「鮭様」の部下は名字も鮭!?ホームレス大名・鮭延秀綱が結んだ姉妹都市の絆

Pocket

出羽(山形県・秋田県)の戦国大名・最上義光(もがみよしあき)は、親しみを込めて「鮭様」と呼ばれることがあるんですが、何と彼の部下に「鮭」の字を持つ人物がいたことをご存知でしょうか?彼の名は鮭延秀綱(さけのべひでつな)。産卵期に川を上ってくる鮭のように、力強く、そして苦労多き人生を送った男でした。その足跡を追ってみたいと思います。

スポンサーリンク

本当は「佐々木」さんです

出羽の戦国武将・佐々木貞綱(ささきさだつな)の息子として生まれた秀綱。永禄6(1563)年生まれとも言われていますが、はっきりとはしていません。

 

武家というものは、たいてい、元をたどれば源氏か平氏に行きつくんですが(箔をつけるために自分で勝手に決めてることもあります)、この佐々木氏はちゃんとした源氏の流れを汲む一族です。

源姓は、天皇の子供が臣籍降下したときに名乗るものです。簡単に言うと、源氏物語の主人公・光源氏の姓が源姓ですよね。あれです。

で、佐々木氏は平安時代の宇多天皇の第8皇子・敦実親王(あつざねしんのう)の系列なんですよ。

 

そして、敦実親王の子孫、つまり秀綱のご先祖が出羽に下って佐々木氏となったようですよ。

 

ちなみに、宇多天皇は大の猫好きで知られていました。その子孫の名字が後にお魚関連の「鮭延」になるとは、ちょっと面白いですよね。

 

佐々木から鮭延になる

佐々木氏は、この地では小野寺氏の家臣として仕えていたようです。

しかし、秀綱の父・貞綱が大宝寺義増(だいほうじよします)との戦に敗れてしまい、秀綱は大宝寺の捕虜となってしまい、後に小姓としてそこに仕えています。

この時が永禄6(1564)年と言われているので、これだと秀綱は生まれたての赤ん坊ということになってしまうんですよね。もしかすると、もう少し前に生まれていたんじゃないのかな…なんて考えましたよ。

 

大宝寺に敗れた貞綱は、鮭延城(山形県最上郡真室川町/まむろがわまち)に退きました。この地名を取って、佐々木から鮭延に姓を変えたと言われています。しかも目の前に流れる川は鮭川(最上川の支流)。鮭だらけのリスタートとなりました。

そして、いつなのか時期は特定できませんが、大宝寺氏から帰還できた秀綱が家督を継いで鮭延城主となります。

 

最上義光とそのあだ名「鮭様」をあらかじめ知っていると、もう運命としか思えません。

 

鮭様の調略に、あっさり降伏

最上義光は、東北地方でくすぶっていた最上氏を、最終的には57万4千石の大大名にまで押し上げた有能な人物。特に長けていたのが、相手の心理を読み権謀術数を巡らす「調略(ちょうりゃく)」でした。

 

その義光が、天正9(1580)年に鮭延領へと侵攻してきます。もちろん秀綱は抵抗を見せましたが、義光の調略が炸裂して結果的には彼の支配下に入ることとなりました。

繰り返しますが、秀綱の名字が鮭延だったからとか、鮭川が流れていたからとか、そういうわけで侵攻したんじゃありませんよ。最上氏の近辺に鮭延領があったからですよ。

 

義光の支配下では、秀綱は元々の領地を取り上げられることもなく、そこの統治を任されました(本領安堵と言います)。そして、旧主・小野寺氏と最上氏の交渉面や戦の際に力を発揮し、あっという間に最上家の重臣クラスに取り立てられました。

 

義光も小野寺氏をどうにかしたいという期待のもとに秀綱を引き入れたので、彼は上司の期待に100%応えたわけです。秀綱、部下として最高の働きをしてますよね。ホント、えらいと思いますよ。私には無理です。

