戦国時代ですから、生存競争は激烈ですよね。
下剋上も珍しくなくなりますから、家臣が主君に反旗を翻すのは少なからず起こることでした。
中でも、今回ご紹介する新発田重家(しばたしげいえ)は、主君・上杉景勝(うえすぎかげかつ)に反抗すること約7年間!
しかし、それにはちゃんとした理由がありました。聞いたら誰もが納得するはずのその理由を含めて、彼の生涯を追っていきましょう。
新発田氏ってどんな一族?
まずは、ちょっと珍しい「新発田」という名字を持つ一族について見ていきましょう。
新発田氏は越後(新潟県)の豪族です。国衆とも言いますね。
その中の「揚北衆(あがきたしゅう)佐々木党」の一員でした。佐々木氏は源氏の血を引く豪族です。
揚北衆は、阿賀野川(あがのがわ)の北岸地域を領地としていたため、「阿賀北衆」とも呼ばれました。
鎌倉時代からずっとこの地を根城にしていたため、彼らは支配意識が非常に強かったそうです。
そのため、室町幕府時代に派遣されてきた守護の上杉氏や守護代の長尾氏に対しても独立心が強く、完全服従とは行かなかったようです。時には対立することもありました。
そんな、上杉氏とは微妙な関係の家・新発田氏に、重家は誕生したんです。
生まれは新発田氏、しかし養子へ
重家が生まれたのは天文6(1547)年のこと。豊臣秀吉や足利義昭が同い年になりますね。
父は新発田綱貞(しばたつなさだ)、この時はすでに上杉謙信に仕えていました。
重家には兄・長敦(ながあつ)がいたため、彼は新発田一族でもある五十公野(いじみの)氏に養子入りすることになりました。
ここで元服して家督を継ぎ、「五十公野治長(いじみのはるなが)」と名乗るようになります。
ややこしくなってしまうので、この記事では「重家」で統一していきますね。
重家は、若い頃から武勇の人として知られていたようです。
父や兄と共に上杉謙信に仕え、謙信の関東遠征や川中島の戦いにも参戦しました。
特に、関東遠征時の小田原城攻めの時には、撤退戦でいちばん危険なしんがりを自ら申し出てしっかりと役目を果たし、敵味方から高く評価されたんですよ。

故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」:Wikipediaより引用
川中島の戦いでも、兄・長敦と共に戦功を挙げ、この時の新発田衆の戦いぶりは目覚ましいものだったそうです。
まだ15,6歳だというのに、なかなかやるものですね。
謙信の急死と御館の乱

上杉謙信:Wikipediaより引用
しかし、上杉家に風雲急を告げる事態が発生します。
天正6(1578)年、謙信が突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったんです。
謙信には実子がなく、2人の養子が後継者候補でした。

上杉景勝:Wikipediaより引用
ひとりが景勝、謙信の姉の息子に当たります。
もうひとりが景虎(かげとら)で、こちらは北条氏康(ほうじょううじやす)の息子でした。
しかしどちらが継ぐかを謙信が決めないまま逝ってしまったため、当然、家督争いが起こったわけです。
家臣たちも景勝派と景虎派に分かれ、越後を二分する大騒動となりました。
これが「御館(おたて)の乱」です。
重家はどうしたのかというと、上杉家臣の安田顕元(やすだあきもと)に誘われ、兄・長敦と共に景勝側に付きました。
ここで、新発田・五十公野兄弟は大きな働きをすることになるんです。

