龍造寺の懐刀・鍋島直茂、有能すぎていつの間にか主家乗っ取りに成功!?

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下剋上は戦国時代では珍しくないことですが、主を亡き者にせずに実権を掌握し、しかも時の政権にそれを認められていた例ってあまりないかもしれません。

そのレアケースが鍋島直茂(なべしまなおしげ)。

龍造寺家の重臣でありながら、豊臣・徳川政権に認められて実権を掌握した有能な人物でした。

さて、彼のちょっと変わった下剋上の生涯を見ていくことにしましょう。

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龍造寺隆信とはイトコにして義兄弟

龍造寺(りゅうぞうじ)家の重臣である鍋島清房(なべしまきよふさ)の二男として、天文7(1538)年に誕生した直茂。幼い頃は龍造寺家の命令によって別の家に養子に出ていました。しかし、龍造寺家と他の家のゴタゴタが起きている間に鍋島家に戻ります。

 

この後、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が当主となると、その実母の慶誾尼(けいぎんに)が、なんと直茂の父・清房の元に押しかけ女房となったんですよ。清房と直茂が将来的に龍造寺家にとって重要な人物となると彼女が見込んでいたためだと言いますが、このお母さんスゴイですよね。

 

こういうわけで、直茂と主君の隆信は義兄弟の間柄となったというわけです。元々イトコ同士でもあったんですって。

 

血縁的にもつながりが深くなったこの主従ですが、信頼関係という絆においても強いものがあったそうです。一時は「龍造寺の仁王門」と呼ばれ、とても仲が良かったそうですよ。

 

龍造寺隆信の右腕として活躍

龍造寺隆信:Wikipediaより引用

この頃の龍造寺隆信は、急速に勢力を拡大しているところでした。やがて「肥前の熊」と呼ばれる彼の快進撃が始まっていたのです。そしてもちろん、その影には直茂の支えもありました。

 

元亀元(1570)年、隆信の勢いに危機感を抱いた大友宗麟(おおともそうりん)が進攻し、今山の戦いが起きました。

当時はまだまだ九州の雄だった大友宗麟が相手ですから、到底勝ち目はないわけです。しかも相手は大軍であり、まともに戦うことができるわけもありませんでした。

鍋島直茂:Wikipediaより引用

その中で、直茂は夜襲を提案します。難色を示した龍造寺陣営でしたが、慶誾尼の一喝などもあってこれが採用され、直茂は500余りの手勢を率いて出発しました。

まずは敵方に鉄砲を撃ち込み、「寝返りが出たぞ!」と誤報を流します。すると、楽勝ムードで気を緩めていた大友方は大混乱に陥り、直茂はこの隙を逃さず総大将以下2千余りの敵兵を討ち取ったのでした。

 

この功績により、直茂は龍造寺陣営でも一目置かれる存在となったんです。

 

やがて大村氏や有馬氏を降して肥前統一を成し遂げた隆信は、ほどなくして隠居し息子の政家(まさいえ)に家督を譲ります。この時、後見を託したのが直茂でした。それほど直茂への信頼は厚く、隆信は「自分の死後は何事も直茂に相談せよ」との言葉を残しているくらいです。

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主君との確執、そしてお家最大のピンチ

しかし、隆信は元々猜疑心の強い人物で、それが徐々にひどくなっていきました。家臣を謀殺したり、その一族を皆殺しにしたりするなど、冷酷な面が際立ってきていたんです。加えて、酒色に溺れることもあり、「肥前の熊」の面影はだんだんと薄れつつあったんですよ。

そんな主君に対して、直茂は臆することなく何度も諫言をしましたが、聞き入れられることはありませんでした。殺されなかったのは信頼関係があればこそだったのでしょうが、やがて隆信は直茂を疎んじるようになります。そして、筑後を任せるとして直茂を自分のそばから遠ざけてしまったのでした。

 

そして天正12(1584)年、龍造寺軍と島津軍が激突した沖田畷(おきたなわて)の戦いにおいて、隆信は圧倒的兵力を持ちながらも討ち取られてしまったんです。「島津は戦上手だから、自分が先陣を切って様子を探る」と提案した直茂の意見を聞かなかった結果でした。

 

突然、主を失った龍造寺家は揺れに揺れました。

直茂も例外ではなく、後を追って自害までしようとしましたが、周囲に止められます。

死を思いとどまった彼は、次に必死で主家を守ることに尽力したんです。

 

合戦の後、島津方は隆信の首を持ってやって来ましたが、なんと直茂は「こんな不運の首を持ってこられても困るので、どこにでも捨ててくれ」とこれをはねつけます。その裏には、島津が国情を偵察に来たのだから強い態度で臨まなければならないという覚悟があったんですね。

 

直茂のこうした強気の姿勢に、島津側もさすがにそれ以上攻め込んでくることはできませんでした。

 

