彼こそ島津の屋台骨! 武勇・教養・情すべて一流の島津の元老・新納忠元

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戦国時代の島津氏の快進撃は、当主島津義久とその兄弟あってこそのものでしたが、彼らを支えた有能な家臣がいたことも忘れちゃいけません。

その中のひとり・新納忠元(にいろただもと)は、島津の大事な戦にはほぼすべて参加していた勇将です。

一方、和歌を愛する教養人でもあり、敵に対しての礼や情を忘れなかった、まさに一流の武将でした。さて、彼の人生とは…!?

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島津忠良との出会い

島津忠良:Wikipediaより引用

忠元が生まれたのは大永6(1526)年。新納氏は島津氏の庶流であり、室町時代初期から続く由緒ある家柄です。

しかし、忠元がまだ少年の頃、島津宗家は家督争いの真っ最中でした。その抗争の中で城を奪われ、彼は父と共に島津忠良(しまづただよし/後の日新斎/じっしんさい)にお目見えします。

忠良は、島津四兄弟(義久/よしひさ・義弘/よしひろ/・歳久/としひさ・家久/いえひさ)の祖父に当たる人物。後に家督争いに勝利し、島津家の黄金時代を築いていくことになります。

そんな忠良にお目見えした忠元、この時、13歳。以後、彼は85歳で亡くなるまで、島津家に身を捧げることとなるんです。この時の恩は、彼にとって終生忘れることのできないものになったんですね。そして、彼は忠良以降、貴久(たかひさ)・義久・義弘へと仕えていくことになります。

ちなみに、忠良は四兄弟の才能をそれぞれ評価しましたが、忠元に対しても「島津になくてはならない4人のうちの1人だ」と激賞しています。

鬼のような「大指(親指)武蔵」

元服以降、忠元は島津家の主要な戦にはほぼ皆勤賞で参戦しました。

その武勇は若い頃から評判で、敵将との一騎打ちに勝利したり、負傷しても戦い続けたりなど、島津家でも屈指のものだったんですよ。小柄ながらも「鬼神のごとき武勇」と称賛され、家中で武功者を挙げる際には必ず最初に指を折って名が挙がるため、「大指(親指)武蔵」と呼ばれたそうです。武功のない時はない、そんな感じだったんでしょうね。

一方、単なる武辺の者ではなかったことを示す戦の話もあります。

天正2(1574)年、牛根(うしね)城の攻防戦は1年以上に及ぶ長期戦となり膠着しました。その際、忠元はなんと自ら人質となり、相手側との人質交換という形で城を開城させたと言うんですよ。ちょっと考え付かない作戦ですよね。(人質になったのは長男説もあり)。

それだけではなく、天正9(1581)年の水俣城攻めの際には、敵将と歌を交わしながら戦うと言う、何とも風流な戦を繰り広げています。これについては後ほどご紹介しますね。

天正12(1584)年、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いでは、4倍もの兵力を持つ相手に島津軍は勝利。その中にはもちろん忠元もいたんです。この戦いによって島津氏は勢力を拡大し、九州統一も目前というところまでこぎつけたのでした。

息子を亡くした長宗我部元親に詫びる

長宗我部元親:Wikipediaより引用

しかし、天正14(1587)年になると、徐々に豊臣秀吉の手が九州へと延びてきます。かつて島津氏が破った大友宗麟(おおともそうりん)が、秀吉に支援を頼んだためでした。

その前哨戦とも言える戸次川(へつぎがわ)の戦いにおいて、島津軍は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)父子や仙石秀久(せんごくひでひさ)らと激突します。もちろん、61歳になった忠元も参戦していました。

この戦いでは、島津家お得意の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法が功を奏し、大いに敵方を破りました。敗れた長宗我部元親は、将来を期待していた跡継ぎの信親を戦死させてしまい、後にこれが彼の暗君化へとつながっていくわけですね。

この時忠元は、信親の遺体を引き取りに来た長宗我部家臣に対し、「戦の常とはいえ、本当に申し訳なかった」と涙を流して詫びた上、僧を同行させて長宗我部の本国・土佐へと送ったそうです。

実は、忠元も息子・忠堯(ただたか)を3年前に戦で失っていたんです。だからこそ、元親の心痛はよくわかっていたのでしょうね。こうした気づかいと、情にあふれた対応は、忠元ならではだったんじゃないかと思いますよ。

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九州征伐に対し徹底抗戦を主張!

やがて、秀吉自ら九州に乗り込み征伐の総仕上げとなり、島津側としては正念場を迎えます。勢い盛んな島津氏とはいえ、大軍で攻めてくる豊臣方に徐々に押され、形勢は不利になっていきました。

そして、島津の当主・義久は降伏を選んだのです。

この時、義弘らなど徹底抗戦を主張する者たちもいました。その中には忠元もおり、彼らは義久の降伏後2週間ほどは抵抗を続けたんですよ。

降伏後、忠元は秀吉に謁見する機会を得ました。

その時、秀吉は忠元に「島津は降伏したが、まだ戦うか?」と尋ねました。

すると、忠元は「私は武士ですから、主が立つならばいつでも戦いましょう。しかしご安心ください。我が主は、いったん主従の盃を交わした限りは裏切ることのない者ですから」と答えたそうです。

