「俺は絶対に諦めん! 」打倒上杉に燃えた男・長尾景春、30年以上を戦い続ける

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関東が戦国時代に入るか入らないかの時期、執念深い武将がやたらと誕生します。鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)・成氏(しげうじ)親子もそうですが、それを上回るしつこさの武将がいたことをぜひお知らせしたいんです。それが長尾景春(ながおかげはる)。上杉を恨みに恨んで数十年、人生の半分近くを打倒上杉に捧げた人物です。諦めない心を持ち続けることが生きるモチベーションになること(良く言えば)を体現した彼の生涯、ご紹介しましょう。

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長尾氏と上杉氏

まずは、長尾氏と上杉氏について簡単にご説明しておきましょう。

長尾氏、上杉氏の下で家宰(かさい)を務めた家系です。家宰は当主に代わって家の一切を取り仕切る、とても重要な役目を担っていました。

主に、鎌倉(神奈川県鎌倉市)・足利(栃木県足利市)長尾氏、白井(群馬県渋川市)・総社(群馬県前橋市)長尾氏、越後長尾氏といった家系が有名です。越後長尾氏は越後の守護代であり、後に上杉謙信を生む家系です。

で、今回ご紹介する長尾景春は白井長尾氏の出身です。

 

一方の上杉氏ですが、山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と2つの家系がここでは登場しますよ。山内上杉氏の方がどちらかというと強く、関東管領職をほぼ独占してきました。長尾氏はこちらに仕えて家宰職を務めたんですね。

ただ、扇谷上杉氏の方も徐々に力を強め、太田道灌(おおたどうかん)が家宰を務めるころに大きくジャンプアップしてきたんです。

 

こんなことが背景にあるのを、頭に入れておいていただければと思います。

 

家宰になれなかった景春

嘉吉3(1443)年、長尾景信(ながおかげのぶ)の息子として誕生した景春。父・景信と祖父・景仲(かげなか)は山内上杉氏の家宰を務めた実力者でした。

将来的には家宰を継ぐものと思っていた景春ですが、文明5(1473)年に父が陣没し白井長尾氏の当主となると、運命が変わり始めます。

 

当時31歳の景春は、当然、家宰の役目も自分にやってくると思い込んでいました。

しかし、主君である関東管領・上杉顕定(うえすぎあきさだ)は、2代にわたって家宰を務めた白井長尾氏の力がこれ以上強くなることを良く思わなかったんですよ。そのため、白井長尾氏とは別流の総社長尾氏の当主・長尾忠景(ながおただかげ)を家宰に任命してしまったんです。忠景は景春にとっては叔父でしたが、総社長尾氏に養子に入っていたんですね。

 

さて、これで景春は顕定にも忠景にも大きな不満を持ちました。家宰という重職から得られる、経済的かつ政治的なうまみがまったくなくなったわけですから、まあ仕方ないと言えば仕方ありません。

しかし不満を持ったのは景春だけではなかったんです。

家宰というのは、当主の代理的な立場だけでなく領地も管轄していたんです。そのため、景春の祖父や父の代に領地を融通してもらった武士たちもまた、自分たちの領地が奪われるのではという不安を抱いたんですね。

 

これが、景春の反乱へとつながっていくことになりました。

 

長尾景春の乱と従兄弟・太田道灌

太田道灌:Wikipediaより引用

主君・上杉顕定に不満たらたらの景春は、反乱を企みますが、まず相談した相手がいました。それが、従兄弟にあたる太田道灌だったんです。しかし道灌は扇谷上杉氏の家宰でもあり、イエスとは言ってくれませんでした。

そして道灌は、顕定と自分の主君である扇谷上杉氏当主・上杉定正(うえすぎさだまさ)にこれを報告し、乱を未然に防ぐために懐柔策を取るべきと進言します。

しかし、顕定と定正は、当時関東で絶賛大暴れ中の古河公方・足利成氏を相手にするのに手いっぱいで、景春に構っている場合じゃないとそっけない対応。

 

こうして、野放しになった景春は反乱を起こしたのでした。「長尾景春の乱」です。

 

景春はまず、五十子(いかご/埼玉県本庄市五十子)で足利成氏と交戦中だった顕定を攻撃し、これを破って顕定を逃亡させるに至ります。これで、景春は成氏方に寝返った形となりました。

