後北条氏の勢力は北条氏綱(ほうじょううじつな)から氏康(うじやす)の時代にどんどん拡大していきました。
その陰には優秀な家臣たちがいたわけですが、その中でも猛将として名高いのが北条綱成(ほうじょうつなしげ)。
その能力によって北条一門に迎えられた彼は、「地黄八幡(じきはちまん)」と称された名将でした。
では、彼の人生についてご紹介したいと思います。
謎多き前半生
綱成が生まれたのは永正12(1515)年。
諸説ありますが、父は今川家臣の福島正成(くしま/ふくしま まさしげ/まさなり)とも言われています。
大永元(1521)年に、父を含む福島一族が武田方に討たれたため、北条氏綱(ほうじょううじつな)を頼って落ち延びてきたという説があります。
その一方で、天文5(1536)年に今川家の家督争いである花倉の乱(はなくらのらん)において、父が今川義元ではなく異母兄側を支持したため討たれてしまい、同じく北条氏綱の下に身を寄せたとも言われています。
いずれにせよ、少年~青年期にかけて、北条氏綱を頼ってきたことは確かなようです。
武芸に秀でていたという綱成は、北条氏綱に気に入られ、妻には氏綱の娘を迎えました。
これで北条一門の仲間入りを果たし、ついには北条姓を与えられたんですよ。
どれだけ見込みある若者だったかわかりますよね。
また、氏綱の息子・氏康(うじやす)とは同い年だった綱成ですが、実は北条の当主にしようという動きもあったとか…。
というのも、少年時代の氏康は、はじめて武術の訓練を見た時にびっくりして気絶するくらい頼りない感じだったからなんですね。
しかしそれは実現することはなく、綱成は氏綱の義理の息子、氏康にとっては義兄として、北条氏を支えていくこととなりました。
「地黄八幡」の猛将誕生
綱成は、氏綱の息子・為昌(ためまさ)の後見役を命じられました。
その後為昌が若くして子供もいないまま亡くなると、年長ではありましたが、綱成が養子に入る形で為昌の跡を継ぐことになったんです。
そして、綱成は玉縄城主となりました。玉縄城は、一門の中でも重鎮が配置される鎌倉の防衛拠点でしたから、氏綱からの信頼が厚かったことがここからもわかりますね。
そして、綱成は北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)のうちの「黄備え」を率いるようになります。
北条家は軍を5つの色に分けて編成しており、そのうちのひとつだったというわけです。
これを率いることができるのもまた、一門か最高クラスの家老だけだったそうですから、綱成の存在感はすごいですよね。
しかもこの時はまだ20代なんですから、びっくりです。
武芸の神である八幡大菩薩を信仰し、毎月のように祈願をしていた綱成は、朽葉色(黄色っぽい色)の旗に「八幡」の文字を記していたそうです。
その強さもあって、彼は「地黄八幡(じきはちまん)」と称され、敵はその旗を見た途端に士気が下がってしまったそうですよ。
そんな旗を掲げ、綱成は自ら軍の戦闘に立ち、
「勝った!勝った!」
と叫びながら突撃していくスタイルだったそうです。
指揮官の突進を見ると味方の兵たちの士気は大いに高まり、いつしか綱成の率いる黄備えは常勝軍団として恐れられるようになっていったんです。
半年の籠城を耐え抜いた河越夜戦
河越城:Wikipediaより引用
この頃の北条家は、関東の山内上杉(やまのうちうえすぎ)家や扇谷(おうぎがやつ)上杉家、時折越後上杉家などと争っていました。
そこに、甲斐の武田信玄や駿河の今川義元が絡んでくるような状態だったんです。
鎌倉を追われた古河公方も絡んできて、関東の情勢は非常に複雑でした。
こんな中で、山内上杉家と扇谷上杉家、そこに古河公方が連合して、北条家へ攻撃を仕掛けてきたんです。
その矛先が、綱成が守っていた河越城でした。
綱成が率いる兵は3千。
対する連合軍は8万とも伝わる大軍でした。
しかも、頼みの氏康の援軍はというと、当時駿河の今川方面に出ていて、そう簡単に戻って来られる状態ではなかったんですね。
