完璧な「サムライ」よりも、欠点があるサムライの方が魅力的に感じませんか?中馬重方(ちゅうまんしげかた)はその典型。いろいろ無礼なところもあるんですが、憎めないヤツでもあり、忠義にかけては天下一品の男でした。関ヶ原の戦いにおける死闘「島津の退き口(のきぐち)」で、主君・島津義弘(しまづよしひろ)を守り抜いた数少ない生還者でもあるんですよ。さて、どんな人物だったのか…興味が沸いてきませんか?
島津の退き口
関ヶ原の戦いももはや終盤、西軍の敗色が濃厚になった頃、戦場の只中に孤立してしまったのが、島津義弘率いる一隊でした。
どこを見渡しても敵しかいない状態で、島津隊が取ったのは、なんと敵中突破。
そして「捨て奸(すてがまり)」という作戦が取られたのですが、これは、死兵となった小隊が全滅するまで敵を足止めし、その隙に大将を逃がすというものでした。
元々、ここに集ったサムライたちは、主君・島津義弘のためなら命を厭わない者たちばかり。我も我もと志願者が出る中、主のそばに付き従い続けた大男がいました。
彼の名は中馬重方。
ちょっとどころかかなりの問題児でしたが、義弘に対する忠義は誰よりも篤いものだったんです。
では、彼の生涯を最初から見ていきましょう。
上司とウマが合わず領地没収も、義弘に拾われる
重方は、永禄9(1566)年に薩摩(鹿児島県)に生まれました。父も島津氏に仕えていたようです。
成長した重方は、後に島津氏の家老となる比志島国貞(ひしじまくにさだ)に仕え、15歳で初陣を飾った以降は数々の戦に参加しました。
大男で力もあり、何人斬り捨てようと自分は傷一つ負わないという、まるで本多忠勝のような武勇の持ち主でした。弓を扱わせれば強弓の射手だったそうです。
が、いかんせん比志島とウマが合いません。それというのも、重方の性格にちょっと問題があったようで…乱暴だったりとか礼を失していたりとか。当時の武士としては「大いに問題アリ」だったんですね。
そのため、領地や屋敷を没収されて蟄居処分にされてしまったんです。どれだけ悪いことしたんだ…と思いますよね。
こんな逸話があるんです。
ある時、重方は役人に収める年貢米を失敬してしまったんですよ。もちろん彼の家が貧しい暮らし向きだったということもあるんですが、このことを咎められると、彼は「自分は戦場で一番槍と一番首を欠かさない代わりに、自分の食べる米を殿に預けているようなもの。今日は食べる米がないので返してもらいに来ただけだ」といけしゃあしゃあと言ってのけたそうなんです。明らかに居直りですから、こんなこと言ってたらそりゃあ上司の印象も悪かろうと言うものですよね。

島津義弘:Wikipediaより引用
ところが、それを耳にした島津義弘はこう言ったそうです。
「あいつは剛の者で手柄も立てている。そんなに功績のある者を貧しくさせているのは自分の罪だから、見逃してやってくれ」と。
しかも、義弘は役人に謝った上に涙まで流したそうですよ。
ちょっとひねくれたところのある重方ですが、義弘には「こやつ、ただ者ではない」と見込まれていたんです。
義弘の大恩を忘れず、関ヶ原へ駆けつける
義弘が重方を高く買っていたのは事実で、重方が蟄居させられている間も、義弘がひそかに生活の援助をしていたそうです。
そして、文禄・慶長の役の際には義弘が蟄居を解いて朝鮮へと従軍させたんです。

この時の島津隊の戦いはすさまじく、「鬼島津」と呼ばれるほどの戦いぶりでした。おそらく、この陰には重方の働きもあったと考えられます。
まあ、「軍神」と呼ばれ崇拝された義弘のような器の大きな主でないと、重方は使いこなせなかったということなんでしょうね。
こうして功績を挙げ、それなりの禄ももらえるようになった重方は、義弘の恩を終生忘れることなく忠義を尽くすことになったのでした。
慶長5(1600)年、義弘がちょうど上方にいた時に、関ヶ原の戦いが起こってしまいました。
戦の準備などしていなかった義弘は、本国薩摩に援軍を要請しますが、なかなか集まらず困っていました。
さて、義弘が援軍を要請しているという報せが薩摩に届くと、義弘を慕う家臣たちは、われ先にと関ヶ原へ向かいます。
この時、重方は農作業の真っ最中でしたが、この話を聞くなり、「いざ関ヶ原へ! 」と家に戻る時間も惜しんで走り出します。戦の準備なんてもちろんしていませんでしたが、そこは中馬重方。上洛しようとしている他の武士の甲冑を強奪し、一目散に関ヶ原を目指したんです。いや、それはふつうにダメですってば…!
「島津の退き口」での活躍
おそらく重方が全力疾走で関ヶ原に向かっている最中のこと。
義弘は、最初は東軍に加わろうとしていたんですが、連絡の行き違いによって伏見城に入るのを断られてしまい、成り行きで西軍に加わることとなってしまいました。
しかし、西軍の石田三成の態度もかなり上から目線だったようで、義弘はすっかり気分を害し、戦場では静観の姿勢を取ったんです。
こうしている間に、薩摩から駆け付けた面々が集まって来ました。
その中には重方の姿もあり、義弘は
「大蔵(だいぞう/重方のこと)は必ず来てくれると思っていた」
と涙ぐんだそうです。
戦国屈指の名将にこんなこと言われたら、そりゃあ武士冥利につきるってもんですよね。
そして、西軍敗色濃厚の中、島津隊は敵中突破を決めたのでした。
これが戦国時代屈指の戦い「島津の退き口」となったんですね。
義弘の甥・島津豊久(しまづとよひさ)や家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)など、重臣たちが義弘を逃がすために次々と命を落とします。

