関ヶ原の戦いで西軍に属し敗れた武将の大半は、領地を没収され浪人となる「改易(かいえき)」処分が下されました。
しかし、ごくわずかではありますが、再び大名の座に復帰した人たちもいたんですよ。
その筆頭はやはり九州の雄・立花宗茂(たちばなむねしげ)なんですが、ちょっと待って下さい。
ここにも奇跡の復活を遂げた人物がいます。
その名は丹羽長重(にわながしげ)、123万石から浪人へと転落した彼の復帰の陰にはいったい何があったんでしょうか…見ていきたいと思います。
信長重臣・丹羽長秀の息子として
丹羽長秀:Wikipediaより引用
長重は、織田信長の重臣・丹羽長秀(にわながひで)の息子として元亀2(1571)年に誕生しました。
父・長秀は綺羅星のごとき信長陣営にあってちょっと地味な存在でしたが、
「お米のように欠かせない男」
として
「米五郎左(こめごろうざ)」
と呼ばれ評価された人物でした。
長秀は、信長の死後は清洲会議で羽柴秀吉側に立ち、その後秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)が対立し起きた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも秀吉側の武将として参戦し、若狭(福井県南部)・越前(福井県)・加賀(石川県南部)の、合わせて123万石もの領地を得ています。
そんな父に従い、少年の長重も秀吉に臣従していました。小牧・長久手の戦いの際には父の代理として出陣したんです。
そして天正13(1585)年、父・長秀が病没し、まだ15歳の長重は丹羽家の家督を継ぐこととなったのでした。
秀吉の言いがかりがヒドい
15歳にして123万石の主となった長重ですが、順風満帆の船出…といくはずもありませんでした。
柴田勝家を倒して勢いに乗る秀吉は、越中(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)が秀吉側から徳川家康側に寝返ったため、越中攻めに乗り出します。
この時、長重も秀吉側として従軍したのですが、秀吉がとんでもないことを言ってきたんですよ。長重の家臣が佐々側に内通しているとか、兵が謀反の動きをしているとか…ホントに言いがかりですよね。
そして、これによって長重は越前や加賀を取り上げられ、若狭15万石の領地にダウンさせられてしまったのでした。
まだ苦難は続きます。丹羽家に仕えていた有能な家臣たちが、秀吉の直臣として引き抜かれてしまったんです。
この中には、後に豊臣政権の五奉行となる長束正家(なつかまさいえ)も含まれていました。
秀吉、完全に丹羽家潰しモードに入ってます。
九州征伐の時には、丹羽軍の兵が軍律違反を犯したとして(これもほぼ言いがかり)、ついに長重は若狭も取り上げられ、加賀松任(かがまっとう/石川県白山市付近)4万石にまで格下げされてしまったんですよ。
父・長秀が亡くなってからわずか2年ほどで、123万石の領地が約30分の1にまで減らされてしまうとは…まだ17、8歳の少年当主にとっては、辛いけれど我慢するしかない時期だったんですね。かわいそう…。
それでも秀吉に誠意を見せ…いつの間にか西軍へ!?
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
それでも、長重は秀吉に忠誠を見せ続けました。小田原征伐や朝鮮出兵にはいち早く参陣して武功を挙げ、加賀小松(石川県小松市付近)12万石を得ます。
世の中の流れ的に秀吉に従うしかない状況とはいえ、若いながらも忍耐の人だったんだと思います。マ、マジメか…!!
しかし、秀吉の天下も長くは続きませんでした。
朝鮮出兵の最中に彼は病没し、残されたのは幼い後継者・秀頼。
これでは政権が安定するわけもなく、次の権力者の座を狙って様々な思惑がうごめいていくことになったんです。
そうこうしているうちに、徳川家康が徐々に動きを見せ始め、それに反発した石田三成(いしだみつなり)などの親豊臣派らとの間でついに戦が起きてしまったのでした。
それが、関ヶ原の戦いだったというわけです。
親豊臣派が西軍、徳川家康を総大将とするのが東軍でしたが、天下は真っ二つに割れました。
そして、関ヶ原で西軍と東軍が激突しただけでなく、各地で西軍と東軍に分かれて武将たちが戦いを繰り広げたんです。東北しかり、北陸しかり。
その「北陸の関ヶ原」に、長重は加わることとなったのでした。
北陸には、秀吉の大親友・前田利家(まえだとしいえ)が築いた地盤がありましたが、その息子・利長(としなが)はこの時、東軍への参加を決断します。
本来なら西軍に付くはずの前田家ですが、この時利長は、実母・まつ(芳春院)を徳川方へ人質に出していたんですね。
一方、北陸の他の諸将はみな西軍に付きました。西軍の頭脳・大谷吉継(おおたによしつぐ)の根回しと説得工作がモノを言ったんです。この中に長重もいたんですよ。
というわけで、北陸は前田利長VS北陸諸将という状態になったわけなんです。
「北陸の関ヶ原」浅井畷の戦い
周辺勢力がみな西軍となったため、危機感を抱いた前田軍は、突破口を開くために長重の居城・小松城に攻め込んできました。2万5千もの前田軍に対し、城を守る長重の兵はわずか3千ほどでしたがよく戦い、持ちこたえたんです。
その間に、大谷吉継は前田軍を動揺させるため噂を流していました。
「上杉景勝(うえすぎかげかつ)が加賀をうかがっている」
「大谷吉継の別働隊が前田の本拠地・金沢城を狙っている」
など、いかにもありそうな噂ばかりをうまく使ったんです。
そのため、前田利長は金沢城への撤退を決めて兵を動かし始めましたが、そこを長重が追撃したんです。
これが、小松城の東方で発生した浅井畷(あさいなわて)の戦いでした。
長重は狭くぬかるんだ道の陰に兵を潜ませて待ち伏せし、一気に襲い掛かりました。
不意打ちを食らった前田軍は動揺しますが、とはいえ彼らも強者。
一面を地に染める激戦が繰り広げられ、双方に多数の死傷者が出ました。
長重からすればここで前田を退けなければ自分がやられるという、命を懸けた戦いだったんですね。
前田軍を壊滅させるには至りませんでしたが、この戦いによって双方が和睦へと傾き、人質の交換などで北陸の関ヶ原は終結に至りました。その一方、関ヶ原本戦は西軍の大敗に終わっていたんです…。
ついに無禄の浪人に転落、しかし手を差し伸べる人物が!
