんですが、まあ、浅野長政が何かマイナスなことを秀吉に言ったのは確実でしょう。
そういうわけで、秀吉の不興を買うこととなった国綱は改易されてしまったのでした。一緒に高武も改易。兄弟そろって浪人となってしまったんです。
やっぱり、組織の中で生きて行くには、家柄とかどうこう言っている場合ではなく、先輩を立てた方がいいという見本図ですね…。そして浅野長政が秀吉に讒言したと言うなら、これはもう立派なパワハラですよ。おお怖。
お家再興の夢は夢と消え…
改易された国綱の身柄は、備前(びぜん/岡山県)の戦国大名で秀吉のお気に入り・宇喜多秀家(うきたひでいえ)の元に預けられました。
なんとかお家再興を願う国綱に対して、
秀吉は、「次、朝鮮で頑張って戦ったら許してもいい」と言ったそうです。
その言葉を信じ、お家再興を期した国綱は、慶長2(1597)年からの慶長の役に参加し、武功を挙げました。
これで秀吉もお家再興を許してくれるはず…!
しかし、そんな国綱の期待は夢と消えたのでした。
というのも、慶長の役の最中に肝心の秀吉が亡くなってしまったんです。
つまり、宇都宮家の再興の話もなかったことになってしまったんですよ。
失意のうちに帰国した国綱は、諸国を放浪した末、江戸・浅草に流れ着き、そこで命を終えました。亡くなったのは慶長12(1607)年。まだ40歳の若さでしたが、苦労がたたったのでしょうね。さぞかし無念だったことでしょう…。
こうして、戦国大名としての宇都宮家は終焉を迎えました。
しかし、国綱の息子・義綱(よしつな)はお隣の水戸藩に仕えて重臣格まで出世し、宇都宮家は明治維新まで水戸藩重臣としての地位を保ち続けたんです。
それだけでも、救いですね。
まとめ
- 宇都宮家は関東武士団でも随一の力を誇る名門だった
- 国綱は家中分裂の危機の中で生まれた
- 幼い国綱を盛り立てたのは実母・南呂院だった
- 時の権力者(信長や秀吉)に従い、うまく世の中を渡っていた
- 突然改易されてしまったが、その裏にはパワハラまがいの話もある
- お家再興を期して朝鮮にまで渡るが、夢は果たせずに終わった
22代も続いてきた名門武家・宇都宮家でしたが、国綱の代で大名ではなくなってしまいました…。
しかし、お家再興の思いを捨てずに懸命に生き続けた国綱、立派だと思いませんか?
そして何より、戦国時代からパワハラがあったのか…というのが驚きでした。
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