主君に仕える以上、その命令はほぼ絶対的なものですよね。
いくら理不尽であっても、それに従うのが戦国時代のならいでした。
今回ご紹介する遠藤直経(えんどうなおつね)もまた、本意でなくとも主君の意に従い続けた武将のひとり。
しかし彼の場合は、自分の献策が容れられなくても、不満をおくびにも出さず、主君に忠義を尽くし続けたところが実にカッコいい生き様だったと言えるでしょう。
そんな浅井氏屈指の勇将について見ていきたいと思います!
浅井氏の譜代家臣の家に生まれる

浅井長政:Wikipediaより引用
遠藤直経が生まれたのは、享禄4(1531)年のことになります。
近江国坂田郡(滋賀県米原市)柏原庄に生まれました。
彼の先祖が鎌倉時代に近江に領地を与えられてやって来て以来続く、由緒ある家系だったようですよ。
父の代にはすでに近江の戦国武将・浅井氏に仕えており、譜代の家臣として確固たる立場を持っていました。
そんな譜代家臣の息子として生まれた直経は、後に主君となる浅井長政(あざいながまさ)の傅役(ふやく/もりやく:お守り、守り役)として仕えるようになります。
ちなみにこの浅井長政、後に淀殿など浅井三姉妹の父親となる人物です。
直経は長政より14歳上だったため、長政は彼には何でも相談するほど深い信頼を寄せていました。
ただ、当時の浅井氏を取り巻く状況はちょっと複雑だったんです。
長政の祖父・亮政(すけまさ)は勇猛な武将で、下剋上を成し遂げて主筋の京極氏を追いやるほどでしたが、長政の父・久政(ひさまさ)はその面影もなく、弱腰な感じだったんですよ。
そのため、せっかく京極氏を追い落としたというのに、近隣の別勢力・六角氏に脅かされるという困った状況に陥っていたのでした。
長政のクーデタを陰で助けた
久政の弱腰外交のおかげで、長政はほぼ無理やり縁組させられてしまいます。
もちろん相手は、六角氏の息がかかった武将の娘。
この時長政は元服したんですが、六角氏の主・六角義賢(ろっかくよしかた)の「賢」の一字を与えられ(これもほぼ無理やり)、「浅井賢政(あざいかたまさ)」と名乗らされたんですよ。
実は最初は長政じゃなかった…これ、ちょっと驚きました。
それでも長政(ここでは長政で統一します)は六角氏支配と弱気な父をどうにかすべく奮闘します。
それを支えたのは、直経でした。
わずか15,6歳の長政が六角氏相手に戦った時にも、直経が傍にいたそうです。
そして、その時の長政の雄姿にいたく感動したそうで、これが直経の長政への献身につながっていったわけですね。
やがて、長政はついに父・久政を排除することを決断します。
弱気で優柔不断(でも口出しはする)な主では、お家は簡単に滅びますからね。戦国時代ですから、それもアリです。
その時、長政がまず相談したのが、直経と一族の浅井政澄(あざいまさずみ)だったんですよ。
こうして長政は直経らの力を借りて父を追放し、クーデタに成功したのでした。
それを陰で支えた直経は、主君から絶大な信頼を受けることになったんです。
参謀格として厚い信頼を寄せられる
長政のクーデタ劇の陰でも相談されていたことから、直経は頭の切れる人物だったのではないかと推測できます。
ただの傅役ではなく、参謀に近い役割もこなしていたのかもしれません。
また、そうした役割を果たすに当たって必要なのが、情報収集。
直経には、この情報収集に実に強いポイントがありました。

忍びの者たちとのつながりです。
彼、伊賀忍者とコネクションがあったとも言われているんですよ。
そのつながりを示す逸話がひとつ。
かつては六角氏側でしたが、長政に招かれて家臣となった今井定清(いまいさだきよ)という武将がいました。
彼が、六角方に奪われた城を奪回する際、直経が夜襲をすすめたそうです。
この時、直経の妹婿が忍びの者たちと一緒に城に潜入し、合図の火の手を上げ、それによって兵が突入し城を奪還したんだそうですよ。
忍びは身軽にいろんなところに行けますから、諜報活動では大きな役割を果たしたと思われます。
この情報を元に、直経は様々な策を巡らせたとも考えられますよね。
信長暗殺を進言も…却下!
さて、そんなこんなで直経の主君・長政は、六角氏により結婚させられた正室を離縁すると、次の正室に信長の妹・お市を迎えていました。
政略結婚ですが、夫婦仲はとても良かったそうです。

