立身出世物語や強大な敵に立ち向かうヒーローには、どうしたって憧れてしまいませんか? 今回ご紹介する神代勝利(くましろかつとし)もまた、その要素を2つ持ったヒーローなんですよ。戦国時代の九州・肥前(佐賀県・長崎県)において、躍進著しい龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に対抗し続けた彼の姿は、今も地元の人々から尊敬を集めています。それでは、性格の豪快さも魅力的な神代勝利の生涯をご紹介しましょう!
夢を買った男
とある豪族の家に厄介になっていた若者が2人。
ある朝、ひとりがもう片方にゆうべ見た夢の話をしたそうです。
それは、彼の体がどんどん大きくなり、山を枕にして海に足を浸し、やがて龍になったというものでした。
夢を見た若者は、これはいい夢なのか悪い夢なのかと同室の若者に尋ねました。
すると、黙って聞いていたその若者は、こう答えたのです。
「正直、よろしくない夢だが、それは人に売れば吉となる。だから俺が買い取ってやろう」
こうして、夢の売り買いが成立したのでした。
夢を買った若者の名は、神代勝利。
この時はまだ何者でもありませんでしたが、やがて彼はここから立身出世の道を歩むことになるんです。
古代日本から続く家柄
武内宿禰:Wikipediaより引用
神代氏は、日本書紀や古事記に登場する古代日本の人物・武内宿禰(たけうちのすくね)の末裔とされています。宿禰の並外れた知謀が「神に代わる」ほどのものだとして、「神代」姓を与えられたんだそうですよ。そして、筑後の高良大社(こうらたいしゃ/福岡県久留米市)の宮司を代々つとめてきたという、とても由緒ある家だったんです。
ところが、勝利の父は周辺豪族との争いに敗れて没落してしまい、肥前へ移り、そこで生まれたのが勝利でした。永正8(1511)年のことになります。
落ちぶれた家に生まれた勝利ですが、金はなくても才能がありました。特に剣術の腕は素晴らしく、14歳で武者修行の旅に出た後、旅先で500人もの弟子を持つまでになったんですよ。
それを耳にしたのが、三瀬城(みつせじょう)主・三瀬宗利(みつせむねとし)でした。彼はすぐさま勝利を招き、剣術師範として迎えると申し出たんです。勝利に断る理由はありませんでした。
勝利の強さを改めて目にした宗利は、勝利こそ山内(さんない)二十六ヶ山を束ねるにふさわしい人物だと思い始めます。
「山内」とは、福岡県と佐賀県の県境付近にある脊振山地(せふりさんち)の山間部に存在した26の「山(村、集落)」のことでした。
当時は多くの戦乱が発生し、山内もそれに対応するのに苦労していたんです。
そんな山内の苦境を、勝利なら打開してくれるはずと宗利は見込んだのでした。
こうして、とんとん拍子に話が進み、勝利は山内二十六ヶ山の総大将として正式に迎えられ、宗利から三瀬城も任されることになったんです。
まさに自力で勝ち取った成功でした。
夢を買い取ってから間もなく、彼は出世の糸口をつかむことになったわけです。
龍造寺隆信との因縁の始まり
龍造寺隆信:Wikipediaより引用
勝利が主と仰いだのは、少弐冬尚(しょうにふゆひさ)でした。少弐氏は名門でしたが、この時はすでに斜陽化しており、それを家臣団が支えて何とかやっていけるような状態でした。その家臣たちが、龍造寺氏、馬場氏、勝利の神代氏だったんですよ。
ただ、この中では龍造寺氏の勢いがずば抜けていました。だんだん主の少弐氏を凌駕するようになってきており、それに危惧を感じた少弐冬尚は、馬場氏や勝利らと共謀して龍造寺一族の排除を決行したんです。簡単に言うと、謀殺でした。
この時、龍造寺周家(りゅうぞうじちかいえ/隆信の父)が殺されています。
ここから、勝利と龍造寺隆信の遺恨が始まったのでした。
やがて家督を継ぎ、龍造寺家の主となった隆信は、肥前統一へと邁進します。
その中で、いまだ少弐氏に忠誠を誓い、何かと反抗する勝利は彼にとって目の上のたんこぶ的な存在でした。親の仇でもあるわけですから、それこそ目の敵にし、何度も兵を送り込んでは勝利を倒そうとしましたが、勝利はそれを実にうまくかわしていったんです。
それは、山内二十六ヶ山の総大将だからこそできるワザでした。
ゲリラ戦で隆信を翻弄
脊振山地の真っただ中にある山内は、大軍で攻めてきてもほぼ意味を成しません。細く入り組んだ道と山という地形は、外部の者を徹底的に受け付けなかったんですね。
そのため、ここを知り尽くした勝利が取った作戦は、ゲリラ戦でした。
神出鬼没の神代軍に対して、龍造寺軍は苦戦の連続。
これではたまらんと、隆信はやむなく和睦を申し込んできました。
それを受けた勝利は和議の場に赴きますが、隆信が一筋縄でいくような人物ではありません。彼は毒殺を企んでいたんです。
しかし、勝利の家臣の機転によって、勝利は毒殺を免れました。
ただ、ここでさっさと帰らないところが勝利の豪快なところです。
たらふく食べて飲んで、帰り際には突然、隆信の愛馬に飛び乗ると、悠々と走り去ったというんですよ。カッコ良くないですか?
