戦国時代で魅力的なのは、完璧な武将よりもどこかに欠点がある武将だったりしませんか?
今回ご紹介する富田長繁(とだ/とんだながしげ)は、武勇は人並み以上ながら、それを暴走させるという、なんだかとんでもないニオイがぷんぷんする武将です。
擁護はできませんが、その暴走ぶりはちょっと注目ですよ。では、富田長繁の駆け足の生涯をお伝えしたいと思います!
朝倉から織田へあっさり鞍替え
朝倉義景:Wikipediaより引用
天文21(1551)年に生まれた長繁ですが、おそらく父の代から越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えていたようです。
朝倉義景って、いまいちパッとしないし最終的には決断力とかなくて滅ぼされるイメージが強いんですが、将軍になる前の足利義昭(あしかがよしあき)とかに頼られたりして、勢力的にはなかなかの時代もありました。
この頃は、織田信長にとっての対抗勢力だったんですよ。
しかし元亀元(1570)年、足利義昭を奉じてすでに京都に入っていた信長による上洛命令を義景がシカトしたことで、信長は越前に侵攻してきたんです。
この時の戦では、当時20歳の長繁は1,000騎を率いて出陣しています。
1,000騎といえばけっこうな数ですから、彼自身もそれなりに認められた存在だったんでしょうね。
ただ、形勢はやはり信長有利に傾いていきました。
義景は浅井氏と結んで信長に対抗しようとしますが、姉川の戦い以降どんどん押されていきます。
この状況は若い長繁にもよくわかっていたんでしょう。
そして元亀3(1572)年、信長が浅井氏を攻めている間に、長繁は突如として織田方に寝返ったんですよ。
そして、羽柴秀吉の援軍として駆け付けるなど、
「朝倉?何それ?」
的な態度で世を渡っていくわけです。
こうして浅井氏が滅び、天正元(1573)年には朝倉義景も滅亡することとなりました。
恩賞の格差に不満を抱く
朝倉義景がいなくなったことで、越前の地を治める者がいなくなりました。
そこで後任が信長によって選ばれたわけですが、その人物は長繁よりもほんの少しだけ早く織田方に寝返った桂田長俊(かつらだながとし/改名前は前波吉継/まえばよしつぐ)だったんです。
彼が任ぜられたのは、越前の守護代(守護の代理、つまりは一国を任されているようなもの)でした。
一方、長繁は越前府中の領主となったのみ。
2人の恩賞には、一国と一地方くらいの差がありましたから、長繁からすれば、
「こんなちょっとの時間差でこんなに待遇が違うワケ!?」
という不満を抱いたんですね。
そんな長繁の不満を察していたのか、桂田は桂田で
「長繁の領地多すぎじゃない? 」
とか、
「長繁を府中の領主にしていてもいいことなどありませんよ」
などと信長に訴えていたんだそうです。
今もありますよね、こういう足の引っ張り合い…。
そういうわけで、長繁はもはや殺意すら桂田に対して抱くようになります。
両者の溝はやがて修復不可能なレベルに達してしまったのでした。
打倒桂田! …とまでは良かったが謎の暴走
長繁はひそかに、反・桂田の人々を仲間に引き入れ始めました。
桂田自身あまり良い統治者ではなかったようで、彼の悪政に嫌気が差した民衆は多かったようなんです。
そして、長繁はそうした人々を扇動し、一揆を起こさせたのでした。
一揆は3万3千もの大軍となり、長繁はその総大将として、桂田がいる本拠地・一乗谷(いちじょうだに)へと攻め込みます。
一乗谷はかつての朝倉氏の本拠地でもあり、そこに桂田が大きな顔で居座っているのは、長繁としては我慢ならなかったんでしょうね。
勢いに乗った一揆勢と長繁は、この時失明しており逃げることもできなかった桂田を殺害します。
ついでにその妻や母、嫡男まで殺してしまいました。
一応、ここまでなら民衆のヒーロー的な感じでカッコイイですよね。
しかし、長繁はここから謎の暴走を始めてしまいます。
調子に乗ったのか、代官所を襲撃して代官たちを追放します。
長繁は彼らを殺そうとしたんですが、周りに止められたんだそうですよ。
しかし、代官たちは信長の家臣ですから、これで信長にも反逆することになるってこと、わからなかったんでしょうかね。わかってないからやったんでしょうけど。
まだ続きます。
長繁は、旧朝倉家臣(つまり元同僚)の魚住景固(うおずみかげかた)とその次男を朝食の席に招き、殺してしまったんです。
翌日には魚住氏の居城を攻めて一族を滅ぼしてしまいました。ひ、ひどい…!!
