「マムシ」の息子・斎藤義龍、不徳とわかっていても父を殺さざるを得なかった苦悩

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「美濃のマムシ」と呼ばれ恐れられた「ザ・下剋上」の戦国武将・斎藤道三(さいとうどうさん)。

しかしその最期は、息子に討たれるという悲惨なものでした。

その息子の名は斎藤義龍(さいとうよしたつ)。

2m近くの威風堂々たる体躯を持ったこの男は、

「自らの不徳によるもの」

と父を殺したことを嘆きました。

さて、彼の人生はどんなものだったのか…ゆっくりご紹介したいと思います。

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出生の謎

大永7(1527)年、義龍は斎藤道三の長男として誕生しました。

当時の道三はまだ名を利政(としまさ)と言い、美濃(岐阜県)の守護である土岐頼芸(ときよりなり)に仕え、虎視眈々と国盗り(くにとり)を狙っていた頃ですね。

そして、頼芸の愛妾だった深芳野(みよしの)を頼芸から下賜された直後だったんです。

 

義龍の出生について憶測が飛んだのはこのためです。

道三に下げ渡された時、深芳野はすでに頼芸の子を懐妊しており、ほどなくして生まれた義龍は頼芸の子ではないかという疑惑が生まれたんですよ。

 

このせいで、後に義龍が道三を討ったのは、実父を追放したことを恨んでのことだったとか、道三もまた義龍が自分の子でないとして憎んでいたとか…そんな話もあるんですね。

 

とは言っても、これはほぼ眉唾な話なので信憑性に乏しいというのがホントのところです。

でも、ちょっと憶測を巡らせたくなりますね。

 

父・道三の国盗り物語

斎藤道三:Wikipediaより引用

義龍の父・斎藤道三は、下剋上で美濃を奪取したと言われていますが、最近では道三とその父の2代にわたっての国盗り物語だったのではないかという説が有力になっています。

 

小坊主から油売りへ、そして商売の腕を見込まれて出世した義龍の祖父は、その地盤を道三に受け継ぎ、そこから道三は主の主である美濃の守護・土岐家へと徐々に食い込んで行き、ついには主をも蹴落として美濃一国を手に入れたのでした。

 

そんな道三でしたが、息子の義龍を見る目はどうも違っていたようです。

美濃のマムシと恐れられた男が、なぜそこまで息子を毛嫌いしたのか…それこそ、出生の謎が関係しているのかとまで疑ってしまいますが、やがて父子の確執はどんどん大きくなっていったのでした。

 

父との確執

 

天文23(1554)年、道三の隠居により義龍は家督を継ぎます。

義龍は身長6尺5寸(約197㎝)の堂々たる大男で、威風堂々とした姿だっただろうと推測します。

彼こそ、美濃のマムシの跡を継いでやがては美濃から勢力を拡大していくにふさわしい武将だと誰もが思ったはず。

 

しかし、そんな息子に対して、道三はどこまでも冷たい態度を取りました。

なぜか道三は義龍の弟たちを溺愛し、義龍を「おいぼれ」呼ばわりしたんです。

そして、可愛がっている息子の孫四郎(まごしろう)を「利口者」と呼び、やがては家督を譲ろうとまで考えるようになったとか。

孫四郎の弟・喜平次(きへいじ)のことも可愛がり、名門の一色(いっしき)氏の姓を名乗らせるようになりました。

 

そんな風に父に偏愛されれば、弟たちが「次は自分に家督が回ってくるのでは」と思うのは当然のこと。

彼らはだんだんと大きな態度を取るようになり、兄の義龍を侮るようになったと言われています。

 

加えて、道三は美濃を奪取したものの内政にあまり力を入れていなかったとも言われており、家中の不満が溜まり始めているところでした。

 

このままでは自分が排除されるかもしれない、そして美濃自体もまた混乱に陥ってしまうかもしれない…。

そう思った義龍は、ついに決断を下したのでした。

 

弟たちの暗殺、そして父との戦いへ

弘治元(1555)年、義龍は重臣たちと謀り、弟たちを居城の稲葉山(いなばやま)城に呼び出します。

「自分は病気で死を待つのみなので、会って一言申し上げたい」

と口実を設けてのことでした。

そしてやって来た弟らに酒を飲ませ、彼らが存分に酔ったところを家臣たちが殺害したんです。

 

