この人が小早川家を継いでいれば、未来は違った!?毛利家屈指の若き名将・毛利秀包

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基本的に、毛利元就(もうりもとなり)の子供たちはみんな名将なんですが、そんな名将揃いの毛利一族の中でも、毛利秀包(ちょっとマイナーな知名度ではありますが)の武勇はピカイチでした。本来は小早川家を継ぐはずだった彼。しかし、諸事情(ある意味「忖度」)によって、彼の運命は時代に翻弄されていくこととなります。きっと誰もが「この人が小早川家を継いでいれば…!」と思うはずの秀包の人生について、ご紹介しましょう。

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毛利元就の九男として誕生

 

時は永禄10(1567)年、奈良では東大寺大仏殿が戦国きってのダークヒーロー・松永久秀に焼き討ちされていた頃、比較的平和な中国地方で秀包は生まれました。便宜上、名前は「秀包」(ひでかね)で統一しますね。

父は毛利の頭領・元就、母は乃美大方(のみのおおかた)です。

つまり、毛利家を支える「両川(りょうせん)」・吉川元春(きっかわもとはる)や小早川隆景(こばやかわたかかげ)の弟に当たるわけなんですが、何せ年が親子ほども離れており、長兄の隆元(たかもと)に至っては、すでにこの世の人ではありませんでした。後に養父となる兄の隆景とは34歳も離れていたんですよ。

 

武家の嫡子以外の常として、秀包もまた他家に養子に出されています。

実は、最終的に小早川家に至るまでに、大田氏や戸坂氏などいろんな家に迎えられていたんですよ。それで、天正7(1579)年に至ってようやく兄の小早川隆景の養子に迎えられたんです。母の乃美大方が小早川家に連なる家の出身だったことが大きかったみたいです。

それだけでなく、すでに秀包はこの年にして父・元就や次兄・元春の武勇を受け継ぐような片鱗を見せていたため、隆景がもらいうけたんだそうですよ。毛利家、どんだけ才能あふれまくってるんでしょうか。

毛利輝元:Wikipediaより引用

でも天下は取れない…というのは、誰のせいでしょう? て、輝元(てるもと)が…とは言わないでくださいね。

 

そして、秀包は兄・隆景の養子となり元服し、名を「小早川元聡(もとふさ)」としました。

 

秀吉のお気に入りとなる

天正10(1582)年の本能寺の変で織田信長が討たれると、彼の命令で中国地方の毛利勢力を征伐に当たっていた豊臣秀吉(当時は羽柴)は、すぐさま毛利方と和睦し、明智光秀を討ちました。

 

この和睦の証として、秀包と、吉川広家(きっかわひろいえ/元春の二男)が秀吉の人質として差し出されました。

しかし人質とは言っても、秀包は相当秀吉に気に入られたようです。その理由が「容姿が良かったから」と伝わっていますが…確か、秀吉はあまり衆道に興味がなかったようなんですけどね。とにかく相当気に入ったらしく、秀吉は「秀」の字を秀包に与え、この時から彼は「小早川秀包」となりました。

吉川広家:Wikipediaより引用

一方、一緒に人質となった広家は、翌年にさっさと帰されています。気に入らなかったのか…広家が結構な「うつけ」だったからなのか…。

おそらく、秀包はうまく立ち回ることもできたんでしょうね。知将として名高い養父・隆景の知謀を見ていたはずですし。

それでも、実母の乃美大方は心配だったようで、毛利家当主・輝元を通じ、早く息子を帰国させてほしいと秀吉に頼んでいたそうですよ。

 

鉄砲を操る名将へ成長

とはいえ、めでたく秀吉のお気に入りとなった秀包は、彼に従って多くの戦に参加しています。そこで父・元就や次兄・元春譲りの才能を発揮し、武功を挙げ、18歳にして早くも1万石の大名となりました。

 

特に、天正14(1586)年の九州征伐においては、養父・隆景に従って参戦し、鉄砲を駆使して一番乗りの武功を挙げたといいます。

そして、隆景が筑前(福岡県西部)と筑後(福岡県南部)に領地を得ると、秀包は筑後7万5千石を任されることとなりました。もう立派過ぎるほど立派な戦国大名となったわけです。

天正15(1587)年には久留米城を改修し、堀や天守をつくって立派な城としています。

 

この頃、秀包は嫁取りをしています。

相手は、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)の娘・桂姫。

実は彼女、父親の影響を受けてキリスト教を信仰しており、「マセンシア」という洗礼名も持っていました。すると、秀包は彼女の影響を受けて改宗しちゃったんですよ。洗礼名は「シマオ」。この時点で彼は「小早川シマオ」になったんです。

しかも、天主堂(いわば教会とか礼拝堂です)を城下につくり、当時の信者は7千人にのぼったといいます。

 

そしてやはり、毛利家ならではの「正室大好き」が秀包にも受け継がれていたようで、側室を持ったという記録はないようです。

父・元就は正室が亡くなるまで次の妻を持ちませんでしたし、次兄・元春や養父・隆景も正室ひとすじでした(輝元は別です)。

毛利輝元:Wikipediaより引用

これって本当にポイント高いですよね。女子に優しい毛利家、素敵です(輝元は別)。

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立花宗茂との熱い友情

立花宗茂:Wikipediaより引用

ところで、九州に領地を得た秀包は、この時親友とも呼べる人物に出会いました。

名将・立花宗茂(たちばなむねしげ)です。

 

彼らの出会いは、天正15(1587)年に起きた、肥後(熊本県)国人一揆征伐の時でした。

肥後国人一揆とは、九州征伐の結果、秀吉が肥後に派遣した武将・佐々成政に従うのを拒んだ土着の豪族たちが起こした一揆です。

秀包は討伐軍の総大将に任命されました。それだけ、秀吉に信頼されていたということもでもありますね。

 

この討伐軍に加わっていたのが、九州でも屈指の名将・立花宗茂でした。

秀包と宗茂は同い年ということもあり仲良くなり、義兄弟の契りを結ぶほどウマが合ったようです。

 

また、2人共そろって秀吉のお気に入りであり、羽柴姓だけでなく豊臣姓までも授けられています。豊臣姓を与えるというのは、相当秀吉が相手を高く買っているか気に入っているかということでした。

 

この最強親友コンビは、後に朝鮮出兵でも大活躍します。若き名将2人がそろって戦場に在るというのは、もうワクワクしますね!

