江戸初期、天下のご意見番として名を馳せた彦左こと大久保彦左衛門。
代々松平・徳川家に仕えた三河譜代の武士にて、忠義一徹で頑固なザ・武士のイメージですよね。しかしその忠義の裏にはあるふつふつとしたブラックな思いが!
彦左衛門が晩年に記した『三河物語』は、そんな彦左衛門の思いが込められた毒舌の書です。
現代にも通じる彦左衛門の悲哀と意地とは?
今回は型破りな言動と三河武士の意地を貫いた彦左をご紹介します。
大坂の陣で旗が倒れなかった

大久保彦左衛門:Wikipediaより引用
大久保彦左衛門といえば、将軍家光にも歯に衣着せずズハズバと諫言。魚屋の一心太助とともに強きをくじき弱気を助ける庶民のヒーローとして講談などで人気を博しました。まさに彦左カッコイイ~武勇伝の世界ですが、これはもちろん創作。
でも家光に諫言し、一本気な人物だったのは確かなよう。彦左衛門の一番の意地っ張りエピソードといえば大坂の陣の旗事件でしょう。

家康が豊臣家を滅亡させた大坂夏の陣。敵方の真田幸村が家康の本陣を急襲し、家康本陣の旗は倒され、旗本衆も逃げ惑い、家康自身も危機一髪になったことがありました。
後日、皆が家康の旗が倒れていたと話しますが、彦左衛門一人だけが「7本の旗が立っていた」と言い張ります。
それを聞いた家康に呼び出されました。

家康は「皆が旗は立っていないというが」と言うも、
彦左衛門は「いいえ旗は立っていました」と答えます。
「自分も見てないぞ」と家康。
「いいえ立っていました」。
家康が怒り「この強情もの」と脇差に手をかけても、「旗は立っていました!」。
他の家来が間に入ってその場はおさまりましたが、強情者彦左衛門の名が広がりました。
彦左衛門も旗が倒れたのは知っていました。
しかし旗が逃げたとなれば徳川家の不名誉として残ります。
たとえ自ら首をはねられようとも徳川家の名誉を守ってこそ譜代の家臣!との思いをもっていたのです。
うーん、これぞ忠義というか、単なる意地っ張りというか。この時彦左衛門は55歳の頃。チョイ悪オヤジならぬ頑固ジイ誕生ですね。これがのちの天下のご意見番のイメージにつながっていくのでしょう。
ツいてない大久保家
大久保彦左衛門は1560年、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った年に、代々松平家に仕える三河の大久保家に生まれました。

大久保忠世:Wikipediaより引用
彦左衛門は17歳の時、初陣を飾ると兄の忠世らの旗下として各地を転戦。高天神城攻めや第一次上田城の戦いで活躍します。
兄の忠世は関東の要となる小田原6万石の城主となり、彦左衛門も3000石が与えられました。次兄の忠左も駿河国沼津2万石を与えられるなど、大久保一族は順調に出世していきます。
ところが、結果的に彦左衛門および大久保家は地位と禄に恵まれませんでした。長兄の子大久保忠隣は本多正信らと対立し、大久保一族は改易になってしまいます。のちに彦左衛門は復帰したものの1000石(のち2000石)。おまけに次兄も跡継ぎがなく改易になってしまいました。
しかも社会の風潮も彦左衛門には逆風でした。家康が天下をとったとたん、誰もがこぞって家康になびき、家康を嫌いな外様大名も家康に取り入って何十万石の高禄をもらっています。ところが家康の天下取りのために身を粉にして働いた譜代の禄高は高くありません。
しかも徳川家内部でも本多忠勝や榊原康政といった家康の天下取りを支えた三河武士の武功派よりも官僚としての能力があり弁舌に優れた本多正信、正純父子などが重用されます。
先祖代々仕えて槍働きで命をかけて支えてきた戦国武士はリストラされ窓際族に。一方で外様、家康家臣の中でも弁舌の上手い官僚派が高禄をもらいもてはやされる。
くー。大久保家はこの不当な扱いのあおりを一番喰らっています。ついてねえ―と文句の一つもいいたくなりますよね。とはいえ大久保家は三河以来の譜代家臣なので、ここで不忠をなせば先祖の功績を無にすることにも。といってこのまま黙っているのは腹の虫がおさまらない!
三河物語誕生