武田勝頼:Wikipediaより引用
兄・長敦は元々外交手腕に長けた人物だったようで、乱に伴い景虎救援と称して援軍を出してきた甲斐の武田勝頼(たけだかつより)をうまくなだめ、景勝側との講和をまとめ上げたんです。
これは乱の終結にもかなり大きな意味を持ちました。
また、重家は自慢の武勇により、同族でありながら景虎側についた加地秀綱(かじひでつな)を降し、どさくさまぎれに介入してきた東北の蘆名盛氏(あしなもりうじ)や伊達輝宗(だててるむね)らを退けるという功績を挙げました。
そして、乱は景勝側の勝利に終わったんです。
なぜだ!? こんなに頑張ったのに…
このように、御館の乱において新発田勢の活躍は群を抜いていたわけで、当然、重家や兄たちは論功行賞(いわゆる「ほうび」)に期待を持っていました。
ところが、ふたを開けてみれば、予想外の結果が新発田勢を待っていたんです。
メインのほうびは景勝子飼いの家臣たちにばかり行ってしまい、最大の功労者とも言うべき重家の兄・長敦の働きに対しての褒賞はほとんどなく、重家に至っては新発田氏の家督を継ぐ権利を保障されたのみでした。
「あれだけ頑張ったのに、こんな評価しかされないのか…!!」
と重家は愕然としたに違いありません。
それから間もなく、兄・長敦は病没してしまいました。
失意の思いもあったかもしれませんね。また、2人を景勝側へ引き入れた安田顕元は、景勝と2人の間に立ち何とか関係を修復しようと奔走しましたが、不発に終わり、重家への謝罪として自刃してしまったんですよ。
重家の心中、いかばかりだったでしょうか。
これが天正8(1580)年のことでした。
そして、重家は兄の跡を継ぎ、五十公野治長から正式に「新発田重家」となったのです。
募る不満と乱の始まり
兄や安田の死、軽んじられる新発田一門…主君・上杉景勝に対する重家の不満は、日を追うごとに大きくなっていきました。
元々、独立意識の強かった揚北衆の一員ですから、そんなプライドも重家の心中にはあったかもしれません。
そして、この状況を見逃さなかったのが、御館の乱でも介入してきた蘆名・伊達両氏でした。
もちろん、これは景勝側には内緒です。
このような密かなバックアップを得た重家は、一門や御館の乱で景虎派に属した人々を味方に付けると、新潟城を建設してほぼ独立状態となったんです。
加えて、武田氏を滅ぼし、次は上杉征伐と意気込む織田信長ともつながり、ここに新発田重家の乱が勃発することとなったのでした。

こうして挙兵した重家は、景勝方の城に攻勢をかけ、幾度も勝利を収めます。
その一方で、織田側の兵は西や南から上杉領に攻め込み、景勝の本拠地・春日山城にまで迫ったんです。
利害の一致した重家と織田軍は、いまや景勝の命さえ脅かし、あと一歩のところまで来ていました。
ところが、それを覆す事件が発生してしまいます。
時は天正10(1582)年6月、本能寺の変が起きたのでした…。
信長の死と秀吉の登場
信長の突然の死により、重家や景勝を取り巻く状況が動き始めます。
織田軍が撤兵してしまったんですね。
しかしそれでも、重家が戦いを止める理由にはなりませんでした。
彼にとっては、信長の死なんて自分たちの戦にはどうでもいいこと。新発田のプライドを見せつける戦いは、まだまだ続いたのでした。
天正11(1583)年の2度の大きな戦では、重家は景勝側の軍を大いに破り、あと一歩でその首を取るところにまで追いつめました。
この時に多くの景勝派の武将も討ち取り、新発田勢の意気は挙がる一方だったんです。
一時は、越中(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)と結び、景勝を挟み撃ちにする勢いでした。
しかし、ここでその勢いを阻む存在がクローズアップされます。

天正14(1586)年、景勝は豊臣秀吉に臣従を誓い、その後ろ盾を得たのでした。
つまり、重家は景勝の主・秀吉に反抗する謀反人ということになってしまったんです。
一応、秀吉は重家と景勝の間を取り持とうとはしたようなんですが、この2人が相入れるはずもなかったんですね…。
そして天正15(1587)年、景勝の1万の軍が新発田城を包囲しました。
重家は使者としてやって来た親交ある僧の説得も拒絶し、最後の戦いに挑んだのです。
五十公野城はすでに落城し、重家に残されたのは新発田城のみでした。
もはや勝ち目などありませんが、ここで降伏するなんて、重家には考えられなかったことでしょう。
最後のプライドを見せてやろう…そう思ったのでしょうね。
重家は家臣と最後の酒宴を催した後、打って出ました。
一隊を率いた重家は、義理の弟ながらも敵となった色部長真(いろべながざね)の陣で思う存分刀を振るい、多くの敵兵を斬り殺した後、
「親戚の誼で、我が首をくれてやろう!」
とその場で十字に腹を切って果てたのです。享年41。
これで、足掛け7年に及ぶ新発田重家の乱はついに終わりを告げたのでした。
まとめ
- 新発田氏は越後の揚北衆の一員で、独立色が強かった
- 重家は五十公野氏に養子に入り、「五十公野治長」と名乗っていた
- 主・上杉謙信の死後起きたお家騒動「御館の乱」で手柄を立てた
- 戦功あったにもかかわらず冷遇され、不満を募らせた
- 周辺諸将と結び、乱を起こした
- 一時は景勝を追いつめるほどだったが、やがて追い詰められ自害した
自分の献身が評価されなかった時の彼の心中は、「愕然」一色だったでしょうね。
やっぱり、主を恨んでも仕方なかったと思いますよ…。
そもそも何故景勝さんがこんなにも新発田家を冷遇したのか、その原因を知りたいですね。
昔、新発田家の人にいじめられてたのかな?