戦国時代の合戦では、多くの奇策が用いられ、後世の語り草となりました。
関東に覇を唱えた北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城奪取の際、牛の角にたいまつを付けて放ち、大軍の襲来に見せかけたなんて話もありますね。
今回ご紹介する淡河定範(おうごさだのり)もまた、動物を使った奇策で一躍名を挙げた武将です。
さて、彼のルーツや戦いぶりはどんなものだったのでしょうか…見ていきたいと思います!
聞きなれない名前:淡河氏って?
まずは淡河氏についてご説明しましょう。あまり耳慣れない名前ですよね。
淡河氏は、播磨(兵庫県神戸市付近)を拠点とした豪族です。
ルーツは13世紀にまで遡り、鎌倉幕府で執権を務めた北条時政(ほうじょうときまさ)の甥に当たる人物が、承久の乱の後にこの地に地頭としてやって来ました。その際に、地名の「淡河」を取って淡河氏を名乗るようになったそうです。
その後、播磨で力を持った赤松氏とその家臣である別所氏に従い、養子などによる姻戚関係を築きながら、特に別所氏の傘下で活躍したようですよ。
しかし、室町幕府後期に、事実上の天下人となり三好政権を樹立した三好長慶(みよしながよし)が力を持つと、別所氏と淡河氏は三好の力をバックにした勢力に攻め込まれてしまい、淡河氏の淡河城も落城してしまいます。
おそらくその頃、天文8(1539)年という説がありますが、淡河定範はこの世に生を受けたのでした。
養子に入って淡河氏の家督を継ぐ
当時、居城を落とされ勢いの落ちた淡河氏は、当主・元範(もとのり)の息子たちが相次いで戦死・病死したため、跡継ぎがいない状態でした。このため、元範は近隣の江見(えみ)氏から跡継ぎを迎えることにします。元範自身が赤松氏の出身であり、江見氏は赤松氏の庶流だったということもあったのでしょう。
そして、江見氏出身の定範が淡河氏の家督を継ぐこととなったのでした。
これが弘治元~3(1555~1557)年くらいの間のことだと言われています。生年を天文8(1539)年とするならば、定範は17~19歳くらいだったと思われます。
定範は後に主・別所安治(べっしょやすはる)の妹を妻に迎え、別所家内でも存在感を発揮していきます。しかし、元亀元(1570)年に安治が早くに亡くなってしまったため、その息子・長治(ながはる)を補佐し、後見役としても別所氏を支えていくことになりました。つまり、定範は新たな主・長治の義理の伯父ということになったんですね。
宇喜多直家:Wikipediaより引用
この間にも、定範の実家・江見氏が備前(岡山県東南部他)の宇喜多直家(うきたなおいえ)に滅ぼされるという事態がありましたが、定範はそれを逆手に取り、生き残った実弟など一族をみな淡河氏に迎え入れ、淡河氏としての勢力を強化することに成功したのでした。
主・別所長治を取り巻く状況の変化
別所長治:Wikipediaより引用
定範の主・別所長治は、播磨のほとんどの豪族が毛利氏と通じている中、織田信長と通じた唯一と言ってもいいほどの異色の存在でした。そのため、信長が羽柴秀吉(まだ豊臣ではない)に命じて行わせた毛利氏相手の中国征伐の先導役となり、播磨平定に一役買ったんです。
しかし、本格的な毛利攻めに至り、軍議の場で長治の叔父・別所吉親(べっしょよしちか)の献策が秀吉に却下されるという事態が起きました。吉親は怒り、長治に織田・羽柴方とは手を切るべきだと進言し、その影響を受けた長治は毛利側へと転じたと言われています(諸説あり)。この時、定範はどう思っていたんでしょうか。補佐役という立場から、何か言ったんじゃないかと思うんですが…
とにかく、天正6(1578)年、長治は信長に反旗を翻したのでした。
当然、定範を取り巻く状況は、急速に変化していくことになります。
信長の命を受けた秀吉の攻撃目標は、まず別所氏の本拠地・三木城となったんです。
長治は籠城戦を選び、ここから三木合戦が始まりました。まさかこの後、「三木の干殺し(ひごろし)」という壮絶な状況に至るとは、誰も思っていなかったかもしれませんが…。