しかし、直経は懸念していました。
信長という男の危険を、彼はいち早く察していたんですよ。
信長が長政を訪ねてやって来た時のことです。
信長は長政に対して
「いずれは2人で日本国を治めよう」
と言ったなんて話も伝わっているんですが、長政の傍に控えていた直経はそれを聞き、
「コイツ、相当ヤバい奴…!」
と感じていたんです。
そうですよね、信長がそんなこと言うわけないですよね…と思えるのは、私たちが後世の人だからなんですけど。
だからこそ、直経の眼力が冴えていたということがおわかりいただけるかと。
そのため、直経は思い切って長政に信長暗殺を進言したのでした。
しかし、長政は
「そんなことをしたら信義に反する」
とその言を容れなかったんです。
こうして信長を排除する絶好の機会を失ったわけなんですが、直経の心中は歯噛みする思いだったことでしょう。
「信義に反する」なんて、長政さん、アンタ父親追放してるじゃん! …というツッコミを猛烈に入れてやりたいです。
やはり、愛するお市の兄ということで、そんなことはできないという思いが強かったんでしょうか。
ただ、それくらいで長政への忠誠が揺らぐような直経でもありませんでしたけれどね。
直経、またも主張を却下される
この後、浅井氏を取り巻く状況が大いに変わってきます。
浅井氏と固い同盟関係にあった朝倉義景が、信長の上洛命令を無視し関係を悪化させたんです。
となれば、浅井氏は両者の板挟みになってしまい、同盟を取るか、姻戚関係を取るかというところまで迫られてしまったんです。
この局面において、直経は信長に付くべしと主張しました。
さっきは信長暗殺を進言しておいていったいなぜ? と思うところですが、これには直経なりの考えがあったんですよ。
朝倉義景はどうにもポンコツ、優柔不断で使えないということが判明し、直経はこれ以上彼とやっていくのは無理だと感じたんです。
一方、浅井氏の家臣として信長やその家臣たちとの接触の機会が増えたことで、信長の手腕が並みでないことを実感し、暗殺できないなら味方でいるべきと考えるようになったんですね。
しかし、長政が出した答えはまたしても直経とは逆のもの…
「朝倉を見捨てることはできない」
というものだったんです。
これが、長政の言う「信義」というものだったんでしょうか…。
それでも、直経は長政についていこうという気持ちを変えることはありませんでした。
主君の言を受け入れ、朝倉氏に味方し織田氏と戦うという方向に自らもまた進むことを決めたのです。
この主従、石田三成と島左近を見ているようです。
左近も、三成に何度策を却下されても「主は主」と最後までついていきました。
結果、2人はそれぞれが死に行きつくわけですが…長政と直経にもまた、そうした最後が迫りつつあったんです。
※島左近の記事はこちら
→関ヶ原の乱戦の中に消えた猛将・島左近、主に捧げた忠義と命!
信長本陣に迫るもあと一歩のところで果たせず
長政が朝倉義景との同盟関係を選んだことにより、元亀元(1570)年に浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した姉川の戦いが勃発しました。
直前には織田軍を退けていた長政ですが、今回はいっそう本気モードの信長がやって来ため、浅井・朝倉連合軍は大敗を喫してしまいます。
激戦のあまり姉川付近は血に染まり、今も「血原(ちはら)」や「血川(ちかわ)」といった地名が残っているほどです。
しかし、直経は敗走する軍とは反対方向へと駆け出していました。
目指すは信長の本陣。手には味方の武将の首がありました。

遠藤直経:Wikipediaより引用
「御大将はいずこ!? 首実検をお願いしたい!!」
そう叫ぶ直経は、織田方の兵に成りすましていたんです。
これがうまくいけば、信長の命を奪うこともできると考えた上での、決死の策でした。
ただ、信長の本陣まであと少しと迫ったところで、ひとりの武将が彼の前に立ちはだかります。
信長の馬廻(うままわり/護衛役)を務めていた竹中重矩(たけなかしげのり/竹中半兵衛の弟)でした。
重矩はかつて、浅井家臣のひとり・樋口氏に身を寄せていたことがありました。そのため、直経の顔を見知っていたんです。
策、破れたり。
こうして、直経は捕らえられ斬首となり、戦場の露と消えたのでした。
この3年後、浅井長政も信長によって攻め滅ぼされることになるのです。
まとめ
- 浅井長政の守り役を務めた
- 長政の信頼は厚く、何でも相談され頼られた
- 忍びの者ともつながりがあり、諜報活動も行ったらしい
- 信長暗殺を進言したが却下された
- 姉川の戦い直前、信長と手を結ぶことを進言するも、またも却下された
- 信長の本陣まであと一歩のところで捕らえられ、斬首された
主君が自分の意見を何度退けても、どこまでもついていった直経。
早々に見限るという手もありますが、彼のような、愚直なほどの忠義もまたカッコいいと思いました。
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