このすさまじい退き口の最中、ひとりの敵が味方をなぎ倒しながら迫って来ました。
重方は得意の弓を構えました。しかし、相手の顔がはっきりと見えるようになってもまだ矢を放ちません。
敵の武器がついに重方の馬を真っ二つに切り裂いた…と思ったその瞬間、相手もまた地に倒れ伏しました。その胸には、重方が放った矢が命中していたんです。
超至近距離で弓を放つ技こそ、重方の得意技だったんですって。
主に馬印を捨てさせ、主の食べ物を奪う

何とか関ヶ原を脱出した義弘一行ですが、それでもまだ追っ手はやって来ます。
すると重方は、なんと、義弘の馬印を捨てさせたんですよ。
馬印は大将の居所を示す目印。これを戦場で奪われるということは、敵に命を取られるのと同じくらいの不名誉だったんです。それでも重方は、とにかく義弘を逃がすためにリスクを排除したわけです。
また、一行の疲労もピークに達していました。ちょうどそこへ、他の家臣が馬肉を持ってきます。これはもちろん義弘に献上するためのものでしたが、そこはやっぱり中馬重方。
「殿の籠を担ぐものが食わんでどうするのだ! 」とその肉を奪い取り、食べてしまったんだとか。重方論理でいえば、「自分たちが疲れ切ってしまったら、誰が殿を守るのだ(=だからまずは自分たちが食べた方がいいに決まってる)」ということみたいですよ。なんて破天荒。
こんな時でも義弘は静かにうなずいたというんですから、やっぱり器が大きいですね…!
と、こうして義弘一行はなんとか薩摩に帰りつきましたが、この時、300人ほどいた隊が80人余りにまで減っていたそうです。
そして、義弘は重方に50石を加増し労をねぎらいました。馬印を捨てたのも、肉を食べたのもみな、自分を守るため…と義弘はわかっていたんですね。そして、重方も主の思いを感じ、さらに固い忠誠を捧げようと決めたに違いありません。
関ヶ原を語ろうとするも…

時代は進み、徳川の天下となって戦国の世が終結を迎えます。戦国時代というもの自体を知る人々もだんだん年を取り、その数も減って来ていました。
薩摩では、戦を知らない若い藩士たちがかつての猛者たちの武勇伝を聞きに来るというのが常となっていたようです。
そんな若者たちがやって来ると、重方はきちんと正装して出迎えました。そして、固唾を飲んでその話に聞き入ろうとする彼らの前で、ゆっくりと口を開きます。
「関ヶ原は、……」
関ヶ原、の一言を口にしただけで、重方は言葉に詰まりました。そして涙を浮かべ、それ以上何も言うことができなくなってしまったそうです。
藩士たちは、帰り道で「今まで聞いたどの関ヶ原の話よりも素晴らしかった」と言い合ったとのこと。
「島津の退き口」から生還し、主君・島津義弘を守り抜いたかつての破天荒武者・中馬重方は、寛永12(1635)年に70歳でその生涯を閉じたのでした。
まとめ
- 「島津の退き口」は、島津隊の決死の敵中突破だった
- 上司と合わずに蟄居させられた重方だが、島津義弘に拾われた
- 義弘の恩を忘れず、関ヶ原へ駆けつけた(甲冑は奪ったが)
- 激戦の「島津の退き口」で自慢の武勇を発揮した
- 義弘を守るため、馬印を捨てさせ、献上する肉を食べてしまった
- 関ヶ原のことを語ろうとしても、言葉に詰まって話せなかったという
正直、扱いにくい人物だったでしょうが、何とも憎めないところがありますよね。
それを使いこなした島津義弘もまた、やはり名君だったんだなあとしみじみ感じました。
コメントを残す