あえて「牝馬」を敵中に放つ奇策
三木城の支城であり、重要な補給ルートとして機能していた定範の淡河城ですが、ここにも羽柴勢が迫ります。敵将は羽柴秀長(はしばひでなが)、秀吉の弟です。
定範は少ない城兵で城を守り、秀吉によって派遣された黒田官兵衛の降伏勧告にも応じませんでした。
このため、羽柴方は淡河城への補給を断つべく、そのルートにあった丹生山(にぶやま/兵庫県神戸市)を焼き払い多くの僧を殺害しますが、それでも定範は怯まず、いっそう城の防備を固めました。
と同時に、定範は「城では毎日のように一族郎党が城の外で何やら作業をしている」という噂を近隣に広めさせます。その一方で、村々に「牝馬1頭を連れてきたら300文与えよう。馬はすぐに返す」と触れ回り、牝馬ばかりを城に集め始めました。
そんなことは知らない羽柴方は噂を聞きつけ、「どうやら淡河方は城外にいるらしい…ならば大勢で攻め込むのみ! 」と、チャンスとばかりに攻め込んで来たんです。
ここで定範の奇策が炸裂しました。
集めた牝馬を一気に城内から放ったんです。
すると、敵の騎馬兵の馬はみんな牡馬ですから、牝を見て大興奮。戦どころではなくなり、羽柴方は大混乱に陥ってしまいました。
そこを定範はたたみかけ、淡河勢の攻撃によって羽柴方は総崩れとなり退却する羽目となったんです。
馬の本能を利用した、戦国時代でもまれな作戦でした。しかしとても鮮やかで、定範の知謀の冴えを見せつけることになったんです。
智将の最期は潔し!
数で大きく勝る羽柴勢を退け、意気軒昂の淡河勢でしたが、定範はひとり冷静でした。
「今は勝ったが、おそらく羽柴方はもっと大軍でやって来るはず。そうなれば、我々のように少人数では勝ち目などない」
そう言うと、彼は城に火を放ち、あっさりと城を捨てて主のいる三木城へと向かったのでした。
その頃の三木城は、兵糧が尽き、城内の人々が飢え始めていました。この窮状に、毛利側から兵糧の搬入が試みられていましたが、なかなかうまくいきません。
そうした兵糧搬入の際に起こった戦が、定範の最後の戦いとなりました。
毛利の補給部隊が羽柴方の陣を襲撃した大村合戦は、双方の乱戦となりましたが、結局は羽柴方の援軍の出現などにより補給は成功しませんでした。
ここに参加していた定範もまた手傷を負い、わずか5騎となって落ち延びようとしましたが、羽柴方の追っ手に追いつかれてしまいます。
これは軍記物の話なので創作もあるかと思いますが、この時、定範は「ここはいったん皆で刺し違えたふりをして倒れ伏すのだ」と部下に命じ、5人はそれを装って地面に倒れます。そこにやってきた追っ手が、5人すべて死んだと思い込み、油断して近づいてきたところを、定範の命で全員が起き上がり、渾身の力を振るって敵を撃退したのでした。
ただ、それはあくまで切腹のための時間稼ぎ…。
敵が逃げ去ると、定範たち主従5人は討ち取った敵の首5つを並べて、潔く切腹を遂げたのです。
この最期は、敵には「あっぱれ」と称され、なおかつ惜しまれたと言います。
定範の戦死から約4ヶ月後、三木城はさらに飢餓状態となり、ついに別所長治は城兵たちの命を引き換えに、一族もろとも自害しました。
ようやくこれで1年10ヶ月に及ぶ籠城戦が終わりを告げたのです。
一方、定範については生存説もささやかれていますが、真相は不明です。
ただ、彼の実弟は黒田官兵衛の家臣になり、息子のひとりは四国へと脱出したとも言われており、彼の血はもしかするとどこかへ受け継がれていったのかもしれません。
まとめ
- 淡河氏のルーツは13世紀に遡る
- 定範は養子となって淡河氏の家督を継いだ
- 主君の別所長治が織田側から毛利側へ転じたため状況が変わった
- 牝馬を敵中に放ち混乱させ、勝利を挙げた
- 最後の5騎になっても戦い、潔く切腹した
淡河定範が三木合戦に臨んだ時、羽柴方には黒田官兵衛や竹中半兵衛といった智将たちが顔を並べていました。
そんな智将たちに負けない策を用いて大軍を蹴散らした定範、ただ者ではありません。
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