 

突然の廃嫡!!小早川家の運命が狂った日

しかし、時が不穏に動き出します。

文禄2(1593)年、待望の実子・秀頼が生まれた秀吉は、今までに迎えていた養子たちの存在が、正直、邪魔になったようです。

 

そして翌年、養子のひとり・羽柴秀俊(はしばひでとし/後の小早川秀秋)を、当時まだ子供がいなかった毛利家当主・輝元の養子にどうかと、毛利重臣であり秀吉も信頼していた秀包の養父・隆景に打診してきたのでした。

この時、隆景は「このままでは毛利に縁もゆかりもない輩に主家を乗っ取られる」と察し(とはいっても毛利元就もこの方法でいっぱい乗っ取ってますが)、「ならば、実子のいない自分にもらいうけたい」と返事をしてしまったんです。

 

こうして、将来の小早川家を背負って立つはずだった若武者・秀包は、廃嫡されてしまうこととなったのでした。

いったい、彼の内心はどんなものだったのでしょう。そして、「あの」小早川秀秋が来ていなければ、小早川家はあんな末路を辿ることはなかったかもしれないんですよね…。

 

関ヶ原の戦い:「あの」秀秋の裏切りがすべてを狂わせた

小早川秀秋:Wikipediaより引用

秀吉の死後、実権を握りかけた徳川家康に反発した石田三成を中心とした西軍が挙兵。家康側を東軍として、関ヶ原の戦いが起こりました。

 

毛利当主の輝元が西軍の総大将だったため、当然、秀包は西軍として参戦します。すでにこの時、養父・隆景は亡くなっており、小早川本家は秀秋の指揮下に入り、分家となった秀包とは別の隊でした。

 

そのため、秀包は親友・立花宗茂と共に、前哨戦の大津城の戦いに臨みます。

ここでは城を開城させ勝利をおさめましたが、この戦いに参加したために、2人とも本戦に間に合わなかったんですよ。そして、関ヶ原本戦は、小早川秀秋の裏切りによって形勢が逆転し、西軍の敗北に終わったのでした。

 

関ヶ原に急ぐ途中で、秀包は秀秋の裏切りの報に接したはずです。心中、いかばかりだったでしょうか。しかも、親族である吉川広家まで東軍に内通し、裏切らずとも軍をまったく動かさなかったというんです。広家にも彼なりの考えがあり、毛利本家を守るためにしたことだったんですが、秀包の胸中を思うと、言葉がありません…。

 

親友との決別、若すぎる死

西軍敗北の報に接した秀包と宗茂は、総大将でもある毛利輝元に大坂城での籠城戦を提案しましたが、却下され、西軍の敗北は確定しました。

立花宗茂:Wikipediaより引用

そして九州へと撤退する途中、宗茂が秀包に向かって、「共に九州で挙兵しよう」と誘います。

しかし、秀包は首を縦に振りませんでした。「私は毛利家の家臣だから、そんなことはできない…」と。彼の胸の内には、本家をおろそかにしてはならないという元就の教えが生きていたんですね。だからこそ、義兄弟の契りまで結んだ親友の提案に賛同できなかったんです。

こうして、2人は決別することとなったのでした…。

 

関ヶ原の戦いの後、多くの西軍大名が改易(領地没収)されました。秀包ももちろん改易処分となり、九州の領地を失います。毛利本家も同様で、大部分の領地を没収され、周防・長門(すおう・ながと/山口県)のみの領有となってしまいます。

秀包は長門の地に所領をもらいますが、この時、毛利姓に復帰し剃髪しています。もちろんそれは、あの秀秋の裏切りに対する世間の風当たりがあまりに強く、その余波が秀包にも及びかねない状態だったからなんです。

 

その頃から病がちとなったといい、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6(1601)年に、秀包は35歳の若さで亡くなりました。

 

病死とされていますが、逸話として、彼の死には決別した立花宗茂が関わっていると伝わっています。

共に戦おうという提案を断られた宗茂が、秀包の船に向かって鉄砲を撃ち込み、その時に負った傷が元で秀包は死んだというもの。

逸話ではありますが、これが本当だったらあまりに悲しく、切なすぎます…。

 

まとめ

  1. 毛利元就の九男として生まれた
  2. 容姿が良く武勇にすぐれ、豊臣秀吉のお気に入りとなった
  3. 戦場では鉄砲を操る名将となり、家では愛妻家だった
  4. 立花宗茂とは大親友だった
  5. 小早川秀秋が迎えられたため、廃嫡された
  6. 関ヶ原の戦いでは本戦に参戦できず、秀秋の裏切りに愕然とする
  7. 親友・立花宗茂と決別した後、若くして病没

 

小早川秀秋は、あの裏切りのせいで世間の非難を浴び、やがて間もなく病死し、小早川家は断絶しています。

 

もし秀包が小早川家を継いでいたら、こんなことにはならなかったかもしれない…と思ってしまいますね。

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