奥平という名字を聞くと、
「なんか徳川に近い人…?」
程度にご存知の方は多いかと。
その通り、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は徳川家康の家臣なんですが、彼が歴史に名を残したのは、長篠の戦いでのことでした。
実は家康の娘婿であり、奥平松平家の祖でもある彼の生涯をご紹介したいと思います。
地味だけど堅実ですよ。
今川、徳川、武田の間を生きた奥平家
奥平唐団扇:Wikipediaより引用
信昌の生涯について語る前に、奥平家について触れておきましょう。
元々、三河の国人(豪族)だった奥平家は、信昌の祖父・貞勝(さだかつ)の代までは今川の傘下に入っていました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が倒れると、徳川方に付きます。
ところが、東から武田信玄が三河に侵攻してくると、今度は武田方に付いたんですよ。
そのため三方原(みかたがはら)の戦いでは徳川家康を攻撃しています。
とまあ、なかなか難しい状況下にあったわけですね。
この中を生き抜いて行くためには、流れを読む眼力が必要だったんでしょう。
そんな中、弘治元(1555)年に奥平定能(おくだいらさだよし)の長男として、信昌は誕生しました。
最初の名前は「貞昌」なんですが、ここでは信昌で統一します。
信昌が生まれた直後は今川に従属していた奥平家ですが、彼が成長した頃には徳川家康に従っていました。
そのため、信昌は家康とすでに面識があり、姉川の戦いにも従っていたようですよ。
しかし前述のように、武田信玄の三河侵攻を受けて、奥平家は武田方に付くこととなってしまいました。
一説には、信昌の父・定能は徳川方にと考えていたのですが、祖父・貞勝が武田方にと主張したためやむなく武田方に付いたとも言われています。
というわけで、信昌は一度家康の下から去ることとなりました。
徳川への帰参と悲劇
武田方へと去った奥平家ですが、家康はやはりその力を味方につけておきたいと考えていました。
そこで、織田信長に相談したところ、
「そんならお前の娘を信昌に嫁がせればいいじゃん?」
と言われ、その話を奥平家へ持ち込んだんです。
実はこの時、武田方にも激震が走っていました。
武田信玄が亡くなってしまったんです。
三河を横断し京都へと向かっていた武田軍は、信玄の死を隠して密かに引き上げ始めました。
信昌の父・定能はこの動きを見て信玄の死を確信したんです。
それならば家康に付いた方がいいと考えた彼は、息子と家康の娘・亀姫との婚姻を承諾し、その上「信玄の死は確実である」という超有力情報を持って徳川方に帰参したんですね。
信玄が「自分の死は3年隠せ」って言ったのに、こういうとこからあっさり漏れてたわけです。
しかし、昨日の味方は今日の敵…みたいなことをすれば、当然、報復もあるわけで。
奥平家の徳川方への帰参により、悲劇が起きてしまいました。
武田方に人質として差し出されていた、信昌の最初の妻と弟が処刑されてしまったんです。
妻は16歳、弟は13歳でした。
一説には、信昌は妻と離縁し、奥平家と彼女は関係ないとしたんですが、それも及ばなかったとか…。
500の兵で武田軍に抵抗!長篠城防衛戦
奥平信昌:Wikipediaより引用
やがて、織田・徳川連合と武田の対立は表面化します。
そして天正3(1575)年、武田勝頼(たけだかつより)は、1万5千もの兵を率いて長篠城に攻め込んできました。
この時、家康に長篠城を任されていたのは、弱冠21歳の若武者だった信昌。
ただ、この時城にいた兵はたったの500…。
当時は最強をうたわれた武田の大軍に、到底かなうわけもありません。
その上何とも運の悪いことに、長篠城の兵糧庫は武田方から放たれた火矢によって焼失してしまったんです。
もう最初から落城のピンチなわけなんですよ。
しかし、信昌は諦めませんでした。兵を鼓舞し、何とかして家康に援軍を頼もうとします。
そこで、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という家臣が敵の目をかいくぐって脱出し、家康のところに駆け込むことに成功します。
ところが、強右衛門はこの報せを持って長篠城に戻ろうとしたところで、武田方に捕らえられてしまったんです。
援軍は来ないと嘘を言えと強制された強右衛門ですが、城に向かって
「もう少しで援軍が来ます!」