 

「北の関ヶ原」慶長出羽合戦

慶長出羽合戦(退却する直江兼続を追撃する最上義光):Wikipediaより引用

秀綱や義光のいる東北地方では、東北地方の武将同士の争いがいつになってもずるずると尾を引いていました。しかし、はるか西方では、天下人・豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康がついに動き出していたんですよ。

家康が会津(福島県西部)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を打倒するために関東へ向かいます。東北の諸将、もちろん秀綱の主・義光にも打倒上杉の号令が下りました。

しかし家康が大坂を留守にすると、その隙を狙って対立していた石田三成が挙兵したんです。このため、家康は上杉どころではなくなり、関東から軍を再び転進し、関ヶ原へ向かってしまったんですね。そして関ヶ原の戦いに突入するわけです。

 

しかし、困ったのが、「上杉のことはよろしく」と任されてしまった東北の武将たち。国に戻ってしまう者もいましたし、伊達政宗などはこっそり上杉と講和してしまい、上杉と対決するのは最上だけになってしまったんですよ。ひどくないですか、これって?

 

それでも、義光は自分の兵(約3千)だけで上杉景勝の大軍(約2万~2万5千)と対決することを決断しました。これが、北の関ヶ原とも呼ばれる慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)なんです。

スポンサーリンク

長谷堂城にて、秀綱獅子奮迅の活躍!!

慶長出羽合戦(長谷堂城を攻撃する直江兼続):Wikipediaより引用

各地で最上勢は善戦したのですが、やはり数にはなかなか勝てません。押され気味となり、ついには重要拠点の長谷堂城(はせどうじょう/山形県山形市)に迫られてしまい、大ピンチに陥りました。

 

ここは最上家の重臣・志村光安(しむらあきやす)が守っていたのですが、その数はたった千人。対する上杉軍は、大将が上杉景勝の右腕にしてあの名軍師・直江兼続(なおえかねつぐ)率いる1万8千です。勝てるわけないです。

 

そこに、義光の命で秀綱が駆けつけました。

この時の秀綱の戦いぶりの凄まじさは語り草となっています。まさに獅子奮迅の戦いぶりを見せ、わずかな兵で上杉方の本陣にまで迫り、250もの首を取って帰ったというんですよ。

 

その勇猛果敢さに、敵将の兼続も感服。

「鮭延が武勇、信玄(武田)・謙信(上杉)にも覚え無し」とまで言わしめたんです。つまり、「鮭延の武勇は、武田信玄や上杉謙信にも匹敵する」ってこと。

 

一方の関ヶ原本戦では、家康率いる東軍に三成方の西軍が敗れたため、その知らせを聞いた西軍に属する上杉方もまた、兵を退くこととなったのでした。

長谷堂城は秀綱の活躍によって、守られたんです。いやー、よくやった!

 

そして、秀綱の大事な主・鮭様こと最上義光は、この功績によって出羽山形57万4千石という大大名にランクアップしたんですよ。加えて、秀綱にも鮭延城と1万1500石が与えられ、彼自身も大名クラスに出世したんです。1万石あれば大名と言われた時代ですから、頑張って良かったね、ホントに…!

 

 

秀綱を庇って討死した部下の話

ところで、この長谷堂城の戦いでは、秀綱を庇って討死を遂げた部下がいました。

 

彼は義光の侍女に一目惚れし、ラブレターを送ってひそかに恋仲になったんです。

しかし、主の主・義光の侍女ということはつまり義光のモノということでもあります。そんな女性を通じるなんて、当時はとんでもないことでした。

当然、それを知った義光は激怒し、2人に死罪を命じたんです。

しかしそれを止めたのが秀綱でした。その上、2人を夫婦にしてやって欲しいと義光に頼み、それが実現したんですよ。

 

そして、その部下は秀綱に恩返ししたんですね。秀綱を庇って討死という、名誉でありながらも悲劇でしたが…。妻となった例の侍女もまた、夫の後を追って自害したんだそうです。