いつの間にやら実権掌握

一応、島津に恭順することにした龍造寺家ですが、その裏で直茂は密かに時の権力者・豊臣秀吉に通じていました。九州征伐は大友宗麟が秀吉に助けを求めて起きたわけですが、一方で直茂もまた秀吉に要請をしていたんですよ。

そして秀吉の軍勢が九州に入ると、直茂はすぐに島津方から離脱し、反対に島津攻めの先陣を切りました。

こうした姿勢は秀吉に大きく評価され、九州征伐完了後は独自に領地をもらい、その上龍造寺家の執政を命じられたんです。当主の政家の立場はいったい…というところですが、直茂の有能さは誰もが認めるところだったんですね。時の政権からちゃんと認められちゃってるんですから、誰も文句は言えなかったわけです。

 

朝鮮出兵にも、直茂は龍造寺家の兵を率いて参加します。すでに龍造寺軍ではなく鍋島軍の様相を呈していますが、あくまで直茂は龍造寺家のためにという思いで軍を仕切っていました。

しかし、こうした様子から、直茂が下剋上をして龍造寺家を乗っ取るのではないかという噂が立ちます。直茂が政家を毒殺するのでは、なんて話も出てきて、直茂はそれを全否定する起請文まで出す羽目になりました。

 

関ヶ原での立ち回り、そして龍造寺家からの禅譲

 

関ヶ原の戦いにおいて、直茂は早くから東軍の勝利を見込んでいました。しかし誤算が生じます。息子の勝茂(かつしげ)が、西軍に加担してしまったんですよ。

これはまずいと、直茂は本戦前になんとか勝茂を西軍から離脱させ、徳川家康に対しては穀物を買い占めて献上するなど根回しをしました。そして、九州における西軍勢力への攻撃を開始し、久留米城や柳川城を開城させ立花宗茂(たちばなむねしげ)らを降伏させました。

こうした直茂の功績により、勝茂はお咎めを受けることはなく、鍋島家の領地も安堵されたんです。

龍造寺高房:Wikipediaより引用

しかし、ほぼ忘れられた存在となった龍造寺家、特に政家の息子である高房(たかふさ)はさらに面白くなかったようです。幕府に対して龍造寺家の実権回復を訴えた高房ですが、幕府の答えは「逆に鍋島家にちゃんと譲った方がいいんじゃない?」というものでした。しかも、龍造寺一族の中にも賛成者がいたので、結局、龍造寺家は正式に鍋島家に政権基盤すべてを譲ることになったんです。

 

ところが、これに我慢できなかったのが当の高房でした。

彼は直茂の養女である自分の妻を殺害し、自殺を図ったんです。抗議の意味をこめてのことでしょうが、およそ戦国大名らしからぬドロドロしたやり方ですよね。

一応、高房は一命を取り留めましたが、直茂は彼のやり方にショックを受け、同時に腹を立てたようです。

直茂が龍造寺家に提出した「おうらみ状」には、「今まで敬意を払って一生懸命尽くしてきたのに、このやり方はまるで当てつけではありませんか!」という直茂の憤懣やるかたない心情がつづられています。

この後すぐに高房は再び自害を図って死んでしまうのですが、なんとも後味の悪い禅譲劇となってしまいました。

 

81歳の長寿のウラに「鍋島化け猫騒動」の伝説

元和4(1618)年、直茂は耳にできた腫瘍が元で病没します。

当時としては長命の81歳の生涯でしたが、腫瘍の痛みに苦しんだ最期だったため、これが高房の恨みによるものだとして「鍋島化け猫騒動」の伝説が後にでき上がったんですね。

高房が飼っていた猫が、彼の死後に化け猫となって直茂に祟ったというアレです。まあ、根も葉もない作り話ではあるんですが、この話で「鍋島家」という名を知った方もけっこういるんじゃないかと。

 

実権を奪ったと言われましたが、龍造寺家が置かれた実状を考えると直茂による実権掌握は仕方のない状況でした。そして、それだけの才覚が直茂にはあったんです。誰がどう見ても、龍造寺政家や高房よりも直茂の方がトップに立つべき人物でした。

 

そんな直茂を見込んで押しかけてきた隆信の母・慶誾尼の眼力は、正しかったんでしょうね。

 

まとめ

  1. 龍造寺隆信とはイトコであり義兄弟だった
  2. 大友軍への夜襲を成功させ、隆信から信頼されていた
  3. 度々の諫言により遠ざけられたが、隆信の死後は龍造寺家を守るため奮闘した
  4. 龍造寺家の執政となり、実権を掌握した
  5. 龍造寺家から正式に禅譲を受けて政権を確立した
  6. 「鍋島化け猫騒動」のモデルでもある

 

龍造寺隆信の補佐役が、いつのまにか主家に取って代わって肥前佐賀藩の藩祖に…。この後、佐賀藩は明治維新でも存在感を示します。直茂の有能さは、後世にまで伝わっていたんでしょうね。

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