と叫びます。
これで彼は武田方によって殺されてしまうのですが、部下の命を懸けた行為によって、信昌は少ない兵で武田の攻撃を食い止めることができたのです。そいて、この戦いの後、織田・徳川連合軍は長篠の戦いで武田に勝利したのですから、信昌の戦いぶりは大きなきっかけとなったわけですね。
ちなみに、鳥居強右衛門の行動は武田方の者にも感銘を与え、彼が磔にされた姿は旗指物(はたさしもの)として使われ、現在に伝わっています。
もちろん、信昌も強右衛門の行動には深く感謝しました。
奥平家全体の名を高めたこの戦いの後、強右衛門の子孫は代々大切にされたそうですよ。
家康の娘婿になる
武田相手に怯むことなく籠城戦を戦い抜いた信昌を、信長と家康は激賞しました。
この時信長の一字をもらって「信昌」に改名したとも言われていますが、これはそれ以前に武田晴信(たけだはるのぶ/信玄の出家前の名)を一字をもらったとも言われています。
また、家康は、名刀「大般若長光(だいはんにゃながみつ)」を信昌に与えました。
この刀は室町幕府第13代将軍にして剣豪だった足利義輝(あしかがよしてる)所有だったもので、その後畿内を統べた三好長慶(みよしながよし)、信長を経て家康の元にやってきた、由緒ある刀です。
そして、信昌はこの時に家康の長女・亀姫を正室に迎え、家康の娘婿となったんですよ。
家康からの信頼は確固たるものになったわけですね。
「大般若長光」をもらった信昌ですが、若い頃から自身も剣術に優れていたそうです。
徳川から最初の離反をする前のこと。姉川の戦いで、信昌は若いながらも敵の首を2つ取ってくるという戦功を挙げました。
それに感心した家康が彼をほめると、信昌は
「戦の道は筋力の強弱ではありません。剣の腕によるものです」
と答えたそうです。
そこで家康が誰に習ったのかと聞くと、信昌は
「奥山流です」
と答えます。
家康は驚き、
「自分は若い頃奥山流を習っていたが、忙しくてやめてしまった。でも、今度帰ったら改めて習おう」
と言い、信昌の剣術に感心しきりだったそうですよ。
徳川の重臣となり、息子は家康の養子に
その後も信昌は徳川家臣として重きを成していきます。
同じく徳川家臣だった石川数正(いしかわかずまさ)が突如出奔し、豊臣秀吉の下に走ってしまった時は、徳川の機密が漏れると大騒ぎになったことがありました。
このため、家康は軍制を武田式に変えることにしましたが、この時に旧武田方でもあった信昌は大いに貢献したんですよ。
それからはずっと家康に付き従い、関東にも同行しています。
関ヶ原の戦いの後には初代の京都所司代(きょうとしょしだい)となり、西軍の参謀だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕らえるなど大きな功績を挙げました。
これによって美濃加納(岐阜県中南部)10万石を与えられ、その扱いは徳川四天王にも匹敵していたといいます。
慶長7(1602)年、信昌は家督を三男の忠政(ただまさ)に譲り、隠居します。
長男の家昌(いえまさ)は、すでに下野宇都宮(栃木県宇都宮市付近)10万石を与えられ北関東の要衝を守っていました。
四男の松平忠明(まつだいらただあきら)は家康に望まれて養子となり、江戸幕府の宿老として活躍することとなります。
このように、家康以下幕府から信頼を受けた信昌ですが、唯一の弱みは、正室・亀姫でした。
何せ嫉妬深い女性で、信昌に側室を置くことを許さなかったそうです。まあ、家康の娘ですから、浮気もできませんが…。
亀姫は夫と息子たちに先立たれた後も孫を後見し、奥平家のゴッドマザーとして君臨していきます。
「宇都宮城釣天井事件」の黒幕なんて噂もありますが、まあこの話はまた後で。
まとめ
- 奥平家は一度徳川から離反し、武田方となっていた
- 徳川へ帰参するが、信昌の最初の妻と弟は武田に殺された
- 500の兵で武田の大軍を相手に城を死守した
- 家康の娘婿となり、信頼された
- 徳川家では四天王クラスの扱いを受け、息子は家康の養子にまでなった
徳川四天王のような派手さはありませんが、信昌は家康にとって信頼のおける人物だったのでしょうね。
長篠城攻防戦の活躍こそ、長篠の戦いの勝利につながったわけですから、信昌は陰の功労者と言ってもいいのではないでしょうか。
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