大久保彦左衛門:Wikipediaより引用
ということで彦左衛門は晩年、自分の不満のはけ口を投稿、いえ子孫が不忠を働かないようにと徳川家への忠義を促す『三河物語』を執筆しました。これは大久保、徳川家の誇りと功績、武士の生き方を示した書です。
ただしその正体は・・・、後半部分はちょいちょい自虐を入れながら、徳川家への恨み節ぶっちゃけのオンパレード。
「譜代は良い時も悪い時も犬であって逃げはしない」と自らを犬と呼んでさげずみながら、それでも子孫には徳川家への忠義を促しています。
彦左衛門は3代家光まで9代にわたって松平・徳川家に仕えてきた大久保家の誇りを語り、
不忠をなすことは先祖の功績を無にするうえ、主君への裏切りは七逆の罪となり、無間地獄に落ちると、これでもかというほど戒めています。
しかも不遇なのは前世の因果だから仕方ないと心得よとも。
えー前世が理由かーい、しかも一番あきらめきれずにぐちってるのは自分じゃんとツッコミたくなりますが、無間地獄、前世の因果などは自分を納得させる言葉でもあったでしょう。
これは、善い行いをしても栄えるとは限らず、悪い行いをしても栄える家もあると世の中の不条理を説いています。
その思いを表わすかのように、皮肉たっぷりに知行を得られる武士と得られない武士の特徴をあげています。
まず知行を得られるのは
- 主人に弓を引く武士
- 人にへつらい笑われるような武士
- うわべがよくうまく立ち回る武士
- (そろばん勘定がうまく)計算高い武士
- 他国の人間で新規召し抱えの武士
一方、知行をもらえない武士はこの反対。
つまり主君には弓を引かず忠実な武勇の士で、まじめ一筋でうわべを繕うこともせず、そろばん勘定ができず計算高くもなく長く使えている年取った譜代の武士だという。
この知行をもらえない武士は彦左衛門自身です。融通もきかず長く一途に仕えてきた武勇の者がバカを見るという痛烈な皮肉、自虐のブラックパンチです。
ただしそれでも自らの信念を売っておべんちゃらを言って知行を得るくらいなら餓死した方がマシ! と勇ましい思いも吐露しているのはさすが彦左衛門です。
長く真面目に忠実に仕えてきた者がいつしか馬鹿を見るという風潮、現代でも同じことが言えますよね。
そう、会社を長年支えてきた営業一筋の古参社員が窓際やリストラの憂き目にあい、要領がよく、パソコンなどIT機器を使いこなす新参の若者ばかり重宝される・・・。
現代のサラリーマンの悲哀にも共通したものを感じます。
ただし彦左衛門はそれを不満に思って徳川家からフェイドアウトしろと言っているわけではありません。それを仕方ないことと受け止め、変わらずに主君に忠誠を尽くすのが真の忠義だと伝えています。
忠義って難しいです・・・。
彦左衛門の抱いていた不満は徳川譜代など武士たちに「分かる分かる」と支持されたようです。彦左衛門はいわば不当に追いやられた彼らの代弁者でもあったのでしょう。『三河物語』は門外不出としていたようですが、いつのまにか世に出回り武士の間で隠れたベストセラーに。
武士の間では、この書物を肴に、「給料少ない~」「待遇悪い~」「えこひいきしすぎだぞー」と不満たらたら愚痴りながら、「でもやっぱり徳川家がここまで来れたのは俺たちのおかげだよね!」とスッキリ、いえ誇りを確認して明日からの奉公にはずみをつけていたかもしれませんね。
天下のご意見番
彦左衛門はこの思いを書物に書くだけでは飽き足らずに、元々の一本気な性格もあいまって型破りな言動も繰り返しました。おべんちゃらは言わない代わりに、言うべきことは相手が誰であろうとズハズバ諫言します。
ただ、頑固で偏屈でありながらも忠義一筋(文句があったとしても)、曲がったことが嫌いな人柄や浪人たちの面倒を見て就職の奔走していたためか義侠の侍として人望があつかったようです。
そんな彦左衛門の型破りの言動は枚挙にいとまがありません(後世の創作もありますが)。
その一部を紹介します。
沼津2万石を与えられていた次兄の忠左は、嗣子がなかったので弟である彦左衛門を養子にしようとします。
しかし彦左衛門は「自分の手柄ではないからもらわない」と断っています。
のちに跡継ぎがいないため改易になりました。
もったいないオバケが出そう~。どこまで強情なんだといいたくなりますよね。
旗本が登城の際に駕籠に乗ることを禁止されました。

出典:Wikipedia
彦左衛門は大ダライに縄をかけ、これを担がせて登城し、
「旗本は老齢になっても駕籠に乗ることができず、大名たちは腰抜けなので年が若くても駕籠を許されるのか」
と将軍に談判。盥で登城とはもはや笑い話です。
土井利勝がある時、自慢の馬を見せます。
すると彦左衛門が「これが大坂の陣でビビったお前を乗せて逃げ足が速かった馬か」と言い放ち、ぎゃふんと言わせています。
家光もこの戦国の生き字引でもある頑固ジイから昔話を聞くのを好み、しばしば招きました。
家光がある時、源義経は弁慶のような忠義の士がいてうらやましいなあ言うと、
彦左衛門が
「今も弁慶のような家臣はいます。三河武士は健在です。しかし義経のような立派な主君はいませんが・・・」
と家光をじろり。
家光タジタジです。
家光から死の間際に5000石を与える話がありましたが、「もう少しで死ぬ自分には不要」と断っています。ここはもらってくれよーと息子たちは言っていたはず・・・。
頑固で偏屈なガミガミジイさんですが、たとえ相手が徳川家、将軍であっても本音をぶつける彦左衛門の痛快さと人間味あふれる姿は、多くの人々に愛されたのではないでしょうか。
彦左衛門は大久保一族を追い落とした本多正純の失脚や忠隣の孫の大名復帰を見届け、80歳で亡くなりました。まさに戦国は遠くになりにけり・・・ですよね。
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