大ピンチに陥った綱成ですが、兵を鼓舞し、何と半年もの間この包囲戦を耐え抜いたんです。
その陰には、氏康が調略によって確保した補給ルートの存在もありました。
この主従、なかなかいい連携プレーをしてますよね。
そして、戻ってきた氏康は綱成を助けるために奇襲を考えます。
その作戦を伝えるため使者となったのが、氏康のそばにいた綱成の弟・綱房(つなふさ)でした。
絶世の美男子だったという綱房は、彼の美貌に見とれてしまった敵の包囲網を堂々と突破し、河越城に入って綱成に策を知らせたそうですよ。
女装してたなんて話もあります。
緊迫した状況だというのに、そんなことがあるのか!って感じですが、こんなこともあるのが戦国時代の面白いところ。
てことは、綱成もけっこうイケメンだったんじゃないかと思われます。
氏康の奇襲策を伝えられた綱成は、氏康軍の夜襲に呼応して城から出撃します。
そして、例の「勝った!勝った!」の雄叫びと共に突撃し、連合軍を蹴散らして大勝利を収めたのでした。
これが、日本三大奇襲のひとつである「河越夜戦(かわごえよいくさ)」なんですよ。
ちなみに、他の2つは毛利元就による厳島の戦いと織田信長による桶狭間の戦いです。
北条全盛時代を支える
河越夜戦の後、北条家は相変わらず武田や上杉としのぎを削り合いながらも、関東での勢力圏をどんどん拡大していくことになりました。
安房(千葉県)の里見家とも戦いを重ね、国府台(こうのだい)合戦では綱成が活躍します。
緒戦は連係ミスにより多くの武将を失ってしまった北条軍でしたが、綱成はまだ諦めませんでした。
撤退すると見せかけると、勝利に気をよくして宴会を始めた相手方にすかさず奇襲をかけたんです。
地黄八幡の旗のもと、相手を大混乱に陥らせ、潰走させたのでした。
その後は武田信玄との三増峠(みませとうげ)の戦いで、敗戦ながらも綱成の鉄砲隊が相手の大将クラスを討ち取ったということもありました。
武田との因縁は深く、その後の深沢城の戦いでも睨み合います。
当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった信玄は、城にこもる綱成に脅しの矢文を放ちますが、綱成はそれを一蹴。なおも籠城し、信玄に抵抗の構えを見せました。
最終的には開城することとなってしまいましたが、武田を苦戦させたことは間違いありません。
信玄も敬服した地黄八幡
ちなみに、この時深沢城内で武田の兵は「地黄八幡」の旗を見て、綱成らが慌てて城を出て行ったと嘲笑しました。
しかし、信玄は
「そうではない」
とたしなめ、
「決して慌てて撤退して行った様子ではなかったから、次の戦のこともちゃんと考えているはず。おそらく必ず地の利を考え、必死の戦を仕掛けてくるだろう。その時はなかなか厳しい戦いになるはずだ。旗を捨てたのは彼ではなく、旗を持っていた者であるから、彼を笑うべきではない」
と言ったそうです。
そして、これを聞いた綱成は、
「恥辱を受けずに済んだ」
と信玄の言葉に感謝したそうですよ。
そして、この「地黄八幡」の旗は、「綱成の武勇にあやかるように」と信玄から小姓に与えられました。
この小姓こそ、後の真田昌幸(さなだまさゆき)。
真田昌幸:Wikipediaより引用
戦上手の名将となり、後に徳川家康をさんざん苦しめた彼の武勇の原点は、地黄八幡の旗だったのかもしれません。
今では長野県上田市の真田宝物館に保管されているんですよ。
まとめ
- 前半生には謎が多いが、北条氏綱を頼り、一門に迎えられた
- 「地黄八幡」の猛将として北条軍の中核となった
- 河越夜戦では半年間もの籠城戦を耐え抜いた
- 北条家の全盛期の戦で活躍した
- その武勇には武田信玄も敬服していたという
天正15(1587)年、綱成は73歳で亡くなりました。
この3年後、関東の覇者・北条家は豊臣秀吉によって滅亡します。
それを見なくて済んだのは、良かったのか、それとも悪かったのか…。皆さんはどう思いますか?
コメントを残す