主に忠誠を捧げるあまり息子たちを皆殺しにしそうになった名将・甲斐宗運

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主君に忠誠を捧げる武将ってカッコいいものと相場が決まっているものですが、行き過ぎると自分の身内でさえ容赦なく切り捨ててしまうこともあるわけですから、それもまた困ったもの。甲斐宗運(かいそううん)は、そんな武将の筆頭格。その佇まいたるや、武将の鑑といってもいいんですが…でもやっぱり家族も大切にしましょうね、という話です。ではご紹介しましょう。

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阿蘇命! を叩き込まれてやがて家老に

甲斐宗運(親直/ちかなお)が生まれたのは、永正5(1508)年とも、永正12(1515)年とも言われています。父の代から阿蘇氏の筆頭家老という家柄でした。

 

この阿蘇氏ですが、肥後(熊本県)の阿蘇神社の大宮司を古来よりずっとつとめてきた家です。由緒だけならその辺の戦国武将なんか足元にも及ばないお家なんですが、そこに仕えた甲斐氏、そこに生まれた宗運は、もはや「阿蘇命! 」を幼い頃からたたき込まれてきたわけですね。

 

天文10(1541)年、阿蘇氏に反旗を翻した御船房行(みふねふさゆき)を、阿蘇氏の世継ぎ・阿蘇惟将(あそこれまさ)を補佐して討伐すると、宗運はその功績として御船城(みふねじょう/熊本県御船町)を与えられました。

 

この直後に剃髪して正式に「宗運」となるんですが、こんなのも形だけでしょ…と思わせるくらい、宗運の本領発揮はこれからなんです。阿蘇氏を守り、存続させるために尽力した彼は、この目的のためなら身内でも一切容赦することはありませんでした。

 

刀を盗んだ婿を誅殺

 

宗運には、隈庄守昌(くまのしょうもりまさ/甲斐守昌とも)という娘婿がいました。ある時、彼が宗運の持っている脇差を欲しがったんです。いい度胸してますね。しかしというか案の定、これは阿蘇氏から拝領した命より大事なものだからと宗運はきっぱり断りました。

しかし諦めきれない守昌は、宗運の娘である自分の妻に頼んで、その脇差を盗み出させてしまったんですよ(妻が夫を察して自発的に盗んだとも)。

さて、宗運が怒るのはもっともなわけですが、守昌は事が露見して怒りを買うのを恐れて、島津氏への離反を考えたんです。

それなら最初から盗まなきゃいいのに…と思いますが、結局バレてしまい、守昌は宗運に討伐されてしまいました。しかも、一族みな誅殺という末路付き…ちょっと我慢しておけばよかったのに。

 

さて、当時は薩摩(鹿児島県)の島津、豊後(大分県)の大友、肥前(佐賀県)の龍造寺と三強が割拠していた九州。

この中を何とか阿蘇氏に泳ぎ切ってもらうべく、家老としての宗運は外交面でも活躍し、まずは大友氏に接近しました。

ただ、天正6(1578)年に耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗したため、肥後で様子をうかがっていた豪族たちはみな島津氏や龍造寺氏に付いてしまったんです。その豪族たちが阿蘇氏打倒の兵を挙げたんですから、阿蘇氏としては大ピンチ。

しかし、そこで登場したのは宗運でした。息子の親英(ちかひで)と連合軍を迎撃し、夜襲をかけて大勝利を収めたんです。

 

息子の舅一族皆殺し、自分の息子たちも成敗!!

反阿蘇氏の連合軍をこてんぱんに叩きのめしはしたものの、阿蘇氏から離反する豪族は後を絶ちませんでした。その中には、宗運の息子・親英の舅である黒仁田親定(くろにたちかさだ)も含まれていたんです。

それを知った宗運、もちろん阿蘇氏に背くものを許しはしません。黒仁田一族を皆殺しにしてしまいました。ただ、覚えておいていただきたいのは、父を殺された娘…すなわち親英の妻のこと。彼女が宗運の最期に関わってくることとなります。

 

それでもまだ、阿蘇氏の内部には背信を企む勢力が残っていました。しかも何と、その中には宗運の二男・三男・四男が含まれていたんです。

しかし宗運にとっては、阿蘇氏転覆を図る者には死しかありません。そのため、3人の息子たちを自ら成敗しちゃったんですよ。

 