この報せを聞いた道三は逃亡し、別の城へと移りました。

これが冬のことで、翌年になり雪解けが進むと、父子はついに戦火を交えることとなります。

 

義龍と道三、それぞれが率いる軍は、長良川(ながらがわ)を挟んで対峙します。

これが「長良川の戦い」です。

マムシと呼ばれる道三の手腕なら、義龍を圧倒するんじゃないかと思う方もいらっしゃるかと思います。

しかし、両者の率いる兵の数は、圧倒的な差がありました。

義龍軍17,500に対して、道三軍はたったの2,700余り。

 

どうしてこれほどの差がついたのかと言うと、それは道三の行った国盗りの経緯が理由だったんですよ。

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やむなく父を討つも…「我が身の不徳」と

道三は最初に仕えた主を謀殺したとも言われていましたし、そして土岐頼芸を追放して国を乗っ取った男。

実は、美濃にはまだまだ土岐家へ心を寄せる勢力が多かったんですね。

そのため、道三に味方するくらいなら義龍の方がいいという者が大勢いたんです。

また、道三が美濃を奪ってからというもの、反攻する勢力に手を焼き、平定にかなり苛烈な手を使っていたということがありました。そのためやはり反発が大きかったんですよ。

 

こうして起こった長良川の戦いは、最初は道三方が押し気味でした。

しかし、先手がやられたと見るや、義龍は自ら果敢に川を渡り味方をまとめます。

こうした戦いぶりに、道三はかつて息子を「無能」と評したことを後悔したといいます。

 

兵力差はいかんともしがたく、やがて戦いは義龍側の大勝利に終わりました。

道三の娘婿である織田信長は援軍を差し向けていましたが、間に合いませんでした。

 

そして、道三は討ち取られ、その首が義龍の前に運ばれてきました。

 

その首を前にした義龍は、

「我が身の不徳から出た罪だ(どんな理由にせよ親を殺してしまった)」

と言い、出家を宣言します。

そして父の首を手厚く葬りました。

 

この頃から、彼が「范可(はんか)」と名乗ったとされています。

范可とは、中国においてやむなく父を殺してしまった者の名前とされていますが、この故事に関しての詳細は不明です。

そして、義龍がこの名を名乗るようになったのは道三の死の前からという説もあるので、実際の「范可」の由来は不明のままです。

 

勢力拡大へと乗り出す途上での死

斎藤義龍:Wikipediaより引用

父を討ち、美濃の主となった義龍は、父がこれまであまり顧みることのなかった内政に本腰を入れました。

不安定な国内情勢を収拾するため、所領問題を解決し、合議制を導入して風通しの良い政治ができるようにしたのです。

 

その力は将軍・足利義輝(あしかがよしてる)にも認められ、相伴衆(しょうばんしゅう)の地位も得ます。

相伴衆とは、本来管領やクラスの高い守護大名しかなれない役割で、将軍の行幸などの際にお供をするものでした。

 

この一方で勢力拡大を図り、南近江(滋賀県南部)の六角氏と同盟して北近江(滋賀県北部)の浅井氏と戦っています。

また、織田信長と仲の悪い織田の別家と手を組み、信長を牽制しました。

 

しかし、突然の死が訪れます。

永禄4(1561)年、義龍は35歳の若さで急死してしまったのです。

詳細は不明ですが、誰も予想しなかった出来事と考えていいでしょう。

 

その後、義龍の跡を継いだ息子の龍興(たつおき)は、あまり有能と言える将ではなく、織田信長の侵攻を許して国を追われ、保護された朝倉家と信長との間で起きた戦で命を落としています。

もし、義龍が生きていたら、斎藤家の行く末は多少なりとも違ったものになったのではないでしょうか。

 

まとめ

  1. 出生について憶測がある
  2. 父・斎藤道三は下剋上を果たした人物だった
  3. 父とはなぜか確執があり、嫌われた
  4. 自分の身を守るため、弟たちを殺害し、父と戦う決断をした
  5. 父を討ち取ると「自分の不徳」だと出家を宣言した
  6. 勢力拡大への途中、急死した

 

どうして道三がそこまで義龍を嫌ったのかがわかりませんよね。

父や弟を殺すことになってしまいましたが、それもまた戦国時代にはやむを得ないことだったのだと思います。

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