伊達政宗の右腕と言ったら、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)がまず挙げられるんですが、そんな景綱に匹敵する重臣が、伊達成実(だてしげざね)なんです。まさに政宗の右腕(というか左腕かも)として活躍した彼、実は一度政宗の下を出奔したことがあるんですよ。なんだかいろいろと複雑な事情がありそうですが…では、伊達成実の生涯をご紹介したいと思います。
成実と政宗はいとこ? それとも?
成実を語る上で、少し伊達家について整理しましょう。
成実は、伊達実元(さねもと)の長男として誕生しました。実元の兄は伊達晴宗(はるむね)、政宗の祖父に当たります。つまり、父方では政宗の従叔父(いとこ違い)になるんですね。
しかし、成実の母は晴宗の娘。ということは政宗の父・輝宗(てるむね)と兄妹なので、母方ではいとこ同士になるというわけです。なんだかややこしいですね。まあ、いとこだと思っておいていただければと思います。政宗とは1歳違いですからね。
実は伊達家、ゴタゴタが起きていました。
実元の父・稙宗(たねむね)の決定により、実元は越後(新潟県)の上杉家に養子に行くことになったんですが、これに兄・晴宗が猛反対。親子で争い始めてしまいます。結局、稙宗が隠居することでカタがつき、実元の上杉家行きはなかったことになりました。まあ、それで兄弟仲良くやっていくことにはなったんですが、ホントに東北の武将たちって肉親同士の争いが多いんです。最上の鮭様(最上義光/もがみよしあき)とかも父と揉めましたし。
ちなみに、実元が上杉家に行くことを既定路線に、上杉家に家紋が贈られたので、両家の家紋は似ていますよ。羽を広げた雀が二羽、向かい合っているものです。実元は養子に行きませんでしたが、家紋だけは上杉家で使われたんですって。
政宗の右腕(左腕)としての第一歩
元服した成実は、やがて家督を継ぎ、政宗を支えることとなります。同年代ですから何かと気安い部分もあったでしょうね。
しかし、政宗が家督を継いで間もなく、政宗の父・輝宗が安達郡(あだちぐん/福島県二本松市付近)の武将・二本松義継(にほんまつよしつぐ)との会談の場で拉致されるという事件が起きました。もちろん政宗は追っ手を差し向けますが、やむなく父もろとも相手を射殺することとなってしまったんです。
こうして、輝宗の弔い合戦が起きました。天正13(1586年初頭)年の人取橋(ひととりばし)の戦いです。
血気にはやる伊達勢でしたが、二本松側には援軍が加わり3万もの大軍となります。対して伊達側は7千。数で圧倒されてしまい、敗走することとなりました。
この時、19歳の成実はわずか500の兵で敵を食い止め、必死の思いで政宗を逃がしたんです。もうこの時点で成実は政宗の命の恩人。なくてはならない存在になったんですね。
伊達家反攻のきっかけ
政宗が家督を継いだ時、若いからと周辺諸将からはかなり軽く見られていたため、伊達領内へ侵攻してくる勢力が多かったんです。北は最上、南は相馬(そうま)・蘆名(あしな)と、周りはみんな敵だらけ…な状態でした。
しかし、この苦境を打開したのが、成実のある行動でした。
成実はまだ20歳でしたが、一度は伊達家を裏切っていた武将を再び味方に引き入れ、蘆名家との戦いを有利に導いたんです。それに引き続く蘆名家との「摺上原(すりあげはら)の戦い」においても大きな武功を挙げ、もはや伊達家が若造の集まりでないことを示したんですよ。
こうして、伊達家は東北でも有数の戦国大名となっていったわけです。その陰に、成実の功績があったことを忘れてはいけませんね。
「武」の成実、自ら人質となる
しかし、時代は政宗には味方しませんでした。
すでに豊臣秀吉は天下統一を完了しかけており、小田原の北条征伐の際、東北諸将にも参陣を求めてきたのです。
これに対しどうするかについて、政宗の両腕の意見は真っ二つに割れました。
「武」の人・成実は秀吉との戦いを主張。そして「智」の人・片倉景綱は小田原参陣すべきと主張したんです。
結局、政宗は大幅な遅刻ながらも小田原に行き、秀吉に従う道を選びました。この時の成実は東北にあって政宗の留守居を任されています。
その後、秀吉による奥州仕置(おうしゅうしおき/東北の領地再分配と検地)に反発した一揆が起きますが、実はウラで政宗が糸を引いており、事が露見して非常にマズい状況となります。
上洛を命じられた政宗は、黄金の磔柱を持参して覚悟を示すと、秀吉相手に見事な言い訳もかまして何とか減封と転封だけとなり、難を逃れます。
主がこんなことをしている間、成実は何をしていたかと言いますと、秀吉方の武将・蒲生氏郷(がもううじさと)の人質となっていたんですよ。
蒲生氏郷:Wikipediaより引用
普通、人質って妻とか子供がなるものですが、あえての成実が人質ということで、政宗も成実自身も覚悟を示したと言えますよね。それにしても、成実、よく政宗に付いて行きますよね。偉いと思いますよ、ホントに。
朝鮮出兵にも政宗と従軍した成実。
やっと落ち着くかと思いきや、またも事件が…!