こんな父を見ていたため、長男の親英は恐怖と憎しみを抱き、父を暗殺しようとまで思うようになります。そこで龍造寺氏への接近を図ったわけですが、すぐに宗運に察知され捕らえられてしまいました。宗運はもちろん殺そうとしたんですが、家臣たちが必死の助命嘆願をしたので渋々思い止まります。とはいっても、親子の間に深い溝が残ったことは否めませんでした。

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すべては阿蘇氏のため! 親友との決別

阿蘇氏存続のため外交工作を続ける宗運は、この頃、弱体化した大友氏に見切りをつけて龍造寺氏とのパイプ作りへと鞍替えします。一方、南からは勢い盛んな島津氏が進攻してきていました。

相良義陽:Wikipediaより引用

ここで、宗運の親友である相良義陽(さがらよしはる)は、島津の圧力に負けて降伏します。すると島津はすぐに、相良に阿蘇氏攻めを命じたんですよ。

宗運と相良義陽は、相互不可侵を神に誓うほどの間柄でした。そのため、2人は共謀し、相良が出兵を偽装して島津の軍を引き入れたところで一気に討つという作戦を取ろうとも話し合っていたそうです。

しかしその作戦もうまくいかず、相良はあえて、四方すべてがひらけた守りに適さない場所に布陣したのでした。

 

これを聞いた宗運は、まさか相良がそんなことをするわけがないとすぐには信じませんでした。しかしそれが本当だと知り、相良の覚悟を知って天を仰いだそうです。もう、2人は刃を交える以外にありませんでした。

 

相良はその戦いで戦死し、宗運は親友の首を前に涙します。いくら阿蘇氏のためとはいえ、身内でさえも死に追いやって来た宗運。親友までもがこうなるとは、さすがにショックもあったんでしょうね。

 

この戦いについては、共謀を誓うも相良を信じ切らなかった宗運が、相良の背後を衝いて攻め滅ぼしたという説もありますが…でもやっぱり、カッコ良く潔い話を信じたくなります。

 

身内を殺し、身内に殺された? 宗運の死の謎

親友・相良義陽との戦いの後、宗運は島津と龍造寺の間で何とか阿蘇氏を支えました。天正10(1582)年には島津と和睦しますが、押したり引いたりの外交作戦で島津をほぼ手玉に取っています。

 

しかし彼もすでに70歳を超え、当時としてはとっくに老境を迎えていました。

天正11(1583)年(天正13年/1585年とも)、病没したと伝えられています。

 

ところが彼の死は、単なる病死でなく孫娘による毒殺だという説があるんですよ。孫娘とは何だか穏やかではありませんね。

では、思い出してみて下さい。かつて宗運が一族皆殺しにした黒仁田親定の娘は、宗運の長男・親英の妻でしたよね。

宗運は、黒仁田一族を殺す前に、彼女に父の殺害を恨まないという旨の誓いを立てさせていたんです。それもけっこうひどい話ですが、加えて宗運が息子たちを殺害し、親英まで手にかけようとしたのを見るに及び、親英の妻は「舅(宗運)はいつかきっと夫(親英)を殺すに違いない」と危機感を抱きました。

ただ、彼女自身は宗運を恨まないという誓いを立ててしまっている身。

そこで、彼女は自分の娘…すなわち、宗運の孫に宗運毒殺を命じたというんですよ。

以上が、宗運毒殺説の顛末でした。

 

宗運は「島津にはこちらから仕掛けず、天下を統べる者が出てくるまでは守りに徹せよ」との遺言を残していましたが、息子・親英は島津と戦って敗れ、降伏します。そして、宗運が何よりも守ろうとした阿蘇氏は、幼い当主が降伏・逃亡して戦国大名としての滅亡を迎えることとなってしまいました。

 

こうなることを、宗運はもしかしたら見通していたのかもしれませんね。

 

まとめ

  1. 阿蘇氏に仕え、阿蘇氏のために何でもするという忠臣だった
  2. 刀を盗み、阿蘇氏に背こうとした娘婿を誅殺し一族皆殺しにした
  3. 阿蘇氏に背いた息子の舅一族、実の息子3人もすべて誅殺し、長男も殺そうとした
  4. 阿蘇氏のため、敵対した親友も殺さなければならなかった
  5. 病没とされているが、孫娘に毒殺されたという説もある

 

主の阿蘇氏からすれば、これほどまでに忠義を尽くしてくれた宗運はかけがえのない家臣。しかし、誅殺された側からすれば、これほど非情な人物はいないといったところでしょうか。けれど、宗運が阿蘇氏に捧げた忠義は、戦国時代随一のものだったと思います。

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