93歳で関が原に出陣!?弓一筋で大名へ  戦国のレジェンド大島光義

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大島光義、通称雲八(うんぱち)。あまり聞き覚えのない名前かもしれませんが、戦国時代、弓の腕前で大名(美濃国関藩主)に出世した武将です。この光義の凄いところは、その弓の実力もさることながら、出世の糸口となった信長に仕えたのが還暦近くだったこと。以後は秀吉や家康にも仕え、93歳にて関ヶ原合戦にも従ったという超がつくほどの遅咲き武将。まさにアラカン以上の星ともいえる異彩を放つ存在です。現代の還暦以上の人にもまだまだこれからだ! という希望を与えてくれる弓の名手、大島光義をご紹介します。

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光義の弓伝説

弓の名手とうたわれた大島光義の実力はというと・・・。光義はある時、当時仕えていた豊臣秀次(秀吉の甥)から「八坂の塔の天井の小窓に弓を射こんでみせよ」と命じられます。

八坂の塔は法観寺の五重塔で京都のランドマーク。大名たちはこの塔に定紋入りの旗を立て、自らが支配者であることを誇示したともいわれています。その由緒ある寺に秀次は武威を示せと言うのです。

その塔の高さは約46メートル。光義が放った矢は鋭い音と共に一直線に小窓へ。なんと光義は10本の矢を放ち、10本とも命中させます。

驚いたことに光義はこのとき80代。

当時はその驚きの年齢と正確無比な弓の実力にて、仙人かはたまた超人か、「神ってる武将」と言われていたのではないでしょうか。

そんなレジェンド光義とはどのような人物だったのでしょう。

 

13歳で弓名人デビュー

大島光義が生まれたのは武田信玄や織田信長などが生まれるずっと前、1508年とされています。美濃国(岐阜県)の大島または山県郡の出身といわれ、1512年に父の光宗が山県合戦で戦死して孤児になってしまいました。

 

1500年代前半の美濃国は守護の土岐氏一族の内紛や実権を狙う長井、斉藤氏らの争い、国人の闘争など内乱続き。外に目を向ければ尾張の織田氏といった周辺の国々との戦いも熾烈を極めたザ・戦国時代の真っ只中でした。やがて斉藤道三が美濃を統一。そんな状況の中、光義は13歳の時には美濃国人との戦闘で敵を射殺して周囲を驚かせています。

さらに身を寄せていた縁者の大杉氏の屋敷に国人が押し入ってきた時には光義が弓で応戦。あっという間に敵2人を射殺し、続く敵勢を弓で退けました。

 

こうして鮮烈デビューを果たした光義。斉藤道三の重臣の長井道利に仕え、以降、「百発百中の妙をあらわす」と評された弓の腕前でもって名を馳せていきます。そんな光義の戦いをひも解いてみましょう。

 

ある時、光義は敵兵から新兵器の鉄砲で狙われます。絶体絶命のピンチ! ところが相手の銃口が火を噴くより早くビュン!と光義の矢がその敵に命中したのです。鉄砲より早いなんてまるでSF映画のよう。槍で突かれそうになった時には刹那、靱(うつぼ)から矢をさっと抜き出し敵を射殺しています。

 

敵兵が大木に隠れた時には、光義はその大木めがけて矢を放ちます。その矢は大木を貫き、隠れた敵兵の首にグサリ。矢が樹木を貫いて敵を仕留めるなんて、その正確さと強弓ぶりに一同びっくり・・・。敵兵たちも驚いたようで、樹木ごと首を切って矢を抜かず、光義の元に送り届けたそうです。

 

 

光義の仕えた道利は、道三とその子義龍が敵対した時、義龍側につきました。道利が道三の居城を攻めた時のこと。道利方の光義は、敵方が守る町の木戸を超えて町中にいる敵兵に向けて矢の雨を浴びせます。ビュンビュン的確に飛んでくる光義の凄まじい矢の雨に敵もなすすべなく城内へと逃げ込みました。

また、両軍が朝気堀で戦った時には光義は他所にいましたが、このことを知った光義は馬を馳せて敵を追いかけ、3騎を射落として首級を得ています。

 

若い頃の光義は縦横無尽、弓一本で鉄砲も槍も蹴散らす戦国のスーパーマン。光義の射芸は他国にも広く知られるようになり、隣国の信長の元にも届いていたようです。

 

織田信長のスカウト

長井氏が没落すると信長にスカウトされます。100貫文(または600貫文)の領地を与えられ、弓大将になりました。

若武者として期待・・・されたわけではなく、この頃の光義はすでに還暦近い年齢。引退がちらつくような年ながら、一流の武将から戦力としてスカウトされるとは、現代人からみてもうらやましいかぎりです。

 

一説によると、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が美濃・鵜沼城攻めに向かった時、すでに光義は信長に従っていたとも。この時、敵の急襲で藤吉郎が窮地に陥ります。それを知った秀吉の弟の秀長が駆けつけますが、そこには光義の姿も。この時光義は関鍛冶のきたえた大太刀をさんざん振りかざして、秀吉に殺到する敵を駆け散らして助け出したとされています。

おっと、光義は弓のみならず剣術にも長けていたようですね。

 