秀次事件勃発、そして謎の出奔
豊臣秀次:Wikipediaより引用
文禄4(1595)年、秀吉の後継者となるはずだった関白・豊臣秀次(ひでつぐ)が、謀反の罪を着せられて切腹となってしまいました。
政宗は秀次と親しくしており、連座させられそうになったんですよ。
そこで、在京の家臣たちは二心がないことを示すために誓詞を提出しました。
この時、成実は二番目に署名しています。
実は、最初に署名していたのは政宗のいとこの石川義宗(いしかわよしむね)でした。義宗の父の代では一度政宗に反抗し、後に従っていたんですね。
なぜ伊達姓でもなく、いとこというだけでいちばん上の席次なのか…!と成実は内心不満だったとも言われています。
それが直接の原因だったか、はっきりとは言えませんが、この事件の直後に何と成実は出奔してしまったんですよ。
行き先は高野山とも、相模(さがみ/神奈川県)とも伝わっています。実はいつだったのかもはっきりせず、文禄4(1595)年から慶長3(1598)年の間とされており、実状が全然わからないんですね。ただ、出奔したことは間違いなさそうです。
出奔の理由は?
先に述べたように、家柄も戦功も格上であるはずなのに、席次が2番目だったことが不満だったとも言われています。
その他、独立を目指したとか、政宗の天下取りのための工作をしようとして出て行ったとも言われていますが、はっきりはしていません。そのため、「不満」というのが有力ではあるようです。
出奔後の成実は、上杉景勝に家臣にならないかと誘われていますが、「本来なら家臣になるべき奴に仕えられるか!(父・実元が上杉家に入っていれば主筋になったので)」と一蹴。
一方、徳川家康に仕えようとしましたがうまくいかなかった、ともされています。
そんな風にくすぶっていた成実の元に、片倉景綱ら政宗の側近が説得に訪れます。そして、意外とあっさり成実は政宗の下に戻ることを決めたのでした。いったいあの出奔は何だったの、成実!? 政宗も何事もなかったかのように受け入れているし…ホントは出奔劇なんてなかったんじゃないかと疑ってしまいます。でも、それだけやっぱり帰ってきて欲しかったのかなあ、とも思いますね。
亘理の名君として慕われる
亘理城(わたりじょう/宮城県亘理町)を与えられた成実はそこで内政に力を発揮し、「武」一辺倒でないことを証明します。特に、稲作に向かない土地に塩田を開発するというアイディアは見事でした。6千石余りだったこの地は、成実の開発が功を奏し、後世には2万5千石ほどにまでなったんですよ。
こうした業績により領民に深く尊敬された成実は、明治時代になってもその遺徳を偲ばれました。亘理城跡には、成実を祭神とした亘理神社が建てられるほどだったんですよ。
政宗との関係も、出戻り後もずっと良好でした。互いに手紙や贈り物をやり取りしており、政宗の「特に用はないが、手紙を書いてみた」という何とも彼らしい手紙の相手が成実だったなんてこともあり、心を許していた関係だったことがわかります。
政宗の没後も伊達家重臣としての立場は変わらず、当主の名代として江戸に参上し、将軍・家光に人取橋の戦いの思い出話を語り、家光を深く感動させました。他にも、政宗についてのエピソードなどを書き残しており、これが「成実記」となったんですよ。
ちなみに、成実のずっと先の末裔・邦成(くにしげ)は、戊辰戦争で幕府軍に属しましたが、戦後は北海道に渡って開拓を成功させ、賊軍出身でありながら男爵に処せられる功績を挙げました。それで、北海道にも伊達市があるというわけなんですよ。それにしてもこの開発手腕、成実を彷彿とさせるような気がしてなりません。
まとめ
- 成実と政宗はいとこであり、いとこ違いの関係でもある
- 人取橋の戦いでは、身を挺して政宗を逃がした
- 敵を調略することで伊達家を勝利に導き、反攻のきっかけを作った
- 秀吉方の武将の下に人質として赴いた
- 秀次事件後、謎の出奔をした
- 出奔理由は不明だが、結局政宗のところに戻った
- その後も政宗の信頼は厚く、領地では名君だった
若い頃からずっと政宗を支えてきた成実。
あの出奔劇は、一時の気の迷いだったとしか思えませんが、あっさり戻る成実とあっさり受け入れた政宗、そこが伊達家の面白さなんでしょうか。そう思っちゃいます。
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