国宝・松江城を築いた堀尾吉晴 秀吉に三度命をささげた仏の茂助

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2015年に国宝となった松江城を築城した戦国武将堀尾吉晴。地味な存在ながら、牢人から大名へと勝ち上がった戦国ドリームを叶えた武将です。

成功のヒケツは、秀吉と一緒にがむしゃらに戦って出世街道を驀進しながらも、決して謙虚さと実直さを忘れなかったその人となり。戦国には珍しい? 仏の茂助と呼ばれた吉晴に迫ってみましょう。

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主家が破れて牢人生活

堀尾吉晴は、尾張の国人堀尾吉久の子に生まれました。吉晴こと仁王丸の評判は世間知らずの温厚なおぼっちゃんとイマイチ。おまけに美女のような優男。そのため16歳の時に一番首をゲットするも、どうせ拾い首(仲間が討ち取った敵の首を拾うこと)と、卑怯者呼ばわりされるほろ苦デビューをかざります。

しかし翌日、味方が破れて慌てて敗走する中、吉晴は一人、戻ってこない若党を心配して馬から降りて敵方に探しに行きます。周囲が驚く中、若党と合流して堂々と引き上げてきました。その勇敢な姿に人々は、「昨日の一番首もホンモノだ!」と一日で立派な若武者へと評価急上昇。

ただし評価は上がっても人生はどん底に。この時の浮野合戦(1558年)で堀尾家が従っていた岩倉織田氏が一族の織田信長に敗北したため吉晴は父とともに牢人になってしまいました。

5年間の牢人暮らしについては伊勢、尾張を放浪したのち、美濃で猟師をしていたといわれています。この美濃で運命の出会いが!

稲葉山城の間道に秀吉を案内する堀尾吉晴:Wikipediaより引用

猟をしていた吉晴は信長の家臣、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に気に入られ、家臣に召し抱えられたのです。まだ藤吉郎が城主になる前のこと。美濃攻めでは吉晴が間道を案内したと伝えられます。

以降、吉晴は秀吉の戦いのほとんどに従い、運命が大きく切り開かれていくことになりました。

仏の茂助が大暴れで鬼の茂助に!

そんな吉晴のあだ名は「仏茂助(もすけ)」(茂助は通称)。元々の性格に加え、牢人時代の辛苦が苦労人吉晴を誕生させたのでしょう。温厚で誠実な人柄で知られました。

これはのちのことですが、息子にも武功自慢をせず、逆に息子が無理やり聞き出したと言われています。また、牢人にも心を砕き、自らも多く雇ったり、仕官先を紹介したりと謙虚で気配りの人でした。

ただし、時は戦国時代。仏のような人が武将で大丈夫?と心配になりますよね。でもご安心を。吉晴もやる時はやりました! それも規格外の勇者だったのです。

ハンパな活躍ではありません。信長に何と言われたと思います?

1570年の姉川の合戦前には偵察中に敵方の物見の兵と戦って首を上げ、信長から認められます。以後も吉晴が数々の武功をあげたため、ついに信長に「堀尾が首を取るのは毎度のことだから首を持参しなくてもいい」と言われたのです。

秀吉からも、丹波の一揆で首級36をあげた時に

「仏茂助なんて似合わない名前だ。 仏は人を助けるのに、かえって首を取っておかしくない? 今日より鬼の茂助だ」と言われます。その暴れっぷりゆえについにあだ名も仏茂助から鬼茂助に変更。鬼ですよ鬼! 仏から鬼にしてしまえなんて乱暴ですが、武将にとっては最高の褒め言葉かも!?

「汝が命を3度くれけるよな」

しかも吉晴はその鬼っぷりでとうとう秀吉を泣かせてしまいます。もちろん怒らせたわけではなく、感動の涙。秀吉からは「汝が命を3度くれけるよな」と言われています。

『賤ヶ嶽大合戦の図』 :Wikipediaより引用

1度目は織田信長亡き後、秀吉が天下獲りを目指して柴田勝家と戦った賎ヶ岳の合戦。戦いの直前、秀吉は美濃の大垣に布陣していましたが、賎ヶ岳に陣を移すことになります。ところがこの時大垣城主の一族氏家行広が柴田方につく気配を見せました。

秀吉は吉晴を城に残し、「行広が心変わりした時はよろしく頼む」と託します。行広が裏切れば吉晴は殺されるでしょう。命をくれという秀吉に対し、吉晴は「もとより一命をささげる所存」とあうんの呼吸。しびれますねー。

結局、行広は裏切らず、吉晴も賎ヶ岳の合戦に参加し功績をあげます。吉晴は若狭高浜城主1万7000石を与えられ、大名へと出世しました。

堀尾吉晴:Wikipediaより引用

2度目は秀吉が徳川家康と争った小牧・長久手の戦い。この戦いでは秀吉がいったん引きあげることになりました。しかし敵の前で退くと敵に追撃され、厳しい戦いになることも。そのため最後のしんがりの役目が大切でした。秀吉がその大役を命じたのは吉晴。吉晴は「安心してゆっくり川を渡ってください。私が最後を守りますから」と死ぬ覚悟でこの務めに挑みます。

この退却では吉晴は敵の大軍に囲まれますが、巧みに指揮して窮地を切り抜けました。

3度目は1593年、すでに秀吉は天下人で、吉晴は遠江浜松12万石の大身になっていました。この時、秀吉は関白を譲った甥の秀次の不行跡を知り、秀次に出頭を命じます。吉晴は使者の一人に選ばれました。