でもまあ、こんな感じなので、当然両者の対立は再燃してしまいます。
隆信の執念も、まあよくここまでやるなという感じで、間者を使いまくって情報収集を重ね、ようやく山内での勝利の居場所を突き止めたんですよ。そしてそこを急襲したため、勝利は何もできず、山内を捨てて筑前(福岡県西部)へと落ち延びる羽目になってしまいました。
華麗なる山内復帰と小河信安
しかし、これで終わるような勝利ではありません。
すぐに再起をはかり、手勢を率いて自分の旧領にちゃっかりおさまっていた龍造寺方の代官を急襲し追い出すと、その勢いのまま三瀬城も奪い返し、鮮やかに山内復帰を果たしたのでした。
勝利はこのまま龍造寺方の城・春日山城(かすがやまじょう)を落とそうと考えますが、これはなかなかうまくいきません。ここを守る龍造寺の家臣・小河信安(おがわのぶやす)は、勝利討伐に最も熱心な人物であり、なかなかの名将でした。
さて、この小河信安ですが、勝利とかなり変わった対面をしています。
ある時、信安は勝利を暗殺しようと、単身で勝利の城へと忍び込み、湯殿(ゆどの/お風呂)に潜んでいました。
すると、侍女がそれを発見し、宴会をしていた勝利のところへ駆け込み「湯殿に大男がおります! 」と知らせてしまいました。…っていうか、湯殿にいたら普通に見つかるでしょ!
それを聞いた勝利は、慌てる様子もなく、「そんなことをする奴は小河しかおらん。まあここへ呼べ」と、敵である信安を連れてこさせたんです。
信安も胆の据わった男で、悪びれる様子もなく堂々と案内されてくると、平然と酒をよばれて帰って行ったそうですよ。
信安との一騎打ち
そんな小河信安が、春日山城を留守にしているという報せが入りました。
「好機逃すまじ! 」と、勝利は一気に攻め込み、留守役だった信安の弟以下、小河一族を討ち取り、春日山城をモノにすることに成功したんです。
一方、この報せに接した信安は仇討ちに燃え、出陣してきました。
すると、なぜか勝利は自ら斥候(せっこう/偵察役)をすると言い出して出発。大将が斥候やっちゃまずいですよね…。そしてどうして誰も止めないのか…もはや止める気もないのか。
で、信安とはいうと、仇討ちで頭がいっぱいになって先走ったのか、ほぼ単騎で先行してきたんです。誰か止めなよ、ホントに!
こうして、両者は当然のごとく鉢合わせしたんです。
馬一頭くらいしか通れない山道だったそうで、お供も加勢できず、主たちの一騎打ちを見守ることしかできませんでした。
剣術の達人・勝利と仇討ちに燃える信安の戦いは、白熱したものだったと言います。
しかし、最終的に勝利が信安を倒し勝利を収めたのでした(シャレではないです)。
龍造寺隆信の果たし状
小河信安を失った龍造寺隆信は、ひどく嘆き悲しみ、そして勝利への憎しみを新たにしました。
そして永禄4(1561)年、勝利のもとに隆信からの果たし状が届けられたんです。山でこそこそやってないで、平地に出てこいと。
そんな、応じるわけないでしょ…と思いますよね? しかし、勝利はこれに応じたんです。
返答は、「かねてより望むところ」。か、カッコいい…!!
こうして、神代軍7千、龍造寺軍8千が川上峡(かわかみきょう/佐賀県佐賀市)で対峙し、雌雄を決する戦いが始まったのでした。
戦は激戦となり、どちらが優勢とも知れないまま時間が過ぎていきました。
しかし、ここでとんでもないことが起こります。
勝利の三男・周利(ちかとし)が、突然味方によって殺されてしまったんですよ。戦の真っ最中に謀反が起きたのでした。
これで軍は崩れ始め、混戦の中で二男・種良(たねよし)と四男・惟利(これとし)も討死してしまいます。
これは、神代軍にとっては壊滅的なダメージでした。
勝利は軍を退き、長男の長良(ながよし)と共に再び落ち延びていったのです。
和睦、そして龍造寺への服従
山内に残っていた家臣の手引きで、翌年には山内に復帰を果たした勝利ですが、もはや龍造寺隆信に対抗する力は残っていませんでした。
ただ、隆信の方でも、勝利を完全に攻略するのは無理だという思いが強まったんです。
このため、長良の娘と隆信の三男の結婚を取りつけ、和睦を結ぶこととなりました。
それから3年後、勝利は病没します。
その後、やはり隆信は和睦を破り、勝利を失った神代氏への攻略を開始。
長良は降伏し龍造寺家臣となって一生を終え、家系は後の佐賀藩主鍋島家に連なる一族として続いて行ったのでした。
まとめ
- 夢を買い取るという逸話がある
- 強さを見込まれ、山内二十六ヶ山の総大将となる
- 龍造寺隆信とは因縁の仲だった
- ゲリラ戦で龍造寺軍を手玉に取った
- 敵将・小河信安との逸話があり、度量の深さが伝わっている
- 小河信安と一騎打ちの末、討ち取った
- 龍造寺隆信との決戦では、味方の裏切りにより敗れた
- 和睦を結ぶも、勝利の死後攻め込まれ、神代氏は龍造寺家臣となった
結局、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信でさえも、勝利を完全に打ち負かすことはできなかったわけです。勝利の強さと人間的な大きさには、とても心惹かれるものがありますよね。
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