 

この話を聞いた義光もまた涙し(基本的に人情家なので)、2人を手厚く弔いました。

 

義光には秀綱という良い部下がいましたが、秀綱にもまたそんな素晴らしい部下がいたんですね。良い人材は良い上司の元に集まるものですよ。

 

最上騒動で最上家大分裂…

義光の後継ぎは三男の家親(いえちか)でしたが、家督を継いでからそれほど時を置かず、元和2(1617)年に36歳の若さで急死してしまいます。その後継ぎはまだ13歳の義俊(よしとし)でした。

 

となると、まだ義俊では若すぎるという家臣たちと、義俊を推す家臣たちとで対立が怒ります。

反義俊派は、義光の四男・山野辺義忠(やまのべよしただ)こそ最上家の後継ぎにふさわしいとし、義俊は若いのに酒や女に溺れていると主張したんです。秀綱はこちらの側、山野辺義忠側に付きました。

 

一方の義俊派は、父・家親が急死したのは、山野辺義忠による毒殺だとして幕府に訴え出たんです。

 

最上家内が分裂・対立し、どう見ても立派なお家騒動に発展してしまいました。

 

その結果、幕府が下した裁定は、最上家にとっても秀綱にとっても最悪と言っていいものだったんです。

最上家は改易(今までの所領を没収)となり、近江大森(滋賀県東近江市)1万石に格下げとなってしまいました。それまでが57万4千石ですから、いかに厳しい処置だったかわかりますよね。

そして、山野辺派の中心にいた秀綱は、幕府老中・土井利勝(どいとしかつ)家に身柄を預けられてしまったんです。もちろん領地も没収、何も残りませんでした。

 

故郷・出羽から遠く離れた古河での最期

その後、土井家に仕えるようになった秀綱は、5千石を与えられました。しかし、これをすべて出羽時代から付いてきてくれた家臣たちに分け与えてしまい、自分は無一文になったんだそうです。そして屋敷も持たず、家臣の家々を1日置きに転々として暮らしたとか…。これじゃまるでホームレスじゃないですか。

 

5千石もらえるって、家臣とすればけっこういい待遇なんですよ。でもそれを部下にあげちゃうなんて…人が良すぎます、秀綱。そして、秀綱を受け入れた家臣たちもまた、なんていい部下なんでしょう。

 

寛永10(1644)年には、土井家が佐倉(千葉県佐倉市)から古河(茨城県古河市)に領地替えとなったため、秀綱も共に古河へ移ります。それから2年後、そこで秀綱は亡くなりました。おそらく80歳を超えていたでしょう。

 

家臣たちは秀綱の菩提を弔うため、古河に寺を建立しました。

その名も「鮭延寺(けいえんじ)」。まさに鮭延秀綱のための寺ですね。

 

そして現在、秀綱の故郷・山形県真室川町と古河市は、彼を通じて姉妹都市となっています。400年近くの時を超えて結ばれているとは、きっと秀綱もあの世で喜んでいるでしょうね。最後までなんていい話なんでしょう…!

 

まとめ

  1. 本姓は「佐々木」、源氏の流れを汲む血筋の出身
  2. 鮭延という地名を取って「鮭延」姓を名乗るようになった
  3. 最上義光の家臣として、重臣クラスに出世
  4. 慶長出羽合戦で上杉軍と戦うことになった
  5. 長谷堂城の戦いでは獅子奮迅の大活躍
  6. 秀綱の恩を忘れず、彼を庇って討死した部下がいた
  7. 最上騒動により改易される
  8. 晩年は家臣の家を転々として暮らした

 

結果としては地位も名誉も失いましたが、支えてくれる部下がいたのは、やはり秀綱が良い上司だったからなのでしょうね。

 

栄光も挫折も知り尽くした秀綱の人生、どこか私たちの胸に響くものがありませんか?

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です