長野県歌にも登場! 最後まで兄を見捨てず戦った仁科盛信の忠義に涙

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武田信玄亡き後、武田氏は勝頼(かつより)の代で滅亡を迎えました。

天下統一をうかがえる位置にいた戦国大名の急速な凋落は衝撃的でしたが、その転落劇の陰には、最後まで主君を支えようとした家臣がいたんです。

その最たる人物が、仁科盛信。姓は違えど、彼も武田信玄の息子。

そして勝頼の弟でもありました。

武田氏最後の忠臣・仁科盛信の戦いを、最後までしっかりご紹介します!

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信玄の息子、仁科氏の家督を継ぐ

盛信は、弘治3(1557)年の生まれと推定されています。

父は甲斐の雄・武田信玄、母は油川夫人。同母兄弟には葛山信貞(かつらやまのぶさだ)、松姫、菊姫などがいます。

ちなみに、松姫は織田信長の息子・信忠(のぶただ)の婚約者となり、菊姫は上杉景勝(うえすぎかげかつ)の正室となっています。

 

盛信は五男だったため、武田氏の家督を継ぐ立場にはありませんでした。

そして当時、信玄は周辺豪族を懐柔するために子供を送り込んで家督を継がせるということを行っており、盛信は信濃・安曇(あづみ)郡森城主(長野県大町市付近)の仁科氏の家督を継ぐことになったんです。

 

盛信の1代前、仁科氏の当主だったのは仁科盛政(にしなもりまさ)でした。

盛政は信玄に従う立場で、永禄4(1561)年の第四次川中島合戦(信玄と謙信の一騎打ちや山本勘助が戦死した戦)でも信玄の下で戦に参加していましたが、この時留守役だった家臣が上杉方に調略されたため、謀反の動きありとして盛政自身が咎めを受け、自害させられたとも伝わっています(諸説あり)。

 

こうして仁科氏の家督を継ぐ者がいなくなったため、盛政が武田氏から送りこまれたというわけです。

 

父・信玄の死と兄・勝頼への忠誠

武田勝頼:Wikipediaより引用

元亀4(1573)年、父・信玄が病没します。盛信はこの時17歳くらいだったと考えられます。

そして、異母兄の勝頼が跡を継ぎ、盛信は兄を主として仕えるようになったんです。

2人の年の差は12歳、一回り違いましたが、深い信頼関係で結ばれていたようですよ。

盛信が守る森城は、越後(新潟県)との国境に近く、上杉氏に対する重要な軍事拠点でした。そこを若いながらも任されているということは、勝頼からの信頼なくしてできなかったことですよね。

 

しかし、信玄亡き後の武田氏は、徐々に衰退へと向かって行きました。

天正3(1575)年の長篠の戦いで、武田氏は織田・徳川連合に完敗してしまいます。

この時、武田氏で超が付くほどの重臣だった馬場信春(ばばのぶはる)や山県昌景(やまがたまさかげ)、真田信綱(さなだのぶつな)などの優秀な武将を失ってしまい、一気に力を低下させてしまったんです。

ただ、勝頼はその一方で宿敵の上杉氏と和睦を結ぶなどして、外交方針や内政の転換を図り、武田氏の舵取りをなんとか成功させようと努力していました。

そんな兄の必死な姿に、弟として盛信が

「俺が支えなければ! 」

という思いを固めたことは、想像に難くないと思います。

 

勝頼も弟を信頼し、天正9(1581)年には高遠城(たかとおじょう/長野県伊那市高遠町)と森城の兼任を命じます。

高遠城もまた、甲斐・信濃・駿河・遠江四ヶ国にまたがる軍事拠点でした。

そして、盛信はこの高遠城で歴史に名を刻む戦いぶりを発揮することになるんです。

雲行きはさらに怪しく…次々と裏切りが起きる

しかし、勝頼の奮闘もむなしく、流れは武田氏にとって実に不利な状況に傾いていきました。

それを止めることができる者は、誰もいなかったんです。

木曽義昌:Wikipediaより引用

武田氏の転落に加速をつけたのが、天正10(1582)年2月の、木曽義昌(きそよしまさ)の織田方への裏切りでした。

木曽義昌は、勝頼や盛信のきょうだいに当たる真竜院(しんりゅういん)の夫。

いわば武田一族といってもいい存在だったんです。

裏切るはずがないと考えられていた人物のまさかの離反により、勝頼の求心力はさらに低下することとなってしまいました。

 

加えて、武田氏に迫りくる織田・徳川・北条連合の大軍の前に、武田方の武将が次々と逃亡するという事態が起きたんです。

武田信廉:Wikipediaより引用

信玄の弟で、盛信や勝頼の叔父でもある信廉(のぶかど)は城を捨てて逃亡してしまったんですよ。

また、寝返り組の中には、勝頼と盛信の姉・見性院(けんしょういん)の夫である穴山信君(あなやまのぶただ/後の梅雪)がいました。

 

このように、肉親や姻戚までもが勝頼を見捨てて去る中で、盛信の態度はまったく変わることはありませんでした。

一貫して兄・勝頼に忠誠を尽くす姿勢を変えることなく、彼は高遠城に籠城し、織田軍に徹底抗戦する道を選んだのです。

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高遠城攻防戦の前に…揺らがぬ忠義が胸熱!