以降、信長の配下にあって光義の快進撃が始まりました。

信長が家康と共に浅井・朝倉連合軍に勝利した姉川合戦では、信長の命でさきがけをして敵を何人も射殺して味方の気勢をあげています。

1573年に越前の朝倉義景は近江の浅井氏の救援に出陣しますが、形勢不利と見て撤退しようとします。これを読んでいた信長は自ら馬を駆って敵を追撃。この時、光義は先陣となり、敵を射落としてその後の朝倉氏滅亡の突破口を開きます。この後も長篠の戦い、越前の一揆などでも戦功をあげていきました。

 

信長から与えられた名前

最前線に立って若者顔負けの戦いっぷり。光義の活躍には信長も感心したようです。

信長が朝倉勢らと戦った坂本合戦で、光義はおばなの穂の束ねたさしものをして戦いました。その縦横無尽の活躍を目にした信長は「その茅花の白くして往来すること白い雲をうがつような働きだ。以降雲八と称するように」と賞賛し雲八の名を与えたそうです。

そう、雲八の名前は信長から与えられたものだったのです。元は鵜八、あるいは宇八と称していたようですが、以降、雲八を名乗るようになりました。

弓の名手として活躍し続けたその原動力はどこにあったのか。それは弓術へのあくなき探求心にあったようです。というのもあるとき、斉藤家旧臣の武藤平弥兵衛と武芸を争いました。この平弥兵衛が「あなたは弓に名があり、私は槍で高名を得ました。その優劣つけがたし」というと、光義はなんと槍で勝負しようと槍術を学んだのです。槍術を学ぶことで弓術を深めたいという思いもあったようです。結果、3年間に槍の武功で4通の感状を得ることに。槍もかなり使いこなしたのでしょう。

しかし光義は槍術を知ることで、逆に「弓は衆に適するに利あり」と、次々と連射が可能で、敵の大勢を蹴散らすことができる弓の持つポテンシャルを見直したよう。弓一筋の生涯をまっとうしたいと決意を新たにしたのです。

 

 

秀吉の下で大名に

安土城の矢窓を切る奉行に任じられ、1582年には射芸による戦功として近江に100石を与えられました。

同年、本能寺の変が起こると、安土城にいた光義は美濃へ帰還します。その途中、一揆勢に襲撃されよもやのピンチに。ここでも光義は殺到してくる敵の大勢を見事射はらいます。こうして弓で窮地を脱して帰還しました。

 

信長も亡くなった以上、さすがに光義の活躍もここまでか・・・と思ったあなた、まだまだ甘い。出世していくのはじつはここからなのです。

 

やがて信長の重臣だった丹羽長秀に属した光義は賤ヶ岳の戦いにも参戦。この時、奮戦して戦後、8000石(または6000石)を与えられています。七本槍でさえ最高で5000石であることを考えれば、70代といえども光義の功績はかなりのものだったのでしょう。

そして秀吉にスカウトされ、弓手200人を率いる弓大将となり、摂津国に領地を与えられました。

 

 

小田原征伐にも従軍し、朝鮮出兵では弓手200人を率いて肥前の名護屋城に従います。1598年にはついに今までの戦功により尾張国と摂津国合わせて1万1200石の大名に!

こうして光義は弓の腕前にて大名にまで上り詰めたのです。

 

93歳で関ヶ原へ

関ヶ原の合戦:Wikipediaより引用

弓一筋を貫く光義はまだまだ引退しません。

秀吉も亡くなり、光義は1600年には93歳を迎えます。今度はその年で徳川家康の会津征伐に従い、天下分け目の関ヶ原合戦に従軍したとも。弓を引いたかどうかは戦場に赴くだけでもスゴイですよね。

いくらなんでも従軍していなかったのではないかという説もありますが、事実なら仙人の域に達したレジェンドといえます(笑)。

 

老骨をおして従った光義を家康も厚遇します。戦いの後、家康から真壺と大鷹を与えられました。さらに豊後国臼杵城主(大分県)に推挙されますが、光義は「願わくば本領の美濃国の関を賜りたい」と望み、美濃国の関と摂津国の一部で1万8000石へと加増されました。

 

晩年は家康に召し出され、射芸や戦功などの昔語りをしました。さらに家康が駿府城を普請した際には石垣、矢狭間についての意見を求められています。これは安土城で矢窓を切る奉行をしていたためその方面の知識も併せ持っていたからでしょう。

ようやく光義に穏やかな日々が訪れたようです。

 

信長、秀吉、家康の3英傑からその腕前を賞賛されて大名になった光義は、1604年97歳の大往生をとげました。

生涯53度の合戦にのぞみ、41通の感状をもらったと伝えられます。

 

 

光義は決してホップステップジャンプと一気に出世したわけではありません。若い頃に仕えた長井氏は没落。還暦近くになって表舞台に登場し、以降は主君を変えながらも着実に武功を重ねて一歩ずつ階段を上り大名の座をつかみとりました。13歳で戦場へと出て大名になるまで約80年。自らが定めた信念の道、弓術を愚直なまでに追い求め、生涯現役を貫いて成り上がった胆力には驚かされます。

いくつであろうと活躍の場を与えられれば、それに見事にこたえた光義。年を重ねてなお進化して賞賛される姿は現代の人から見てもあこがれるレジェンドといえそうです。

 

光義の死後、その遺領は4人の息子に分け与えられたため、関藩は4年で廃藩になりました。それは光義の遺言だったともいわれています。光義の功績は4人の息子たちに受け継がれていきました。

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