何でこんなことをしたのか、正直意味不明です。魚住は別に悪人でも何でもなかったわけですから。
それは長繁の周囲の人々も同様だったようで、旧朝倉家臣たちは彼から遠ざかり、一揆勢の心も
「コイツ、ヤバいかも…」
と離れ始めてしまったのでした。
土一揆が一向一揆に移行…ってどういうこと?
上は三河一向一揆:Wikipediaより引用
民衆の心が離れ始めたことを悟った長繁は、慌てて彼らを懐柔する策などを講じましたが、不発に終わりました。
そりゃそうですよね、今までを見ていたって、彼はもっぱら戦で活躍するのがメインの人物だったんですから。
周りに頭の切れそうな部下もいなかったようですし…。
そして、真偽はともかく、長繁が弟を信長に人質に差し出し、越前の守護として認めてもらおうとしているなんて話も広まったんです。
そもそも、一揆勢は織田方となった桂田の圧政に対して立ち上がったわけで、信長に頭を下げようとしている(らしい)長繁は裏切り者に等しいということになるわけですよ。
そのため、一揆側は長繁と関係を断絶してしまいました。
代わりに彼らが指導者として迎えたのは、加賀(石川県)の七里頼周(しちりよりちか)でした。
実は彼、当時信長としのぎを削っていた本願寺のスゴいお坊さん・顕如(けんにょ)に見込まれて一向一揆の指導者となった人物なんです。
彼が越前にやってきたことで、単なる民衆の一揆(この場合は土一揆/どいっき)が一向一揆となったのでした。
さて、一向一揆なんですが、これは当時石山本願寺(大阪府)を本拠地として戦国大名クラスの勢力を持っていた浄土真宗本願寺派による、支配権力に対する一揆でした。
信長が天下統一へ邁進する上で、最大の障壁となったのが、本願寺の全盛時代を築いた顕如だったんですね。
顕如:Wikipediaより引用
何せ、あの信長を約10年も苦しめたくらいですから、その強さは察することができるかと思います。
加賀や越前、長島(三重県桑名市)で起きた一向一揆は、信長が全軍を投入するほど大規模だったんですよ。
まさかの展開:味方に命を奪われる
とまあこんなふうに、一向一揆が長繁に向かってきたわけですが、その数がハンパありません。
14万ですよ。
越前の各地で反長繁の挙兵が相次ぎ、こんなことになってしまったんです。
この大軍に包囲されたら、本来ならひとたまりもないんですが、そこは長繁。
何と、700人余りで包囲網を突破し、逃げおおせたんです。
こういうところはやっぱり、武将としての才能があるんだなと思いますよね。
態勢を立てなおすため、長繁は多くの褒賞をちらつかせて豪族などを懐柔したり、一向宗と対立する別の宗派を引き入れたりして、一度は七里率いる一向一揆勢を蹴散らしたんです。
兵を率いれば、やっぱり彼は強いんですよね…。
ただ、案の定と言いますか、彼はどうも勝つと暴走する癖があるようで。
一揆勢との戦いで、傍観に徹し加勢もしてこなかった旧朝倉家臣たちの陣に、突撃したんです。
この時の勢いも尋常でなく、このままでいけば相手を壊滅させようかというところだったのですが、彼は失念していました。
元気なのは自分だけで、兵たちはすでに一揆勢との戦いで疲労困憊し、戦いに倦んでいたことを。
突撃命令を下し敵陣に突っ込もうとする彼の背に、それに続くはずのひとりの兵が銃を向けました。
次の瞬間、放たれた銃弾は長繁を貫き、彼は落馬し地面に倒れ伏しました。
享年24。
戦場で暴れまくった若き猛将の最期にしては、とてもあっけないものでした。
まとめ
- 朝倉家臣だったが、織田信長に鞍替えした
- 恩賞の差に不満を抱き、桂田長俊に殺意を抱く
- 桂田を討ち一揆の総大将となるが、暴走し人心を失う
- 長繁を見捨てた一揆が一向一揆にパワーアップし、彼を狙った
- 猛攻を見せ一時は形勢逆転するも、味方に命を奪われた
戦に送り出しておけば、いつも相当の働きをした人物でした。
だからこそ、年を重ねて色々な経験を積めば、もうちょっといい武将になったような気もするんですよね。
何だかもったいない…と思ってしまいました。
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