滝川一益 無頼の人がいつしか茶の湯の人に?

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この方イマイチ一般的知名度に欠けるのですが、信長配下の代表的武将です。

最後には関東方面司令官の地位にまで上り詰めたのですから。今日はそんなお話を。

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不義密通

この方の名前は「いちます」とも「かずます」とも伝わっていますが、今回は「かずます」を取ります。

 

でこの一益さん、いきなり不義密通は穏やかじゃありませんが、若い時に叔父さんの側室を寝取った疑いが有るのです。

河内の国高安(たかやす)の叔父、庄司紀美作貞広(しょうじきみさかさだひろ)の屋敷に居候して居た時、側室お美代にちょっかいを出し現場を押さえられます。

 

叔父さんにすればまさに飼い犬に手を噛まれたようなもの。

「おのれ不義者」と切りかかる叔父貞広を返り討ちにし、そのまま出奔。

その足で、南蛮貿易で栄えていた泉州堺の町に潜り込みます。

その頃堺では、十数年前に種子島に伝わった鉄砲を早くも工業化し、量産体制を取っていました。

一益はここで“鉄砲又”と異名を取る橘屋又三郎の家に住み込み、3年間みっちりと、鉄砲の製造法や射ち方を学びます。

この知識・技術が後に彼を助けることになりました。

 

信長様の面接試験

その後一益は、尾張の国清州城下の池田恒利(つねとし)の屋敷に現われます。

恒利は一益の父一勝(いちかつ)の弟で、池田家に養子に入っていたのです。

そして恒利の子恒興(つねおき)は信長の乳兄弟で、早くから織田家に仕えていました。

 

このころ乳兄弟の縁は結構重要視されていて、家督争いを繰り広げる血のつながった兄弟よりも、いっそ信頼がおける間柄でもありました。

その縁を頼って織田家への仕官を試みた一益、信長直々の面接試験を受けることになります。

 

その試験と言うのが、二十五間(約45m)ほど離れた一尺(約30cm)四方の的めがけて、火縄銃を100発射つと言うもの。

何挺かの鉄砲を交互に使ったとしても、100発射つのには結構時間がかかったと思われますが、ともかく72発を的に命中させました。

結構な命中率です。

 

この腕前を見て、戦いでの銃の威力をいち早く理解していた信長は、即座に一益を召し抱えます。

ここで堺での3年間が役に立ちました。

一益は若い頃の事が今一つはっきりしておらず、甲賀出身の忍者であったとも、ただの博打打ちであったとも言われていますし、叔父殺しの前科もあります。

しかし「使える奴を使う」主義の信長は、そんなことなど気にもしませんでした。

こうして一益は落ち着きどころを得ます。

 

ところで例の密通相手のお美代さん、一益が出奔する時に

「そなたの事は忘れぬ、命あらばまた会おう」

と言い置いていたのですが、どこで話を聞きつけたのか、清州まで一益を訪ねて来ます。

一益も

「わしゃお前など知らん」

と追い返さず、喜んで迎え入れ、於美代と改名させ正式の妻とします。

このあたり男としてきちんと責任を取りました。いいとこありますね。

 

勝家、秀吉とも同僚

滝川一益:Wikipediaより引用

その後一益は順調に出世して行きます。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、すでに部隊を率いて先鋒を努め、手柄を上げています。

鉄砲隊を率いたのでしょうか。

 

いつしか信長の傍らにも侍るようになりました。

天下を狙う信長は京へ上り、朝廷を押さえねばなりません。

その時に通る近江路で、伊勢方面からの軍勢に横腹を突かれてはたまりません。

まず伊勢を攻略して置かねば。

 

そう考えた一益は、信長に進言します。

「まず側面に当たる伊勢を征伐するのが、肝要かと存じます」

「儂も同じ事を考えておった」

「これは要らざることを申しました」

「よいよい、これと思うたことは何でも申すが良い。三人寄れば文殊の知恵、衆智を集めるこそ一軍の将ぞ」

信長様上機嫌。

 

一益は伊勢攻略でも先鋒を務めます。

この頃の信長家中には、木下藤吉郎秀吉や柴田権六勝家も居たわけで、当然一益とは顔見知り。

一益は小事に拘らぬ勝家には好意を抱き、小賢しく立ち回る秀吉には、疎ましさを感じていました。

この違いが、後年信長の後継者問題を巡って、大きな意味を持ってきます。

 

武田勝頼を自刃に追い込む

武田勝頼:Wikipediaより引用

天正10年(1582年)信長の甲州武田征伐に、総大将織田信忠を補佐する役で従軍した一益。

織田軍は大島城、高遠城、江尻城、深志城と順調に落として行きます。

追い詰められた勝頼は新府城(しんぷじょう)を自ら焼き払い、上州吾妻の小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼ろうとし、使いを送ります。