その際、秀吉は吉晴に「向こうが拒んだらどうするか」とたずねます。吉晴は「ご安心を。よきに計らいます」。1度目と同じあうんの呼吸。何も言わなくとも「秀次様が抵抗すれば差し違えて死ぬ覚悟です」「そうか」とアイコンタクト。

秀吉は「汝は命を3度くれけるよな」と涙ぐんだといわれています。

気持ちは優しくて力持ちといったその誠実な人柄も秀吉に愛されたのでしょう。

調整能力も発揮した吉晴

秀吉を泣かせるほどの鬼茂助と呼ばれて活躍する一方で、仏茂助と呼ばれた温厚で誠実な人柄は健在。人望もあり調整能力にも長けていたため、豊臣政権が武功から内政能力を求めるようになっても重宝されます。

30代のころから因幡鳥取城の吉川経家、備中高松城の清水宗治など重大場面での敵将の切腹の検死役という役目を任されています。開城は一歩間違えれば命を狙われ、味方の勝利を台無しにしかねない重大な役目。この大役を任されたのは秀吉の信頼のあつい証です。

晩年の豊臣政権では人柄と調整能力を高く買われ、中村一氏、生駒親正とともに中老を命じられました。これは豊臣政権を支える5大老と5奉行の間を調停する役割をもっていたといわれています。

秀吉が亡くなると、5大老の筆頭、徳川家康が豊臣家の許可なく勝手に他の大名と婚姻関係を結ぶなど独善的な動きを見せました。

他の4大老と5奉行が怒り、家康と一触即発になりますが、吉晴は「5大老5奉行が協和すべき」という秀吉の遺言を盾に、家康から秀吉の遺言を守ると誓詞を出させると、9人からも誓詞をとって何とか争いをおさめたのです。

吉晴は早くから家康に親しくしていたようで、石田三成の失脚後、吉晴は家康が伏見城に入ることができないかと相談されます。すると吉晴が4奉行を説得し、その総意として大老たちもウンと言わせるという調整能力を発揮。今の政治家たちものどから手が出るほどほしい人材でしょう。

「鬼茂助」のエピソード

仏茂助ながら、時々「鬼茂助」をぶっこんで派手にやらかしてくれるのも吉晴の魅力でした。

小田原攻めの後の陸奥の南部家の騒動の際には、自軍の働きを監督する目代という役目に指名されます。

ところが吉晴、ここではとんでもない「鬼茂助」エピソード。「俺も戦場で暴れたい」と軍議を欠席し、勝手に先陣を切って戦いに参加してしまうのです。

本来ならば軍令違反でしょうが、九戸城を落すなど大活躍したせいか秀吉から大絶賛。仏のように優しくても、戦いではついつい鬼になってしまう。上司に好かれる武将のコツかもしれませんね。

関ヶ原合戦前には、吉晴はまさかの事件に巻き込まれて「鬼茂助」を発揮します。合戦の直前、吉晴は家康に従うことを決め、帰国することに。その途中、三河国池鯉鮒(ちりふ)において三河刈谷城主・水野忠重、美濃加賀井城主・加賀井重望(かがのいしげもち)らと酒を酌み交わします。

この時、加賀井が突然水野に斬りかかって殺害。加賀井は石田三成方から命じられていた家康殺害ができなかったため、家康の親戚の忠重を殺したともいわれています。

ここで「鬼茂助」はヤバっと逃げたりしません。とっさに加賀井を取り押さえて刺殺します。ところが部屋に飛び込んできた水野の家来たちは吉晴に主君を殺されたと勘違い。

「えー俺?」今度は吉晴が水野の家来に襲撃されるというまさかの展開。10ヶ所以上の傷をおいながら危機一髪で逃げ出すという、ドタバタサスペンスの事件もありました。

松江城築城

この後、関ヶ原で息子忠氏が活躍したこともあり、堀尾家は出雲・隠岐二十四万石を与えられました。そして築いたのが松江城。現存する12天守のうちの一つです。千鳥が羽を広げたような姿から千鳥城とも呼ばれ、黒塗りの下見板で覆われた重厚で風格漂う城です。吉晴の人生と重ね合わせて眺めればより感慨深いですよね。

そんな吉晴も最晩年はプライベートで苦労しました。家督を継いだ忠氏が吉晴に先だって亡くなってしまうのです。忠氏は神魂神社の神域である池を無理やり見たため祟られたとも、マムシにかまれて死んだともいわれるちょっと不可解な死に方です。この後、吉晴が復帰して忠氏の子で幼い忠晴を後見して政務をとります。

しかし筆頭家老夫妻(妻が吉晴の長女)が自分たちの子を跡目にしたいと忠晴の暗殺を画策。ことはバレて筆頭家老とその子は死罪となりました。吉晴の次女も婦人病を苦に若くして自殺しており、仏茂助も悩みは多かったようです。

まとめ

吉晴は、秀吉に従って転戦しながら乱世の出世街道を駆け抜けました。途中でしくじった秀吉の家臣は少なくありませんが、苦労人の吉晴は秀吉、家康の時代を実直に生き抜き大名に。しかも血なまぐさい戦国の世に、「仏茂助」と言われ続けるなんてすごいですよね。ストレス凄そうですが・・・。鬼となって発散したのでしょうか。

でも、仕事を頑張りながら謙虚に実直に生きた人が最後にドリームをつかむ! これは現代人にとっても嬉しい法則ですよね。

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