織田信忠:Wikipediaより引用

攻め寄せた織田軍の大将は信長の息子・信忠。その数はなんと5万に達したといいます。

一方、守る盛信らの兵はわずか3千。数だけ見ても、勝敗は明らかでした。

そのため、信忠はまず盛信に降伏勧告の使者を派遣します。

書状の中で、信忠は

「出仕し忠節を信長に誓うなら、所領を保証した上で黄金100枚を差し上げよう」

と、なんとも寛大すぎる処遇を提案しています。まあ、信長がこんな約束を守るとは思えないんですが…。

 

それに対し、盛信はこう答えました。

 

「信玄公以来、信長には遺恨がある。この命は勝頼様に武恩として報いるつもりであるから、早々に攻めてこられるが良い。この武勇をお目にかけましょう」

 

そして、使者だった僧の耳と鼻を削ぎ落した上で送り返したんです。

まだ26歳の若者がここまで強気に出るとは、覚悟のほどがうかがえますよね。

同時に、悲壮な決意を感じて何ともいえない気持ちになりますよ…。

 

こうして、織田の大軍勢が高遠城に攻め込み、戦の火蓋が切って落とされたのでした。

 

玉砕覚悟の激戦、そして力尽く

仁科盛信:Wikipediaより引用

10倍をゆうに超える敵軍を相手に、盛信率いる兵たちは激しい抵抗を見せました。

若者や女性までもが武器を持ち、果敢に戦ったんです。

 

諏訪勝右衛門(すわかつえもん)の妻という女性は、長刀を手に男性に劣らない働きを見せ、

「私は諏訪勝右衛門の妻である! 」

と勇壮な雄叫びを残して自害して果てたといいます。

また、ある眉目秀麗な若武者は、弓であまたの敵を撃ち殺した後、矢が尽きると刀で敵軍に斬り込み討死を遂げました。

 

このような盛信らの激烈な抵抗に、さすがの織田方も攻めあぐねました。

しかし、そんな中で森長可(もりながよし)が屋根板を剥がして鉄砲を撃ち込むという荒業をやってのけます。

この攻撃の威力はすさまじく、さすがの盛信も

「もはやこれまで」

と覚悟を決めるに至りました。

 

そして、彼は自ら腹を掻っ捌きます。

それだけではなく、十文字に割いた腹から内臓をつかみ出し、敵に向かって投げつけてからこと切れたそうです。

こうして、高遠城は兵たちの玉砕と共に落城したのでした。

 

激戦を物語るかのように、高遠城に降り積もった雪は血で真っ赤に染まったと伝わっています。

 

その後の盛信と武田氏

 

盛信の首は信長の下へ送られました。

しかし、胴体は城下の農民たちによって探し出され、山に葬られたといいます。

この山は後に「五郎山」と呼ばれるようになりますが、「五郎」とは盛信の通称なんですね。

それだけ、彼が城下の民にも慕われていたことがわかりますよね。

 

また、盛信が最後まで尽くした兄・勝頼は…というと、家臣の城へと落ち延びようとしますがその家臣にも裏切られ、やがて追っ手に追いつかれて自害。武田氏は滅亡となりました。

 

最後まで兄を裏切らず、その命まで捧げた盛信の忠心は、後世にも影響を与えたんですよ。

江戸時代後期、高遠藩主であり名君の誉れ高かった内藤頼寧(ないとうよりやす)は、盛信を城内に祀り尊敬したといいます。

また、現在の長野県歌「信濃の国」の五番に、盛信の名前が登場します。

信濃が生んだ平安末期の武将・木曽義仲(きそよしなか)や幕末期の思想家・佐久間象山(さくましょうざん)などと並んで言及されており、盛信の存在がその地でいかに大きかったのかがわかりますよ。

 

まとめ

  1. 武田信玄の五男とて生まれ、仁科氏を継ぐ
  2. 父の死後も兄に忠誠を誓い続ける
  3. 肉親や姻戚が裏切る中でも、盛信だけは裏切らなかった
  4. 織田の大軍を前にしても臆することはなかった
  5. 最後まで抵抗を続け、城を枕に玉砕した
  6. 長野県歌に登場するほど、当地では有名

 

武田信玄亡き後の武田氏って、ぱっとしないイメージがありますが、こんな忠義の士もいたのかと思うと胸が熱くなりますよね。

 

長野県歌「信濃の国」は、長野県民の約8割が歌えるとか。きっと、仁科盛信の名前も長野県の皆さんの胸には刻まれているんでしょうね。

↓↓動画はこちら↓↓

 
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