 

しかし待てど暮らせど信茂からの連絡は届かず、様子を見に行かせると、すでに織田方に寝返ったとの知らせ。

進退窮まった勝頼は、天目山(てんもくざん)麓の田野村に在った邸に逃げ込み、ここで自刃して果てます。

この屋敷を取り囲んでいたのが一益の一隊でした。

 

信長は陣を構えていた上諏訪の法華寺で、一益の手勢が勝頼を追い詰めたことを聞き、一益を寺に呼び出します。

「五十を超えてもなお役に立つ男よのぅ」

と頼もし気につぶやき、恩賞に欲しいものを申せとのありがたいお言葉。

一益は信長秘蔵の“珠光小茄子(じゅこうこなす)の茶入”を所望しますが、信長の返事は

「まだ隠居して茶事を楽しむ歳でも有るまい」

代わりに与えられたのは、上野の国(群馬県)一国と信濃の国(長野県)二郡でした。

 

この時一益の望んだ“珠光小茄子の茶入”とは、信長が所有していた名高い銘物茶器ですが、信長はただの焼き物に、特別の価値を持たせました。

彼は茶会を意識的に、政治上の意味合いを持つ会合にまで引き上げたのですが、信長から銘物茶器を拝領すると言うことは、その茶会を主宰して良いとのお墨付きを得たことになるのです。

まだ信長家臣団の中での高い地位、別格の待遇を受けている証でもありました。

 

この信長のやり方は、手柄を立てた家臣に与える領地不足に悩んでいた他の大名たちの、見習う所となります。

 

一益晴れ姿

これに伴って「関東八州の御警固」「東国の御取次」を命じられます。

これは“関東管領”に匹敵する大役で、信長も

「今は亡き上杉謙信の跡を継ぐ要職ぞ」

と勿体ぶっています。

 

要職を拝命し上野厩橋(うまやばし)城に入った一益の元には、関東の大名たちがぞくぞく出仕して従属を申し入れます。

あの北条氏でさえ、意向に逆らおうとはしません。

奥州の伊達氏・蘆名氏までもが一益と文をやり取りし、身の安全を図ろうとしました。

 

信長は一益の関東入りに際し、名馬「海老鹿毛(えびかげ)」と短刀を下賜し、この馬に乗ってお国入りをするよう命じます。

織田家の宿老、北陸軍総大将柴田勝家と肩を並べる地位に就いた、一益一世一代の晴れ姿でした。

 

ちと、しんどい

滝川左近将監一益肖像(栗原信充、江戸後期の絵師の作):Wikipediaより引用

関東管領職も充分に値打ちが有ると思うのですが、一益の思いは少し違っていたようです。

勿論名誉なこと、出世の極みと喜ぶ心もありましたが、彼はこの時すでに58歳、当時としては老人と言ってよい年です。

 

関東を押さえねばならない職に就いて、まだまだ不穏な動きを見せる奥州諸侯の対応に追われるよりも、織田家の重要な家臣と認められて、穏やかに茶の湯を楽しめる日を送りたいのも本音でした。

京都宇治に住む三国一太郎五郎(みくにいちたろうごろう)と言う茶人に送った書状が残っています。

 

その中で一益は、

「存知より候はぬ地獄へ落ち候。宇治もいよいよ遠くなり候、茶も如何はかりがたく候(思いもよらぬ地獄へ落ちてしまいました。宇治の地も遠くなり、茶の湯もどのように楽しめばよいのやらわかりません)」

と書き送っています。

 

ちと大袈裟じゃないのと思いますが、本音も含まれていたのでしょう。

若いころのあの無頼な一益はもう居ませんでした。

 

本能寺の後で

本能寺の変:Wikipediaより引用

信長本能寺で討たれるの報を、一益は居城厩橋城で受け取りました。

その後の世の中の急変について行けなかった一益。

清州会議にも間に合わず、織田家中での地位が一気に急落します。

 

信長の後継者として三法師を押し立てる秀吉に対し、織田信孝、柴田勝家と共に戦端を開きますが、信孝、勝家共に敗れて自害。

一人残された一益は伊勢長島城に籠城して秀吉相手に戦いますが、所詮勝ち目も無く降伏、京都妙心寺で剃髪します。

 

その後秀吉に呼び戻され、小牧・長久手の戦いでは心ならずも秀吉側の武将として戦い、その事を悔いながら、天正14年(1586年)この世を去りました。享年62歳と伝わっています。

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