戦後、東軍の勝利により徳川家康の裁定が下され、西軍に属した長重は改易処分となってしまいました。
改易は領地没収ですから、彼は浪人にまで落ちぶれてしまったんです。
かつて123万石という大大名だった身分からの、信じられない転落劇でした。
しかし、そんな彼に手を差し伸べた人物がいたんです。
徳川秀忠:Wikipediaより引用
それが、徳川秀忠でした。
実は、長重と秀忠はけっこう昔から交流があったそうなんです。
一説には、小田原攻めの時に家康が長重の用兵の巧みさに感心し、引き合わせて義兄弟の契りまで結ばせたとか。
長重が8つ年上でしたから、秀忠は彼を兄のように慕っていたのかなと思います。
長重の苦境を知った秀忠は、彼のために奔走し家康に取り成してくれたんです。
そして、京都に隠棲していた長重に、
「今なら父(家康)もそこまで怒っていないようだから、今こそ江戸に来て会った方がいい」
などとタイミングをはかってくれたんですよ。
こうして、関ヶ原の戦いから3年経った慶長8(1603)年、長重は常陸古渡(ひたちふっと/茨城県稲敷市付近)1万石を与えられ、大名へと復帰を果たすことができたのでした。
その後、彼は大坂の陣には徳川方として参戦し、やがて将軍となった秀忠の側に仕え、常陸江戸崎(茨城県稲敷市付近)2万石、陸奥棚倉(福島県棚倉町一帯)5万石と徐々に領地を増やし、最終的には会津白河(福島県白河市)10万石にまでなったんですよ。
持つべきものはいい友達、ホントにそう思います。
大名復帰の陰にスキルあり
もちろん、秀忠の友達というだけで長重が大名復帰となったわけではないんですよ。
長重には築城術という優れたスキルがあったんです。
棚倉城の他、次に赴任した会津白河では白河小峰城を建設し、その技術は高く評価されたのでした。
この場所は東北への玄関口でもあったため、江戸幕府としては、彼はキープしておきたい人材だったんです。
長重もまた、自分を復帰させてくれた幕府に対しては忠節を尽くしました。
日光東照宮や増上寺の修築、東海道の整備にも率先して参加し、信頼を得たんです。
日光東照宮:Wikipediaより引用
こうした彼の行動は、すべて今までの経験に基づいていました。
秀吉に難癖をつけられて領地をほとんど奪われてしまっても、黙ってこらえて奉公し続けることが、結局家を守ることなのだと。
彼は子供や家臣にこう言い残しています。
「将軍への恩が第一。幕府に忠誠を尽くせ。しかし、機転を利かせすぎても、こびへつらってもいけない」
彼の冷静さと、常識人である部分が垣間見えますよね。
おそらく、こんな風に真面目な部分を秀忠も買っていたのだと思います。
そんな彼の真面目さがあったからこそ、改易後に離散していた家臣たちも、再び彼の元に帰参しているんですよ。
前田利常:Wikipediaより引用
また、浅井畷の戦いの直後、前田側との人質交換でやって来た前田利常(まえだとしつね)をあたたかく迎え、自ら梨をむいてあげたというエピソードもあります。
利常は本当にこれが嬉しかったようで、折に触れてはこの話を周囲に語ったそうですよ。
まとめ
- 織田信長の重臣・丹羽長秀の息子として生まれる
- 秀吉の言いがかり(ほぼ)により、領地をほとんど奪われてしまった
- それでも豊臣政権に従い、西軍に属した
- 浅井畷の戦いでは西軍として前田軍と激戦を繰り広げた
- 戦後改易されたが、徳川秀忠の助けで大名復帰を果たした
- 大名復帰できたのは、優れた築城技術と真面目な人柄が理由だった
父・長秀と同じように、少し地味で真面目な人物だったようです。
でも、これこそが、戦国時代で生き抜く術のひとつだったんでしょうね。
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