これぞ薩摩隼人の気概、といったところでしょうか。負けはしたが、完全に屈したわけじゃないぞというプライドが感じられますよね。そんなところもカッコいいと思います。

老境に差し掛かり、武将としては一線を退く

豊臣秀吉に屈した後、島津氏は朝鮮出兵に従軍しました。しかし、すでに60代後半に差し掛かっていた忠元は、留守居役として薩摩を守る方に専念します。本心ならばついていきたかったのかもしれませんし、実際行ったら行ったで突撃のひとつやふたつはやっちゃいそうな感じですが、そこはぐっとこらえて国に残ったんじゃないかと思いますね。

忠元が、出兵する義弘らに対して送った歌に、ついていけない無念さがにじんでいます。

「あぢきなや 唐土(もろこし)までも おくれじと 思ひしことは 昔なりけり」

(唐土/中国にまで必ずお供しようと思っていましたが、それも昔のことになってしまいました。年を取り、忠義を尽くせないことが本当に無念です)

しかしそれでも、関ヶ原の戦い勃発時には、忠元は武将としてまだまだやれるという姿勢を見せました。

義弘が西軍として参戦したものの、敗軍の将となって帰国してくると、近隣の加藤清正(かとうきよまさ)が進攻してくるという報がもたらされました。それに接した忠元は、ただちに鹿児島から自身の領地・大口(おおくち)へと戻り、防備を固めたのだそうです。鹿児島‐大口の距離は約75㎞、老齢の身には決して楽な道のりではなかったはずですが、真っ先に主家を守ろうという彼の姿勢、やっぱり武将として一流ですよね。

85歳の長寿を全う…歴代当主たちに惜しまれる

関ヶ原の戦いから10年後の冬、忠元は85歳の長寿を全うし、亡くなりました。危篤の際は、義久・義弘・忠恒(ただつね/義弘の実子で義久の養子)らが平癒祈願をしたほど、当主たちにも大事にされた人物だったんです。特に、けっこう冷酷で知られる忠恒までもが平癒を祈ったと言うんですから、本当に信頼されていたんでしょうね。

忠元は長寿でしたが、先ほど述べたように長男・忠堯を早くに亡くし、孫に上がる忠光(ただみつ)も慶長8(1603)年に亡くしていました。また、慶長13(1608)年には二男・忠増(ただます)にも先立たれており、きっと気落ちしていたのだと思います。

このため、忠元の跡を継いだのは二男・忠増の子である忠清(ただきよ)でした。彼もまた祖父の武勇を受け継ぎ、島原の乱においては一揆勢の拠点・原城に乗り込む武功を挙げたんです。

忠元の死に際し、殉死は禁じられていたにもかかわらず、2人が殉死しました。また、殉死はせずとも、自分の指を切って弔意を示したものは50人を超えたといいます。

また、天保15(1844)年には忠元の遺勲を偲び、忠元神社が創建されました。

本当に、島津氏にとって欠かせない人物だったと言えるでしょう。

忠元と和歌のエピソード

忠元は、武人ながら和歌に通じた教養人としての一面も持っていました。

水俣城攻めで相手方の武将と歌を交わしたとご紹介しましたが、これは、忠元が先に「秋風に 水俣落つる 木の葉かな」と上の句を詠んで矢を射かけたところ、敵将の犬童頼安(いんどうよりやす)が「寄せては沈む 月の浦波」と下の句を付けて射返したということです。戦の最中ですが、なんとも雅なやり取りですよね。

また、秀吉に降伏した後の宴の席では、忠元がトレードマークの白い髭を持ちあげて盃を干したところ、それを見た知識人武将・細川幽斎(ほそかわゆうさい)が「鼻の下にて鈴虫ぞ鳴く」と呟くと、忠元はすぐさま「上髭を ちんちろりんと ひねり上げ」と上の句をつけて鮮やかに返したという逸話もあります。教養がなければ、こんなとっさの返しはできませんよね…。さすがとしか言いようがありません。

晩年の忠元は、息子や孫だけでなく、妻にも先立たれていました。

その春、彼はこう詠んでいます。

「さぞな春 つれなき老いと 思ふらむ 今年も花の のちに残れば」

(春よ、お前はさぞかし私をつれない無情な老いぼれと思っていることだろう。今年もまた花が散った後まで生き残ってしまったのだからな…)

「つれなき」を「つれない」と「連れ合いのいない」とかけ、「花」には「桜」と「妻」をかけているわけです。妻に先立たれたわびしい思いがにじんだ、切ない一首ですね…。

この翌年、忠元は妻の後を追うように亡くなったのでした。

まとめ

  1. 島津四兄弟の祖父・忠良の時代から仕えた古参の家臣だった
  2. 「大指(親指)武蔵」と呼ばれるほど、島津家で屈指の武勇を誇った
  3. 長宗我部元親の息子を討ち取った後、使者に泣いて詫びた
  4. 豊臣秀吉に対して徹底抗戦を主張し、降伏した際もプライドを見せた
  5. 年齢により一線を退くが、心意気は現役と変わらなかった
  6. 85歳と長生きしたが、その死は主君たちにも惜しまれた
  7. 和歌に通じた教養人だった

戦国時代の島津氏の全盛を支えた新納忠元。単に強いだけではなく、敵さえ思いやる情を持ち、教養もあったということで、とても魅力的な武将ですよね。

こういう武将の存在が、戦国時代をより面白くしていくのだと感じました。

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