それからは反上杉を掲げる周辺豪族と結び、南関東一帯に戦線を拡大し、一大旋風を巻き起こしたんです。

 

しかし、そこに立ちはだかったのは、やはり太田道灌。

道灌は逃亡していた顕定や定正と合流して景春を破り、その勢いを止めたのでした。

 

加えて、長年続いた享徳の乱(きょうとくのらん)で疲弊してきた足利成氏と上杉顕定には「戦やめて和睦しようかな…」という思いが高まって来ていたため、景春は成氏の支援を受けられなくなってしまいました。

そして戦線を維持できなくなり、再び道灌に敗れた景春は、反顕定のために築城した拠点の城を奪われ、成氏の元に逃げ込むしかなくなってしまったんです。

 

景春の執念その①長享の乱

しばらくは足利成氏の下で地味に仕えていた景春ですが、その胸に燃え盛る「打倒・上杉顕定」の炎の勢いは衰えるどころか強まる一方でした。

 

ちょうどこの頃、扇谷上杉氏家宰として辣腕を振るっていた道灌が、有能すぎたために主君・上杉定正に暗殺されてしまいます。

道灌が頑張ったおかげで力を強めた扇谷上杉氏ですが、今度は山内上杉氏がそれに危機感を持ち、足利成氏の享徳の乱では協力していた両家が対立するようになってしまいました。

そして起きたのが、長享の乱(ちょうきょうのらん)なんです。

 

それを景春が黙って見ているわけもなく、彼はすぐさま兵を率いて参戦しました。

付いたのは、上杉定正側。

本来なら山内上杉氏に仕えていた彼が、顕定憎しのあまり扇谷上杉氏に付いたんですね。それほどまでに恨んでいたんですね…怖!

 

こうして、鬱憤を晴らすかのように景春は顕定の軍を破ったのでした…めでたしめでたし。

 

…というわけにはいきません。

上杉定正が急死してしまうと、景春を支援していたはずの古河公方・足利政氏(あしかがまさうじ/成氏の子)は、顕定を和睦してしまったんです。元々、定正と政氏の関係も良くなかったためでした。

しかも景春は、あくまで政氏に従おうとする息子・長尾景英(ながおかげひで)とも対立することとなってしまったんです。

 

親子でも争うようになりはしたものの、いまだ「打倒顕定」を掲げてやる気満々だった景春。

が、扇谷上杉氏が山内上杉氏に降伏・和睦して長享の乱が終結してしまうと、またも戦いを続けられなくなってしまいました。

 

景春の執念その②またもや挙兵す

やむなく降伏した景春は、なんとその後は顕定に仕えたそうです。屈辱ではあったでしょうが、顕定も顕定で、よく許したなと思いますよ。

 

だがしかし!

景春がそう簡単に諦めるわけがないのです。

 

永正6(1509)年、顕定の弟で越後守護だった上杉房能(うえすぎふさよし)が、越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)に殺害されるという事態が発生しました。この長尾為景、上杉謙信の父に当たる人です。

 

弟を殺された顕定は、怒りに燃えて為景討伐に向かいます。

景春はそこを狙っていたんですよ。実は、為景や伊勢宗瑞(いせそうずい/後の北条早雲)と密かに盟約を結んでいたんですね。顕定に仕えるフリして、ウラではしっかり反乱の準備をしていたんです。どこまで執念深い。

 

しかしこれも結局はうまくいかず、景春は甲斐(山梨県)へ逃亡することとなりました。その後もう一度復帰を図りますがやはり成功せず、駿河(静岡県)の今川氏に身を寄せ、永正11(1514)年、おそらく諦めることのないまま72歳で亡くなったのでした。

 

反乱を続けること30年以上。その執念、すごいとしか言いようがありません。

 

まとめ

  1. 長尾氏は上杉氏(山内)の家宰をつとめる家柄だった
  2. 主君・上杉顕定によって家宰になることができず、深く恨んだ
  3. 不満を抱いて乱を起こすが、太田道灌に鎮圧された
  4. 長享の乱に参戦して顕定を破るも、乱自体が終結してしまい戦を続けられなくなる
  5. それでも再度挙兵し顕定に対抗するが、うまくいかずに結局亡命生活を送った

 

結局、景春の反乱によって山内・扇谷の両上杉氏の力はかなり衰えることとなり、伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭を招くこととなったわけです。そういう意味では、景春は復讐を果たせたのかな…とも思いますね。

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